推しが死んだ
虹星まいる
推しが死んだ
友人に誘われて始めたソーシャルゲームに登場するキャラクター、酒場の歌姫アズリ。
ほとんど一目惚れに近かった。栗色の長髪をポニーテールにまとめ、お淑やかなドレスを身に纏ってステージ上で歌う一枚絵。その絵に付随する【幼い妹たちを養うため、今宵もアズリは歌い続ける】という短いテキスト。健気で可愛らしいその姿に胸がときめいた。
自分の心に芽生えた感情が恋だと気づくまでにはそれなりの時間がかかった。まさか初恋相手が二次元の、しかも同性の美少女キャラになるとは思いもしなかったからだ。
推し。
その概念を知ったのはアズリに惚れて間もなくのことだった。瑚瑠璃にとってのアズリは推しに他ならなかった。
それから、瑚瑠璃の学生生活は全て推しに捧げられた。推しのイラストを描いたり、小説を書いたり、コスプレ衣装を作ったり、恋心を綴った短歌を詠ってみたり……ごくごく普通の女の子だった瑚瑠璃は推し活を通じて特殊な技能を数多く習得した。
ここまで瑚瑠璃が創作活動にのめり込むようになったのは、公式からアズリの供給が全く無いからというのも理由の一つだった。
アズリが登場するゲーム──勇者とステラの幻想奇譚、通称ユウステ──のキャラクターにはレアリティが設けられている。上からUR、SSR、SR、R、Nの五段階で、アズリはレアリティNの貧弱キャラ。ストーリー本編とは何の関わりもないただのモブだった。
そんな彼女がゲーム内で出番を与えられるはずもなく、公式から発表されているアズリはサービス開始から七年が経った現在でもイラスト一枚とテキスト一文以外に何も無い。
──無いのならば、生み出すしかない!
もはや狂気とも呼べる愛で瑚瑠璃は今日まで推し続けてきた。推しの供給が無いことを嘆くより前に手を動かす。推しの存在が公式から忘れられていたとしても愛を叫ぶ。
そんな良くも悪くも一途な愛を貫く瑚瑠璃だったが、ある日、何の前触れもなく地獄に叩き落とされることになった。
【勇者とステラの幻想奇譚 サービス終了のお知らせ】
夜。ベッドに寝転がりながらSNSを眺めていた途中。そんな情報が目に入った。
「は? え?」
鈍器に殴られたのかと錯覚した。それぐらい、強烈な衝撃だった。
いや、誰かが流したデマなんじゃ──と思った数舜後、公式からの発信だったことに気がついてトドメを刺された。
「アズリが死ぬってこと……?」
一般的に公式からの供給が途絶えたキャラは事実上の死亡と見做される。悲報こえて訃報。絶望的な報せに滂沱のごとく涙が溢れ出してくる。
サービス終了まで約二か月。それがアズリに告げられた余命だと思うと、瑚瑠璃にはとても耐えられなかった。
◇
アズリの死もといユウステのサ終(サービス終了の略)が決定してから数日の間に界隈では様々な動きがみられた。オフライン化を望む署名を集める人、素直にゲームを辞めていく人、SNSで信者を煽る人、動画投稿サイトでネタにする人。
コンテンツにかけた時間もお金も愛情も関係なく、ユーザーは平等に取り残される。それがソシャゲのサ終である。
かたや数十万円単位で金を突っ込み、青春のすべてをユウステに捧げた瑚瑠璃はどうなったかというと、言わずもがな絶望していた。寝ても覚めてもアズリのことばかり考えて涙で枕を濡らす日々。
最近はSNSを開くことも、推しの二次創作をすることもなくなった。大学とバイト先と自宅を行き来するだけの毎日。今日も今日とて無気力な瑚瑠璃はベッドの上でアズリとの思い出を回想することしかできない。
思い出すのはこれまでの七年。
初めてアズリと出会った日の衝撃。アズリとの妄想を認めたSS。SNSに投稿したファンアート。指に怪我をしながら作り上げたコスプレ用ドレス。イメージカラーの栗色でリフォームした私室の壁紙。いつでもデュエットできるように練習した歌。
愛に溢れた思い出が駆け抜けていった後──残されたのは虚無感だった。
壁に飾られたアズリのポスター(ゲーム内の一枚絵を高画質化しながら拡大した自作)を凪いだ瞳で見つめる。手を伸ばす。その手はアズリに届かない。
ずっと、ずっとそうだった。
アズリはいつだって次元の壁の向こう側にいて、瑚瑠璃の愛が届いたことなんて一度もない。二次創作の中では両思いだったが、結局それは妄想の産物に過ぎない。
ユウステのサ終を告知されて現実に引き戻された。現実にアズリはいない。
「私の愛って何だったんだろうね……」
消え入るような独り言がこぼれる。
壁に掲げられた愛しの人は、そんな瑚瑠璃の助けを求めるような呟きにも微笑を返すだけだった。
ユウステのサ終発表から一か月が経過した。この頃になると嵐のような悲しみは過ぎ去っていたが、相変わらず瑚瑠璃は傷心したままだった。
SNSには復帰した。「ご心配をおかけしました」と一言投稿すると、たちまちフォロワーからメッセージが飛んできた。
『この度はご愁傷様です』『他人の推しなのに我がことのように辛いです』『次の推しは決まりましたか?』
ときどき的外れなものも混ざっているが、大体は瑚瑠璃を慰めるものだった。界隈の端で潜むように生きている同志の優しさに心温まる。
送られてきたメッセージに個別の返信をしている途中、気になるものを見つけた。
『もう二次創作はしないんですか?』
瑚瑠璃は眉間に皺を寄せて返事を書く。
『今はメンタルがボロボロなので無理です。立ち直れたら、その時にまた考えます』
瑚瑠璃はそう返信して、スマホをベッドに投げつけた。
「……できるわけないじゃん」
アズリとの妄想を現実世界に召喚する気力は完全に枯れていた。空想の世界の彼女をどれだけ愛しても、自分が報われることなどないと気づいてしまったから。
「アコちゃん、結婚したんですって」
夕食の時間。母親が放った一言は瑚瑠璃の心を不穏にざわつかせた。
アコちゃん、というのは瑚瑠璃の幼馴染である。小学校を卒業してから交友が途絶えていたため瑚瑠璃は近況を知らなかったのだが、どうやら結婚したらしい。
「なんでママがそんなこと知ってんの?」
「アコちゃんのお母さんから聞いたの。スーパーでばったり出くわして」
「瑚瑠璃は彼氏いないのか」
会話に口を挟んできたのは父親だった。他人の感情を度外視した豪速球の問いに瑚瑠璃は口に含んでいたものを吹き出しそうになる。
「ちょっとお父さん。今時はそういうこと気軽に訊いちゃダメなのよ」
「自分の子どもの恋愛事情は親として知っておくべきだと思うが……いきなり挨拶に来られても困るだろう?」
「それもそうねぇ。ルリちゃん、彼氏いるの?」
「いや、あの……いない」
「ですって」
「瑚瑠璃にはまだ早かったか?」
「でも、アコちゃんはルリちゃんと同い年よ?」
「そうか……」
娘の恋を案じる両親を前に居た堪れなくなる。アズリに現を抜かしていた七年の間に、同級生たちは真っ当な恋をして、真っ当な愛を育んでいたのだろう。瑚瑠璃は何の役にも立たない片思いしかしてこなかったのに。
自分の愛に意味はあったんだろうか。瑚瑠璃は近ごろ、そういうことばかり考えている。
愛に意味を持たせようとするのは愚かなことなのだろう。しかし、意味を与えてあげないと自分が惨めに思えて仕方がなかった。
相も変わらず、瑚瑠璃はベッドの上でぼんやりしていた。スマホを弄ってSNSを眺めるだけでたまの休日が終わろうとしている。
ユウステのサ終を受けて同志たちはそれぞれの道を歩み始めていた。新たな推し活を始める人もいれば、推しが息絶えようと変わらず愛を貫くと宣言する人もいる。
瑚瑠璃も岐路に立たされていた。アズリへの推しを続けるか、やめるか。
七年という月日は決して短くない。青春を丸ごとを捧げてきたのだから簡単に諦められるはずもない。今だって胸の中には推しへの恋情が燃え盛っている。
しかし、アズリには未来がない。たった一枚の絵と一文のフレーバーテキスト。それだけを残して彼女はこの世を去る。
いや、待てよ。瑚瑠璃は思う。もとよりアズリへの愛は一方通行だった。今さらアズリがこの世を去ろうが去るまいが、瑚瑠璃に関係ないといえば関係ないのだ。
いやいや、そうは言っても。このまま推し活を続けていいのかと瑚瑠璃は思う。同級生は地に足着いた恋愛をして家庭を持つに至っている。対する自分はアズリ一筋で生涯を過ごしていくつもりか? それは流石に無理があるだろう。
いやいやいや、そんな簡単に割り切れるほど単純な恋じゃない。どうしても諦めろというのなら、サ終なんかじゃなくてもっと前向きで納得できる理由じゃないと嫌だ。
「あーーーっ!」
瑚瑠璃、吠える。
いつまでも考えがまとまらないせいで頭がどうにかなりそうだった。
ユウステのサ終まであと二週間。瑚瑠璃は未だにアズリへの態度を決めかねていた。
焦る気持ちとは裏腹に答えが出ず悶々としていたある日、思いがけないところから希望の光は現れた。
瑚瑠璃のSNSに届いた一通のDM──差出人の名は『4m484r4』。
名前からしてスパムかと疑った瑚瑠璃だったが、そのメッセージを見て驚愕することになる。
『初めまして。イラストレーターのシマバラと申します。サブアカウントでの連絡になってしまうことをご容赦ください』
『さて、私がRULI様に連絡を差し上げたのはアズリの件についてです。ご存じかと思いますが、私はかつてアズリのキャラクターデザインをしました』
『私事で申し訳ないのですが、ユウステのサービス終了が決定した今、アズリに関してRULI様に伝えたいことがあります。もしよろしければ、直接会ってお話ししていただけないでしょうか?』
『当日はアズリの非公開設定資料も持参します。ご一考のほどよろしくお願いいたします』
待ち合わせ場所になった喫茶店は休日の昼間にしてはやけに空いていた。知る人ぞ知る秘密の隠れ家とでも言うのだろうか。チェーン店にしか足を運んだことがなかった瑚瑠璃には神聖な場所のように感じられた。
窓際の席で待っていますという連絡を五分前に受け取った瑚瑠璃は目的の人物を見つけようとレトロモダンな雰囲気の店内を見渡して──目が合った。
「こ、こんにちは。シマバラさんですか?」
ぎこちなく、ちょっと上ずった声で瑚瑠璃が挨拶をすると、座っていた女性──瑚瑠璃と同年代か、少し年上くらいの容貌をしている──はスッと立ち上がって頭を下げた。
「初めまして、シマバラです。RULIさんですか?」
「はい。RULIです」
ネット上での活動名を名乗るのはやや抵抗感があるのだと瑚瑠璃は初めて知った。
シマバラの対面に座った瑚瑠璃はカフェオレを注文して改めて向き合う。
「本日は来てくださってありがとうございます」
「私もシマバラ先生とはお話ししてみたいと思っていたので、こういう機会をいただけて光栄です」
瑚瑠璃の言葉は半分本当で半分嘘だ。あのメッセージが届くまでシマバラにはあまり興味がなかった。ただ、アズリの非公開情報があると聞かされたら俄然話をしてみたくなった。
「それで、先生が私に伝えたいことって何でしょう?」
瑚瑠璃は早速、本題を切り出した。瑚瑠璃の頭の中はアズリのことでいっぱいで、早くシマバラの口からアズリのことを聞き出したかった。
「私の話をする前に、RULIさんに見ていただきたいものがあるんです」
焦らすんかい、と思ったが瑚瑠璃は口に出さない。シマバラは足元に置いていたハンドバッグから一冊の薄い本を取り出した。
「それは?」
「私が描いたアズリの同人誌です」
「アズリの同人誌⁉」
瑚瑠璃の絶叫が店内に木霊する。ハッとして周囲を見回すと、マスターがにこやかに微笑みかけてくるだけだった。
「えーと」瑚瑠璃は半ば混乱しつつ尋ねる。「公式絵師様がお創りなすった公式同人誌ってことですか?」
「いいえ、私が趣味で描いたものです」
「趣味」
「その本には私が思うアズリのすべてが詰まっています。この世界でただ一人、アズリを愛してくれたRULIさんに届けたくて描きました」
「私のためだけに描いたんですか⁉」
「はい。世界で一冊だけの同人誌です」
「ひいぃっ、畏れ多いです!」
「そう畏まらないでください。内容はたった五十ページしかありませんから」
「多すぎる⁉」
シマバラはSNSのフォロワーが数十万人もいる超人気イラストレーターで、決して暇なわけではない。そんな人が自分のためだけに漫画を描いてきたというのだから、身の程をわきまえたオタクである瑚瑠璃が縮み上がるのも無理はない。
「読んでくれないんですか?」
「読みます! 読ませていただきます!」
瑚瑠璃は丁重な手つきで同人誌を受け取り、シマバラの顔を見て、それからページを捲った。
アズリは小さな農村で生まれ育った。家族は父、母、妹が四人。決して裕福ではなかったが、幸せに暮らしていた。
しかし、ある年を境に村が凶作に陥った。ただでさえ貧しかったアズリの家は食べていけなくなり、アズリは単身で出稼ぎをすることになった。その後、酒場の給仕として働いていたアズリは才能を見出されて酒場の歌手に転身することになる。
客のリクエストに応じてチップを貰う。ちょっとでも音が外れたらヤジが飛び、知らない歌をリクエストされて断ると罵倒される。時間に対する報酬は良いものの、決して楽な仕事ではなかった。
酒場で歌い始めてからしばらくしてアズリの仕事に小さな変化があった。固定客が付いたのだ。その人はアズリの歌声に惚れこみ、毎日のように聞きに来てくれた。時には一緒に歌うこともあったり、似顔絵を描いてきてくれたり、親愛がこもった手紙をくれたりと、他の客とは一線を画す熱量でアズリを応援してくれた。
幾ばくかの時を経てアズリは酒場の歌姫と呼ばれるようになった。その二つ名を喜ぶべきか皮肉ととるべきかアズリには分からなかったが、名が売れたのは間違いなかった。
それもこれも、固定客──名をルリという──のおかげだった。ルリがアズリのことを喧伝し、一途に推した甲斐あって、何者でもなかったアズリに価値が生まれた。
アズリは思った。ルリの愛と期待に応えるために、もっと上のステージを目指したい。もっと素敵な歌手になりたい。それは初めてアズリが抱いた夢だった。
酒場で働き始めて七年が過ぎた。実家への仕送りも充分で、幼い妹たちも自立した。決断するなら今しかないと思った。
「旅に出ようと思うんです」
アズリはルリに告げた。自分の技術を磨くため、広く世界に歌声を届けるためにこの地をたつと。
力強いアズリの言葉に、ルリはその背中を優しく押した。
「いつか必ず帰ってきます。次に会う時は、ルリさんの愛に見合う歌姫として」
誓いを立てたアズリは笑顔でルリのもとを去った。
夢を叶えるために、今日もどこかでアズリは歌い続けている。
同人誌を読み終えた瑚瑠璃は静かに涙をこぼしていた。
「あくまでも私の解釈ですが、アズリは旅に出るのだと思います」
シマバラは慈しむような笑みを浮かべながらそう言った。瑚瑠璃にはそれだけで何を言わんとしているのか十二分に伝わった。
瑚瑠璃は涙を拭いながら鼻をすする。メイクが崩れた顔を見られたくなくて、やや俯き気味になった。
「もう、あの、こんな凄い作品を描いてくださったシマバラ先生に何とお礼を言っていいか……」
「……礼を言うのはこちらですよ」
「え……?」
「私はかつてRULIさんに救われました。だから、その恩返しをしただけなんです」
何のことを言われているのか分からない瑚瑠璃は戸惑う。対するシマバラはどこか緊張した面持ちで居住まいを正した。
「それを読んでいただいたのも、今日お呼び出ししたのも、RULIさんに感謝を伝えるためです。身の上話になってしまい申し訳ないのですが、どうか聞いてください」
そう言って、シマバラは自身の過去を語り始めた。
シマバラは今でこそ著名なクリエイターとして活躍しているが、最初は吹けば飛ぶような存在でしかなかった。
初仕事は十九歳のとき。新規ソーシャルゲームのキャラクターデザインだった。シマバラに任せられたのは最低レアリティのモブ。仕事の単価は安く、期待などされていなかった。
クライアントからの注文は『酒場で働く幸薄そうな女の子』という一文のみ。与えられた情報は『アズリ』というキャラクター名だけ。
暗中模索。初めての仕事で要領が分からなかったシマバラは苦労した。容姿も服装も一から考えなければならない。考えたうえで、ゲームの世界観を阻害してはいけない。
悩んだ末に絞り出したラフを提出するとクライアントからは『納期に間に合うなら何でもいい』の一言しか返ってこなかった。
何度も何度も描き直した。これでいいのか、もっと可愛く描くべきか、どうすれば薄幸を演出できるか……アズリを納品する頃には精も魂も尽き果てていた。
でも、達成感はあった。手応えもあった。自分の仕事が世に出て行くことの嬉しさもあった。
ゲームが正式にリリースされてからは毎日のように『アズリ』の名前で検索をかけた。
この世界にアズリのことを気に留める人なんて誰もいなかった。
称賛も非難も何もない。苦しい思いをして生み出したキャラクターが誰にも注目されない。その事実は初心なイラストレーターのプライドを圧し折った。
シマバラはアズリの存在を無かったことにした。私は何も描いてないし、何も生み出してない。そう自分に言い聞かせて──ペンを握れなくなった。
絵を描こうとするたびにちらつくアズリの顔。絵を描くことで第二、第三のアズリを生み出すことになるかもしれないと思うと、恐怖で身が竦んだ。
苦境に立たされたシマバラに転機が訪れたのはユウステのサービス開始から半年後。知り合いから『SNSにアズリ推しの変な人がいる』と教えてもらったことがきっかけだった。
噂の変人を見に行くと、確かに常軌を逸していた。発言は全てアズリに関わることだったし、愛が強すぎて妄想と現実の区別が付いていない感じさえあった。ファンアート、妄想四コマ漫画、ラブレター風怪文書。愛の表現は多岐に渡っていた。
それがなんだか可笑しくて、嬉しかった。
世界でたった一人、アズリのことを認知してくれた上に愛してくれている。アズリの生みの親として、一人のイラストレーターとして認められたような気がした。
すぐにでもアカウントをフォローしてお礼を言いたかった。けれど、自分がいきなり出張るのは違うかなと思った。だから、こっそりサブアカウントを用意して変人──RULIをフォローした。
ちょっとだけ自信を取り戻したシマバラはペンを握れるようになっていた。仕事がうまくいかなくて凹んだ時はRULIの笑える妄想話やファンアートで元気をもらった。
今の自分があるのは当然、シマバラ自身を応援してくれるファンのおかげだ。しかし、活動の根源にあるのはアズリを一途に愛してくれたRULIの存在だった。
「ずっと、お礼を言いたかったんです」
シマバラは真摯な眼差しで瑚瑠璃を見据えた。
「ユウステのサ終に打ちひしがれているRULIさんを見て、居ても立ってもいられなくなって……あなたの愛に救われた人がいるのだと伝えたかったんです」
その言葉を聞いて瑚瑠璃は目を見開く。
「私の愛にも……意味はあったんですね」
「はい。RULIさんの愛はアズリを通じて私に届きました……この言い方はちょっと違うかな?」
シマバラは小首をかしげてから言い直す。
「RULIさんの愛で立ち直れた私が、アズリに代わって愛を返すことができたんです」
──よかった。
瑚瑠璃は同人誌をギュッと優しく抱きしめる。
ずっとアズリに恋をしてきた。叶わぬ恋だとは分かっていた。それでも貫いた推しへの愛が、思わぬ形で瑚瑠璃のところへ返ってきた。
推しが夢に向かって頑張る姿を見られただけで、瑚瑠璃は幸せだ。
それから、二人はアズリの話で盛り上がった。秘蔵の三面図やラフ画、水着や浴衣といった別衣装バージョンのアズリを見せてもらって瑚瑠璃は興奮のあまり卒倒しかけた。
意気投合した二人は連絡先を交換して、その日は解散となった。
「RULIさんはこれからどうするんですか?」
別れ際、瑚瑠璃はシマバラに問われる。帰るか否かを訊かれているのではない。これからもアズリを推すのかを訊かれている。
「もちろん、アズリを推し続けます!」
瑚瑠璃は迷うことなく、屈託のない笑顔で言い切った。
◇
ユウステがサ終する日を迎えて、SNSは阿鼻叫喚の地獄絵図になっていた。推しとの別れを嘆き悲しむ声が目にもとまらぬ速さで流れていく。
そんな混沌としたタイムラインに瑚瑠璃もお気持ちを投下する。
『私は生涯、アズリ推しでいかせていただきます』
その発言にフォロワーはすかさず反応した。
『其方はそちら側の人間になったのだな』『そこから先は地獄だぞ』『私も共に逝こう』
オタクならではの団結力に瑚瑠璃はクスっと笑い『アズリは死ぬんじゃなくて旅に出るんだよ』と世界一幸せな解釈をフォロワーたちに教えてあげる。
やいのやいのと盛り上がっていると、シマバラの投稿も流れてきた。
『勇者とステラの幻想奇譚に登場するアズリというキャラクターのデザインを担当していました。アズリ、七年間ありがとう!』
シマバラの投稿には新規に描き下ろしたのであろうアズリの絵が添付されていた。
瑚瑠璃はすぐさまイラストを保存してスマホの壁紙に設定する。ありがとう神様、と瑚瑠璃は心の中で手を合わせた。
ユウステが終了するまでの短い時間で瑚瑠璃は思い残すことがないようにアズリの写真を撮った。ストーリーには一切出て来ないモブキャラのためスクショは図鑑ページとキャラクター所持一覧画面とパートナーに設定したホーム画面の三枚で終わった。
それから、ユウステはサーバーを閉鎖してサービス終了を迎えた。ユウステのアプリを閉じてSNSに戻るとそこはお通夜状態になっており、推しとの永別を悼むフォロワーたちに瑚瑠璃も合掌した。
『まだ起きてますか?』
シマバラからのチャットが届いたのはサ終から数時間後の深夜だった。
『はい、起きてますよ』
『よかった。少しお話ししませんか?』
テキストでのやり取りから音声での通話に切り替わる。
「深夜にごめんなさい」
「いえいえ、どうかしたんですか?」
「RULIさんが凹んでるんじゃないかと思って……」
「もしかして、励まそうと?」
「……そのつもりだったんですけど、元気そうで安心しました」
「全部シマバラ先生のおかげです。先生の言葉と作品にどれだけ救われたか」
瑚瑠璃は胸に手を当てる。ほんの僅かだが、脈がいつもより早くなっている。
「あの」瑚瑠璃は考えるより先に言葉に出していた。「シマバラ先生に言わなきゃいけないことがあるんです」
「はい、何でしょうか?」
「実は私──」
新しい推しができたんです。
瑚瑠璃の言葉を聞いたシマバラはハッと息を呑み──
「それって浮気ってことですか⁉」
「え、いや、そういうわけでは……」
「生涯アズリ単推しみたいな投稿してたじゃないですか!」
「投稿はしましたけど、単推しとは言ってなくてですね」
「それじゃあ、新しい推しって誰ですか? アズリと同じくらい素敵なキャラなんですよね⁉」
ちょっと拗ねた感じで興奮し始めたシマバラに何と言おうか逡巡して……結局、正直に伝えることにした。
「シマバラ先生です」
「へ?」
「私の新しい推し。シマバラ先生です」
「あ……」
微妙な沈黙が流れる。瑚瑠璃の顔が火照る。電話の向こうの彼女はどんな顔をしているのだろうか。
ややして、ちょっと上ずった声の返事が届いた。
「ふ、不束者ですが、よろしくお願いします……?」
思っていたリアクションと違って瑚瑠璃は笑う。照れたような笑い声が電話越しに聞こえてくる。
瑚瑠璃の推し活は、まだ始まったばかりだ。
推しが死んだ 虹星まいる @Klarheit_Lily
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