第55話 離脱症状



「かっ……はっ……、うっ……あ゛ぁ……っ……──」


 深夜。蛇王ルキは独りで暗闇のフローリングに倒れて苦しげに喘いでいた。


 柄の入ったガーゼシャツのパジャマの前がはだけ、露わになった肌が、びくびくと小刻みに震えていた。

 真っ赤な唇からは水と、涎と、飲み込みきれなかった医薬剤が溢れていた。

 その目は虚で、何もない天井に、恐ろしいものか、優しいものでも、見ているかのようで──



「……っ! おい、ルキ! しっかりしろ!!」



 俺は、そんなルキを彼女の自宅で見つけた。

 オートロック付きのマンションの玄関と、ルキの個室の扉を、で開けてきたのだ。



 ──佐々木さぁん。はい。これ、プレゼント。


 ──ん? なにこれ?


 ──ウチのお家の合鍵。チャンネル伸ばしてくれた御礼だよ。いつでも使って入っていいから。


 ──ばっ……! おまっ……ルキぃ……!? 何度も言うが、俺はお前のマネージャーでだなぁ……っ?


 ──ぷふふ……分かってるって。けどまぁ記念にとっていてよ。担当ライバーからの信頼の証としてはこの上ないでしょ。


 ──えー……信頼の証どころか、なんかの事件の証拠とかになりそうな気しかしねえんだけどなあ……。



「くそっ……! こんな状況の保険のためにわざわざ持たされてたのかよ……! 気づいとくべきだったなぁっ!」


 状況に見るに、蛇王ルキの症状は明らかに市販薬の過剰摂取オーバードーズによるものだった。それこそ新宿の『広場』界隈で少年少女に流行している、違法ドラッグに代わる悪い遊びで、いわゆる『パキる』っていうやつだ。

 職業柄、そんな「闇」の浅瀬にも俺は詳しくなってしまっていた。

 よくある症状としては、幻覚や強い幸福感、思考力の低下に知覚過敏。さらに薬物が抜け出すと『離脱症状』が始まり、揺り戻しで強い不安心や恐怖心に支配される。痙攣や動悸、吐き気や悪寒がみられ、ひどい時は極端な脱力によって動けなくなる。命の危険ももちろんあり得る。


「おい、ルキ! 俺の声が聞こえるか!?」


 夜の22時を回っていた。俺はスマホで救急要請を行ってから、あらためてルキに向き合った。

 台所から拝借した塩と白湯さゆをまぜて作った食塩水を飲ませる。

 うつ伏せにさせて、ルキの口から喉に指を入れた。


「ぐ……ッ、げえ……っ……!」


 激しくえずいて、ルキの口から胃酸と大量の薬剤が吐き出された。

 それを何度か繰り返し、経口中毒の応急処置を終えた俺は、ルキに見よう見まねの回復体位をとらせて寄り添った。


「…………ん……っ」


 しばらくして、呻きながらルキが目を覚ます。

 汗だくのルキが朦朧とした目を俺に向けてきた。


「……あれ……佐々木さん…………?」


「っ! 気がついたか……よかった……」


「……あれ……どうして……佐々木さんが家に……………」


「オーバードーズだよ……。処方箋が必要な薬剤クスリもあったぞ? お前、また悪い連中から仕入れただろ……」


「……………………」

 青ざめた顔で虚な目を彷徨わせながらも、ルキの面持ちは気まずさを湛えていった。


「約束したじゃないか……。もう危ないことはしないって。何もかも失う気か……?」


「……うん…………ごめん……ね…………」

 ルキは苦しげに唸った。

「……ごめん……佐々木さん……。ウチ、抜けきれなかった…………」


「抜けきる? なにから?」


「……悪ガキなままな……自分自身から…………」


 抽象的な表現だった。

 俺は対話を試みる。彼女と真剣に向き合いたかった。


「それは、『広場』の悪友たちとか、オーバードーズに入り浸るのを辞められないって意味か?」


「……………………」


「前任のマネージャーからも聞いてるよ。ルキは高校を卒業してから、都内でフリーターしながら『広場』に通いだしたんだよな。あそこはルキの数少ない居場所だったんだろ」


「……うん…………ずっと昔から……ウチ……コミュ障だったから…………」


 ルキは仰向けに身体を倒すと、腕を目元に倒した。汗まみれの額を隠したいのかと思ったが、隠したいのはむしろ表情とか、心だったかもしれない。


「実家にちょっとした問題があってね…………昔から口を開くのが怖かった…………。学校でも……シンプルにコミュ障だったから……友達とかぜんぜんできなくて…………。いじめられもしないくらいだったよ……。小学校でも中学校でも、高校でも…………」


 俺も、家庭環境が健全だったとは言い難い。

 だから実家の状況が人格に及ぼす影響は、想像できた。


 ルキは誰とも繋がれない青春時代を送ってきたのだろう。


「……それで高校卒業して、『広場』に通いだしたのか。もしかして出会いは裏垢だった?」


「はは、よく分かるね……その通り…………」

 ルキの濡れた口元が微かに自虐的に笑う。

「『自撮り界隈』ってのがあるって聞いてさ……思いつきで制服の胸元をはだけさせた写真を投稿したんだ。そしたら……エロ親父とか不良どもからDMがたくさん来て……。ばかみたいだけど、初めて誰かに見てもらえた気がして嬉しかった……」


 その記憶を語るルキの口調は優しかった。

 エロ親父とか不良ども。

 世間から見たら汚らわしいだけのものであるはずのそれらは、ルキにとって初めての優しさであり、よすがだったのだ。


「『広場』の連中とか、だいたいがウチみたいな……どうしようもないかまってちゃんか……性欲のことしか頭にないチンパンかどっちかだから…………。ウチみたいな若いのが肌出した写真送ってやったら喜んじゃって…………」


 ルキが細い息をしながら笑う。


「いい奴らなんだ……。絡むとウチをチヤホヤしてくれるし…………。弱いやつばっかだから傷を舐め合えてさ…………」


「ルキは彼らと支え合っていたんだね。孤独のなかから這い出て、強く生きてきたんだな」


「逃げてただけだよ…………。優しい世界に…………ううん、楽な世界に依存してただけ…………」

 ルキは、目元を隠した腕をぐっと強く押しつけた。唇が震えて、歪む。そして。



「──ウチは、そんな自分が……大嫌いだった…………」



「……っ………」

 俺は反射的にルキの手を握った。

 まるで幼な子が握る風船みたいに、いま掴まなくては取り返しのつかないところへ消えていってしまうような錯覚を抱いたのだった。


「弱くて…………反則技を使わないと生きていけない自分が……嫌いだ…………。強くなりたい……マトモになりたいのに…………依存先がないと生きていけない…………」


 ルキは腕をどけた。

 涙の溢れた目で俺を見た。


「ごめん佐々木さん……せっかく抜けれそうだったのに…………ウチ、なんだ…………。『広場』には何人かみたいなのがいるんだけど……ウチの代わりに借金とか……保証人とか引き受けてくれた人がいて…………その人から、離れられなくて……離れようとすると…………怖くて…………その人も、社会も、マジで怖い…………」


 オーバードーズと同じ。

 生き方にも『離脱症状』がある。


 人は慣れた生き方を変えることができない。


 昨日を生きれた生き方で、今日を生きれてしまったなら、明日が保証されていなくとも、明日もその生き方を選んでしまうものだ。

 変化には痛みが伴うから。変わるべきだと分かっていても、揺り戻しで強い不安心や恐怖心に支配されてしまう。


「ルキ。変われないのは、悪いことじゃないよ」

 俺は言った。

「でも、君は、


 エンタメの世界は残酷だ。

 常人達を楽しませられる者は、常人のままでは在り得ない。いままでの自分を破壊しなくては、画面のこちら側にはやって来られない。


「ルキ、もう一度、選んでくれ」

 俺は告げる。

「Vライバーを続けるために、? ?」


 救急車の音が聞こえてくる。

 もうすぐこのマンションに迎えが来る。


「…………ウチは………………」


 ルキは、ぼろぼろと泣きながら、俺の手を握り返した。


「変わりたい…………助けて、佐々木さん……………………」


「ああ」

 俺はルキの手を固く握って言った。




──────────────────────




 今回もお読みいただきありがとうございます。


 ちょくちょく出てくる『広場』とは、新宿の有名な、若者のたむろ場所がモチーフです。

 TOHOシネマズの、横の、ですね。


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