あの女の安息日に食べた彼は、コエンドロの実の様に白く、蜜を入れたせんべいのように甘かった。
Re;
比翼の鳥
ある女はふと空を見上げる。月明かりすら見えない夜空の向こうを。こんな退屈な毎日が明日も訪れるのならば、この地を蹴って不完全なこの翼で、あの空を月の見えるところまで自由に飛び去ってしまいたいと思う。そして、こうも考える。
「明日はどんな香水をつけようか…。」
女は部屋に戻り、ベットの上に大の字で倒れて、スマホの写真フォルダを開く。
シンデレラ城の鐘が鳴り終わる頃には完全に消滅してしまう写真を復元しようか、しまいかと、ゴロゴロ寝返りを打ちながら考える。魔女との約束の時間まであと十分。とどのつまり女は押下した。男はファイル保存、女は上書き保存というけれど、私はどうもファイル保存派かもしれない。
あの麝香が、私の知らぬ間にチクリチクリと心に永遠に彫られてしまったからだ。
……………
昨夜はいつもより数段上のホテルに泊まった。たまにはねと、萩原が言ったからだ。ウェルカムドリンクには赤ワインが一本ボトルで置かれているようなところだ。
私は早速、ルームサービスでチーズやサラダ、カルパッチョなどの軽い食事を頼んだ。
有馬香織は、彼氏である萩原と一緒に映画を観る。今日は萩原の選んだミステリの王道作品。その前は香織の選んだ歴史モノだった。ジャンルや発表年代はいろいろあるが、代わりばんこで選ぶのが決まりだった。今見ているミステリ作品は古いがゆえにトリック勝負とでもいうのだろうか、散りばめられたヒントを元にワインを飲みながら二人で犯人とトリックを予想しながら、ああじゃない、こうじゃないと語り合って観る。
「うん…あのドアマンとロビーのウェルカムドリンクがカギだと思うな。香織の説も面白いけど」
ナイトガウン姿で微睡みながらも、萩原の仮説が真犯人に近いかも、とふわふわとしたシアワセな気分で聞いていた。
「あーあ…やっぱり伸仁さんの推理が合ってた」
「今回は俺の名推理だったね」
日付は一時間ほど前に変わっていた。萩原はいつものように帰宅の為の準備を始める。いつもは、私も泊まることはなく、時間をずらして出るのだが、今日は酔いが回っていたのか、帰るのが億劫になっていた。
「私、今日は泊まっていく」
淡々と萩原に伝える。すると、「そうか」と短い返事が飛んでくる。酔いが回っていても女としてのプライドが邪魔をして、「今日は帰らないでほしい」というただ一言の言葉が喉元に留まる。
私は実家暮らしだが、もう社会人だ。外泊を責め立てる人はいない。むしろ結婚はまだか、まだかと香織の耳にタコができるほどいうくらいだ。
萩原はというと、竹細工のランプシェードの微かな明かりを頼りにネクタイを締めている。今日の萩原はいつもより老けて見えた。それもそうだ、私と彼は8歳も離れているのだから。あのネクタイを私が締めることが出来たらどんなに心が満たされるのだろうか。
友達の第二次結婚ブームも重なり、少し不安になった香織は、ぽつりと言葉をこぼす。
「ねえ、離婚まだかな?」
萩原は背広に通しかけた腕を止める。
「妻とは完全に終わっているんだ。結婚したことを後悔しているとさえ言われてしまったよ」
私は何度出たか分からないその単語を聞いて、虫の居所が悪くなる。
萩原は年季の入ったガスライターを取り出し、苦笑を浮かべながら、苦笑を隠すかのように手早く煙草に火を灯す。妻は離婚に同意してくれているが、唯一つ条件があるという。萩原は紫煙にのせて、ぽつぽつと話し始めた。
香織は少し不機嫌だった。妻とは、結婚とは、社会において一つのステータスである。何かしらその手の話題が出てくれば妻という言葉は非常に有用な言葉だからだ。しかし、私の前くらいは、妻ではなく、あの女くらいに呼んでもらいたい。しかし、彼がその女に離婚話を切り出していることが意外だった。離婚に合意してくれているのならば、なぜもっと早く私に伝えてくれなかったのか。少しの不満はありつつも、いつものなあなあな返事ではなく、確固たる事実が聞けたことに、喜びを感じていた。
はにかみを抑えながら、平然を装って彼の話に耳を貸す。
「妻の出した条件って言うのが少し厄介でね」
紫煙をくゆらせながら、言いずらそうに彼は話す。
「娘が成人するまでは待てないだろうか」
妻は娘が成人するまでは籍を抜かないという。それが萩原の返答だった。
恋愛は惚れた方が負け、という言葉はつくづく的を射ていると思う。前進しているのか、後退しているのかもはや分からないこの問答は、萩原と別れない限りは、延長戦にもつれ込むであろう。
少なくとも、あと五年ほどはこの関係が続くという結果を突き付けられた私は否が応でも自分の歳について考えてしまう。
もしこのまま娘が二十歳になって離婚したとしても、私は三十歳を超えてしまう。もしも娘が結婚するまでなんて言い出したら、子供はもう考えづらい。自分の子供なのだ。彼女の気持ちも、分からないではない。
彼の居なくなった部屋で、ふつふつと怒りが沸いてきた。萩原には自分勝手だと怒り、あの女には狡猾だと怒り、娘には甘ったれるなと頬をひっぱたいてやりたい。そして誰よりも自分のふがいなさに怒った。
ワイングラスなみなみに注いだワインを半分ほど一気にあおる。そして、私に主導権なんてないじゃないかと、弱気になっている自分に喝を入れる。あくまで主導権は私にある。萩原の他に好きな男が出来たら、その時に別れてしまえばいい。
くりりとした大きな目をのせた童顔に、一五〇センチ後半くらいの小柄な体型。華奢な身体に乗っかったDカップの胸が自分の武器であることを香織はよく知っていた。これまでとは違う。私はもうモテない芋女じゃない。けれど、家庭を持つ男との恋はそんな甘いものじゃなかった。
そんな不安に押しつぶされそうになった心を守るように、右肩甲骨辺りを左手で覆い自分自身を抱きしめる。
…………………
大学に慣れてきた二年の夏。香織は刺激を欲していた。刺激を欲した末に、香織はタトゥーを入れた。意味はない。後悔もない。ただ入れたかったから彫ったのだ。香織は、もとより特出すべき才能や、容姿を持たなかった。普通が何かとは言い表せないが、世間一般から見れば、どこにでもいる女だった。それがコンプレックスとまではいかないが、特別なものに飢えていた香織には、タトゥーが特別に見えてしまったのかもしれない。
電動のこぎりのような機械音と注射を差され続ける様な痛みを耐えた末、右肩に生えた翼は、私をどこか遠くへ連れてってくれそうな気がした。
実家通いの私は、親や兄弟にバレないように、細心の注意を払って生活した。
バレたら困るというわけではない。ただ母親にバレてしまったら、母は卒倒するか、怒り狂うかの二つに一つだった。しかし幸いにも、まだ家族にはバレてはいない。
友人と旅行に行ったとき、泊まり込みだったので、着替えの際に初めてタトゥーを見られた。その時の友人は、理解がある方とまではいかないが、性格的に似ているということもあり、驚き半分、興味半分といった感じだった。
「タトゥーってどんな感じなの?やっぱり彫るときは痛かったの?」
「うーん。まあ最初は怖かったから痛いと感じたけれど、時間が経てば慣れるような痛さかな」
「今回もそうだけれど、温泉とかは大丈夫なの?」
「私の場合は、大きさもそこまでではないから、シップとかで隠して入っちゃうかな。肩まわりって意外とシップ張ってるとバレないもんだよ」
「やっぱり、後悔とかってしてるの?」
「特に、彫ってから何か変わったりしたことはないかな…強いて言えば、夏でも家族とかにバレたりしないように、背中の開いた服とかが着れなくなったことくらいかな」
「意外とバレないもんなんだね」
………………
ワインに飽きた私は、ルームサービスに電話をかけて、氷を頼む。氷が届くと、ミニバーからウイスキーの小瓶を取り出して、氷の入った口の広いコップに注ぎこむ。
会計は伸仁さんが済ませてある。このウイスキーがいくらなのかは、わからないが、そんなのはどうでもよかった。
コップに口をつけ、ちびちびとウイスキーを口に含むと、また余計なことを思い出してしまう。
「水商売や、愛人はね、お盆や年末が応えるんだよ」
昨年に結婚した弟の披露宴で、上機嫌になった親戚のおじさんが得意げに話した言葉だった。
「どんな男でも、家庭を持てば、その時ばかりは家族と過ごすんだから、やっぱり家庭が一番だよ。香織ちゃんもそろそろ急がないとな」
叔父さんは某会社の役員をしていて、銀座のあるクラブの常連らしかった。銀座から、新橋にかけての街並みが香織の脳裏に浮かび上がる。どの通りにも、スナックやら、クラブやらの看板が、所狭しと並んでおり、辺りを歩くたびに、いったいどれほどの店があるのだろうと、不思議に思っていた。そのビルの中には、今の自分と似た境遇の女がいる。正月もお盆も愛する人と過ごすことのできない女たちが。いつもは男たちに甘えたふりをしても、最後の最後には甘えることのできない女たちがいるのだ。そんなことを考えていると、少し勇気づけられるような、そんな複雑な気分になった。
もう、すべてを忘れ去って寝てしまいたい。しかし、潜り込んだベットの中に残る萩原の残香が、どうしようもなく邪魔だった。
結局、あのまま眠りにつくことは出来ず、寝られたのは明け方だった。
低血圧のせいで重い頭を何とかベットから引きはがした頃には、太陽はもう真上に登り切っていた。
このまま家に帰ろうかと思ったのだが、家に帰ったとて、特に予定はない。
丁度は誤用だとは思うが、昨日の赤ワインが、気に入っていた白いパンツにシミを作っていたので、パンツを新調することにした。
ホテルをチェックアウトして地下鉄に乗って新宿へ向かう。お目当ては今年の四月に南口にできた商業施設だ。電車を降り、改札を抜ける。照った太陽の下で、カツカツと踵をリズミカルに鳴らして目的の店へ歩みを進める。そして、お目当てのセレクトショップに入る。店内はセピア色で統一されていて、重厚感がある。ここには通勤服はないが、黒やグレー、白などの着やすい色の服を多く取り揃えている。しかも、どれも品があり、組み合わせ次第では、仕事にも穿いていけそうなものもあった。
ラックに並んでいる春物の中から、香織は白のカプリパンツを見つけた。夏にギャルが穿くようなものとは違い、ストレッチ素材だ。今穿いているパンツよりも白くてスリムなデザインだった。細いのはいいのだが、下着のラインが出てしまうのは困ると思っていた。モノは試しだと思い、店員に一言いれて試着室へ向かう。
カーテンを閉め、まだシミの落ち切っていないウールのパンツを脱ぐ。
萩原は、丸の内のある商社で働いていた。学生だった私には丸の内でスーツに身を包む人たちは皆一流に見え、萩原も例外ではなかった。
萩原には、何か他に引き付けられるようなものがあった。すらりとした細身の身体に合わせたグレーのスーツが良く似合っていた。少し神経質そうに煙草を吸う姿すら、頼もしく感じた。男友達とも、父親とも、オジサンとも違う男の人。彼は、学生であった私にも偉ぶれることもなく、真摯に向き合ってくれた。萩原の言葉はマイルドで、論理性もあったので、香織を簡単に納得させた。「白い細身のパンツはスタイルに自信のある若い女性の特権だね」と、萩原は言っていた。
また、萩原に会いたい。声を聴きたい。彼と同じ商社に入ることなんてもはや、どうでもよくなっていた。そして、いつものように面接練習をしてもらっているうちに、彼から食事のお誘いがあった。
「君には、その翼の様に自由に生きてほしいな」
萩原は私のタトゥーを見た初めての男だった。萩原も最初は驚きさえしたが、タトゥーが理由で避けたりすることはなかった。むしろ、「意外だったけど、美人だとなんでも似合うモノなんだね」と言ってくれた。そんな萩原との思い出を反芻しながら、カプリパンツを穿く。
何だろう…何かが違う。
試着室に備え付けられた鏡とにらめっこをしてみる。パンツは悪くはないのに、どうしてだろう…。鏡の前でポーズをとってみても、何かが違う。
「お客様、いかがでしょう?」
「すいません。何か違う気がします」
「よろしければ、見せていただいてもよろしいでしょうか?」
店員が言う。香織はゆっくりとカーテンを開く。店内の光を浴びて光を増したように見えるパンツに負けている気がする。去年はあんなにも自然に穿けていたのに。玉手箱を開けて、水面で自分の変わり果てた姿を見たような失望感が訪れる。同時に悔しさがやってくる。あんなにも努力をしてきたのに、やはり、老いには勝てないのだろうか、仕事後の貴重な時間を費やしてきた努力が無駄に見えて悔しかった。
「どうかされましたか?」
私の顔色を伺いながら店員が訪ねてきた。
「いえ、なんでもありません。これ、戻します」
「では、こちらでお預かり致します」
店員にカプリパンツを預け、店を出る。入店前とは打って変わって、重くなった踵を上げて商業施設を出てゆく。スポットライトの様に私を照らしてくれていた太陽は、陰っていた。そんな太陽を見て、更に気が滅入ってしまう。
止めだ、止めだ。こんな日は家に帰ってごろごろするに限る。改札を通り、ホームに向かう。
思い立ったが吉日、今日から最寄り駅より二駅前の駅で降りよう。そうすれば足ももう少し引き締まってまた白いパンツが穿けるはずだ。香織は心にそう言い聞かせて電車を降りる。たった二駅しか離れていないのに、駅前は知らない店で溢れていた。
伸仁さん?いや、そんなわけがないか…。彼によく似た香りが香織を引き寄せる。
そして、一軒の隠れ家のような店に辿り着いた。
カランコロン。ドアベルの優しい響きとともに香りの波が押し寄せる。
「いらっしゃいませ」
声色的に、私より年上であろう女性店員が淑やかに言う。大人の余裕というやつだろう、香織には、醸し出すことのできない上品な色気だ。
「何かお探しですか?」
カウンターから音もなく、店内をうろついていた私の背後に迫っていた。
「あ、ええ…まあ」
恋人の匂いにそっくりだったので寄りました。だなんて口が裂けても言えない。思考を巡らした末、香織は言葉ではなく、声をひねり出すので精いっぱいだった。
「甘い、温かな感じのする匂いってありますか?」
「そうですね…三番と七番、十番あたりでしょうか…サンプルを持ってまいります」
店員の用意したサンプルに鼻を近づけ、手で扇ぐ。似ている。三つとも匂いは違えど、本質的なものが同じな気がする。
「この三つは麝香の再現をした人口ムスクを使用しております。三番はどちらかというと男性向けの商品になりますが、どれも男女ともに人気のある匂いでございます」
これだ、去り際の彼の放つ、枕に残る残香の正体は。
「七番の香水いただけますか?」
三番は、店員の言う通り、少しツンとした、男性に似合いそうな匂いで、十番は何か物足りない。七番のバラの香りの中に隠れた本能をくすぐるような香りに惚れた。
「はい。少々お待ちください」
少し値が張ったが、いい買い物をしたと香織は思った。自然と店からの道のりが軽く感じる。
今度萩原に会うときは、あのダヴィンチの絵画の出てくるミステリサスペンスの映画にしよう。そして、新調した香水を髪に吹き付け、彼の足をくすぐってみようか。
比翼の鳥の香織は、いつかその翼で空を舞うことを夢見て、家に向かって歩き始める。
了
あの女の安息日に食べた彼は、コエンドロの実の様に白く、蜜を入れたせんべいのように甘かった。 Re; @Re0722
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