第45話 主人公系VTuber「開闢アリス」の場合③



 ──さらに1年後。

 5年も続いた信頼関係も崩れるときは一瞬だった。


如水じょすいくん……これ、どういうこと……!?』


 アイリス・アイリッシュは事務所で如水二郎氏に詰め寄った。

 掲げたスマートフォンには、昨夜発覚した『闇営業』についてのゴシップ記事がある。


『……? ……ああ……』


 如水氏は眼鏡の奥から落ち窪んだ瞳でアイリスを一瞥すると、興味もなさげに言った。


『……ウチの声優アイドルの可山かやま大石おおいしがやんちゃをしたようだな。まったく……事務所に無断で、しかも反社組織から仕事を受けるとは……頭が痛いことだ。なに、処分は既に私から手配してある。君は気にしなくてもいい』


『そうじゃない……。そうじゃないよ……如水くん、なに言ってるの……?』

 虚な目の如水二郎氏にアイリスは叫んだ。


『如水くん、でしょ……っ!?』

 アイリス・アイリッシュが如水二郎氏の肩を掴んで揺さぶった。


『…………』

 如水二郎氏は押し黙っていた。

 その反応だけで、肯定ととるには十分だった。


『どうして……っ……? 反社のヤバい連中が、若いアイドルを呼び出してやりたいことなんて、ひとつしかないじゃん……っ!?』


 アイリスは表情をこわばらせながら、恐怖とも怒りとも分類できない感情で叫んだ。


『なんで止めてあげなかったのっ!? あの2人、毎日みたいに如水くんに相談してたよね……? 事務所がお仕事を配れないせいで、お金のなくなった2人を、危ない人たちのそばに放っておいてたらどうなるか……如水くんなら分かったでしょっ!? 可山ちゃん……もうぼろぼろだよ……? どうしちゃったのよぉ、如水くん……っ……!?』


『…………』


 如水氏は昏い瞳でアイリスを見返した。

 その薄い唇が、徐々に、静かに、開いていった。


 アイリスは心の底から怖かった。

 如水氏の口が怖かった。

 次の言葉が怖かった。


 ──なぜなら、その口から出る言葉は、アイリスたちの物語を終わらせるもの以外では有り得なかったからだ。


『……うるさい。私が知るか』


 アイリスが目を見開く。

 その視界で、衣服の乱れを正しながら、如水氏はパソコンに向き直った。

『もう子どもじゃないんだ……。タレントたちも自己責任を覚えないとな』


『如水……くん……?』


『ほら……、彼女たちのでとれた仕事だ。次のはすごいぞ……? ハリウッドが主導する実写×アニメの超大作の助演声優と、その主題歌の歌手の仕事だ……』


 如水二郎氏が台本を差し出してきた。

 なにが起きているのか分からなくなってきた。


 ──いや。

 ──アイリスには、ぜんぶ分かっていた。


 如水二郎が、自分の手に負えないタレントたちを「闇」の仕事に売り飛ばしたのだということも。

 その恩恵で、どこかの権力者から大きな仕事を取り付けたということも。


 現実ビジネスで負けた会社の中で、精一杯、アイリスの夢を守ろうとして、彼は壊れてしまったのだということも──


『おめでとうアイリス。これでやっと銀幕キラキラの向こうに君を連れて──』


 ばしん、と。

 アイリス・アイリッシュは彼の手から台本を叩き落とした。


『……如水くん、ここにはもうキラキラなんてないよ』


 アイリスは彼をまっすぐに見つめて言った。

 その目からは涙が零れていた。


『少し休んでよ。それで、また目を覚ましてよ。お願い……だから……』


 如水二郎は俯いて深々と溜息をついた。


『……アイリス。君も大人になったと思ったが、まだ理解できていなかったのか? いい加減に夢だけでなく現実も見ろ。この業界で大事なのは、数字なんだよ』


 唇を噛んでアイリスは如水氏を見た。

 しかし、彼女が何かを言う前に、如水氏が息を吐いた。


『……いや、もういい。5年ものあいだ、私は勘違いをしていたんだな……』


 長い歳月を付き添ったマネージャーは、ぼそぼそと聞き取れない声で呟いた。


『私は君を初めて見たとき、君こそが……なのだと思ったんだ。この世界には、きっと輝きに満ちた……があって、君こそが、その……なのだと……。ずっと信じていた。だが、違ったのだな……』


『如水くん……? 何を……』


 そして彼は告げた。


 彼がアイリス・アイリッシュを見ることは、もう二度となかった。

『──失せろ。私の前から』





「……それでわたしは声優を辞めたの」


 夜の薄闇。

 そのなかで高山愛里朱は語った。


「夢だけでご飯が食べれるかー、って言うけどさ、わたしなら食べられると思ってたんだよねぇ。わたしには夢も実力もあるんだから、まあ、なんとかなるだろー、って」


 彼女の吐露が夜に溶けていく。


「……甘かったなぁ。わたしが磨いてきたのは『夢と戦う力』だけだったの。想像力とか、テクニックとか、知ってるアニメやマンガの量とか……、そういう、わたしの中にしかない、夢の国の力。夢の国でばっかり、わたしは戦ってきたの」


 ──でも、致命的に、足りなかったのだ。


「エンタメの世界はさ、夢と現実の狭間はざまにあるんだよね」

 高山愛里朱は言った。


「だからさ、わたしには『現実と戦う力』も必要だったんだ。もっともっと硬質で、真っ黒な、ナイフみたいな力。複雑で、冷徹で、打算に満ちた、。現実と渡り合う力が……」


 それを持たなかったから。

 彼女はかけがえの無い仲間を失った。

 夢への道を閉ざされたのだ。


「わたしは、子どもだったし、ばかだったからさ、そんなこと気づいてもなかった。辛いことはぜんぶ如水くんに押しつけて、楽しいことばっかりに向き合って……」


 ぐす、と。鼻をすする音が混ざる。


「……けど、それじゃダメだって、わたしなりに反省してさ? だから経営を勉強したの……。夢と現実、そのどちらとも戦えるように力をつけて……今度こそ……ちゃんとできるように……」


 でもね、と。

 高山愛里朱が涙声で言った。


「……いまになって、迷っちゃってるんだぁ……っ……。夢の国で生きるのが、あんまり楽しくてさぁ…………」


 夢の国。活動者としての人生。

 仲間に支えられながら、夢の旅人リスナーたちと生きる毎日。


 自分の「好き」なんて、コントロールできるほど弱い感情じゃなかった。

 両手に武器を携えてみても、やりたいことに嘘なんてつけなかった。


「でも……でも……っ……駄目なんだよ……夢の国にだけ向き合うのは駄目なの。おんなじ失敗は繰り返しちゃだめ……、現実は辛くて厳しくて、油断をすると大切なものをぜんぶ持っていっちゃうから…………。わたしは、それが、とっても怖いの……」


 夢と現実。

 いつの時代も、その折り合いはつかない。

 いま夢に手を伸ばせばきっと届く。

 仮にそう確信していたとしても。

 背を見せた瞬間に襲いかかってくる現実の恐ろしさを、彼女は嫌というほど知っているから──


「それにもし……いまわたしが夢に向き合って……それで上手くいっちゃったら…………、じゃあ、あの頃のわたしはなんだったんだって話になるしさぁ……? 一生懸命のつもりだったのに……実はそうじゃなくて……もしわたしのせいで如水くんが破滅しちゃったんだとしたら…………わたしは、もう、自分を許せなくなる…………」


 いつの間にか伸びていた彼女の手が、俺の手を強く掴んでいた。


「佐々木さん、わたし、どうしたらいいかなぁ……っ……?」


「…………」


 俺は黙って聞いていた。


 高山愛里朱の悩みはよく理解できた。

 彼女が感じている辛さは、エンタメ業界で、俺もずっと感じてきたことだ。


 ──エンターテイメントの世界は、夢と現実の狭間にある。


 夢の国での戦い。現実の国での戦い。

 どちらが欠けても理想には辿り着けない。

 一見すると煌びやかな業界だが、その楽しさの陰にある大人の事情に気づいた瞬間に、ゾッとする事も珍しくない。


 そんな世界で、彼女は、両方の国で同時に戦う決意を固めてきたのだ。

 子どもであることを辞めて、経営者を名乗ってまで。


 俺は、そんな彼女に向き合わなくてはいけない。

 俺は、彼女の人生に土足で踏み込まなくてはならない。


 きっと、一言一句も間違うことのできない局面だ。

 そのくらい繊細なバランスの上に、愛里朱の心は成り立っているはずだから。


 ──怖くなんかない。


 いまさら恐れなどしない。

 覚悟は終えている。

 だって俺はオタクをこじらせて、キラキラした画面の向こうにいる彼女たちを助けるために、この業界にいるのだから──


「愛里朱」


 夜の静けさの中で。

 俺は、彼女を救いたい一心で、言葉をぶつけた。



「──そんなことより、愛里朱って、何歳までおねしょしてた?」




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