二話 イズとゼスト

 エリスの婚姻が決定してからの日々は、感傷に浸る間を与えない程忙しいものとなった。広大な屋敷の譲渡や管理、使用人たちの再雇用先の調整、調度品の売却など、毎日多くの人間が屋敷に出入りし、エリスは覚えきれないほどの人と話し、数えきれない書類に目を通し、署名し続けた。


 そうして今日も濃い一日が終わり、ぐったりと自室のベッドに横たわる。なじみのある物はすでに北の地に向けて箱にまとめられ、家具が少なくなった自室は、まるで借り物のようだった。(あと3日でここを発つのね)エリスは机に置かれた書類の山に目を向ける。ハナと領主の座をかけて競うことが決まった時点で、領主の仕事に関する書類はまとめ始めていた。結果がどちらに転んだとしても、必要になるものだからだ。仕事は、日々忙しく、ゆっくり話すことがほとんどなかった父との数少ない思い出であり、父の死後はエリスが全力で守ってきたものだ。


 何とも言えない喪失感がエリスを包む。領主の仕事を失った自分を想像したことがなかった。父の跡を継ぎ、この地を守るために日々奔走するものだと疑うこともなく、ましてや見知らぬ土地に婚姻という形で放り出されるなんて考えもつかなかった。(私はどうなってしまうのだろう)沈んでいく夕陽をぼんやり眺めていると、ドアをノックする音がした。


「お嬢様、お夕食の準備が整いましたよ」現れたのは、背の高い細身の女性。エリスの世話係、イズだった。イズは起き上がろうとしたエリスの傍にさっと寄り、毛布をかける。「そのままお休みになっていてください。あと夜は冷えてきましたからね。お部屋に火を入れましょう。」「そうね」「お嬢様、お食事はお部屋にお持ちしましょうか?」「そうしてもらおうかしら」イズは何か言いかけたが、さっと部屋を出ていった。エリスのことが心配で仕方ないという様子が痛いほどエリスに伝わった。イズは若くしてこの屋敷に奉公した農村出身の娘で、裏表のない仕事ぶりが目に留まり、産まれてすぐ母と死に分かれたエリスの世話係になった。父は大抵屋敷を空けており、家族というより同居している偉い人という感覚だったエリスにとって、イズは母のような存在であり、信頼できる数少ない人でもある。エリスの処遇を聞いた時には号泣し「お嬢様はこんなにも頑張ってきたのに、なぜ神はそのような無慈悲な仕打ちをされるのです」とエリスを抱きしめた。そして、北の地にも同行すると頑として譲らず、父の執事を務めていたゼストと共に今も屋敷に残り、旅の準備をしているのだった。


「私が作った料理ですから口に合うかどうか…」イズが盆を運んできた。「いいの、有難う」父の仕事の手伝いを頼まれ、寝食を忘れる勢いで自室にこもっていると、イズは時々夜食を作ってくれた。料理人による繊細で上品な味付けもよいが、イズの素朴な料理もエリスは好きだった。「料理人たちに早く暇を出したのは、その間イズの料理が食べられるからよ。」具だくさんのスープとパンが湯気を立てている。イズは困ったように「じゃあ、あと3日頑張らないといけませんね」と笑った。エリスもふっと笑い、起き上がって食事を始める。「北の地はもっと寒いでしょうね」「たくさん毛皮や毛布を積みますから、心配しなくても大丈夫ですよ」とりとめのない話をしながら、静かに時間が過ぎていく。


 再びノックの音。「ゼスト。食事は終わっているから入ってくれて構わないわ」「失礼します」初老の男が静かに入ってくる。きれいに整えられた白い頭髪と髭、背筋をぴんと伸ばした姿はまさに執事といった雰囲気がある。「何かあったの?」「はい、実は…」一瞬言いよどみ「明日クニグリーク家のリヴ様とハナ様が面会を求めていらっしゃるのですが、如何いたしましょうか。」「変な組み合わせね」イズに食器を下げてもらい、食後の茶を飲みながらエリスは他人事のようにつぶやいた。「…問題ないわ。一応仕事に関わる書類もまとめ終わったことだし、ついでに渡しましょう」「かしこまりました」ゼストは深々と一礼し、踵を返す。


「ねえ、ゼスト」「はい、お嬢様」すっとエリスに向き直る。「北の地ではきっと身なりすらろくに整えられないわよ。それでも、行くの?」「勿論です」ゼストは穏やかに微笑む。「私の仕事はリグランタ家の誇りをお持ちの方にお仕えすること。そのお方は、エリスお嬢様ただおひとりです。」「人生の重要な判断を誤るなんて、貴方らしくない。」エリスは首を振る。「こう見えて、若い時分は、各地を放浪しておりましたから、実は少し楽しみなのですよ。」ゼストは微笑み、再び一礼し、静かに部屋を出ていった。(私もしっかりしなくては)気が付けば日は落ち、エリスのドレスと同じ藍色が空を染め始めていた。


 エリスはランプの明かりをつけると、ハナに渡す書類の再確認を始めた。手と頭を動かすのは、散らかった気持ちを鎮めてくれる。よく「こんなにお若いのに御父上のお仕事を?」「着飾って遊びに出たい年頃でしょうに」と言われることがあったが、エリスはむしろ愛嬌を振りまき、実のない会話をする社交の場に出る方が苦手だったので、仕事に没頭できることは幸せすら感じるのだった。だが、ふとリヴのことを思い出して手が止まった。


 クニグリーク家の末子であるリヴは、今回の事件が起きる前までは、一応婚約者の関係だった。親同士が勝手に決めたもので、おそらくクニグリーク家としては、リグランタ家に繋がりを持たせる手段と考えていたのだろう。父がなぜ明らかに怪しい婚約を受け入れたのか不明だが、そのような経緯で、リヴは幼い頃から気まぐれに遊びに来ていた。掴みどころのない雰囲気は先が読めず、ある程度先を見越して行動したいエリスとは正反対だった。リヴの無茶な行動のせいでとばっちりを受けて父やゼストに叱られたこともあり、エリスにとっては歓迎できる存在ではなかったが、不思議と嫌な気持ちにさせない人でもあった。一緒に怒られた記憶もけろりと忘れた様子で呑気にまたやってくると、仕方ないなあと思いつつ、まるで来るのを楽しみにしていたような錯覚を覚えたのだった。


 リヴが習いたての弦楽器を演奏してくれたことが、懐かしく思い出される。エリスが北の地に行くと発表された時、リヴは驚いた表情の後に、すっと感情を無くした顔をしていた。領主の婿になるという未来が絶たれたことへの失望だったのだろうか。少なくともリグランタ家の婿になれば、エリスが領主の仕事、リヴが社交の仕事と、お互い得意なことをして生きていけただろうから。(彼も犠牲者ね)エリスはさっと雑念を打ち切ると、再び仕事にとりかかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る