第52話
間に合わなかったのか。そんな疑問がよぎる。確かめるべく、僕は前にしたのと同じように窓へ駆け寄った。
しかし下を覗いても、そこに彼女の姿はなかった。一瞬安堵しそうになるが、すぐに何も解決していないことに気が付く。
ここにいなかった、ということは、彼女は……。
ジリ…………
そう思った時、頭上でコンクリートとその欠片がこすれる音が鳴った。僕は思わず身を乗り出して首を右にひねり、顔を上に向ける。
その瞬間、次のものが視界に飛び込んだ。東からの光に照らされて白い反射を返す綺麗な黒髪、しっかりとアイロンのかけられたシャツ、長さ規定を忠実に守ったプリーツスカート。それは髪から順に、わずか0.7秒ほどの間にすべてが見えるようになった。
言うまでもなく、それは酒井千尋の姿だった。髪から順に見えるようになったのには、理由がある。彼女は屋上の縁、パラペットの上に背中を外にして立っていた。そしてダイバーが海に飛びこむ時の様に、外に向けて身体を傾けたのだ。
すべてのものが、スローモーションになった。地球の加速度とは思えないほどに鈍重に、ゆっくり、ゆっくりと彼女の身体が落ちていく。
だが眼で見、脳で認識できるのとは裏腹に身体は動かない。急ごうという思いはあるが、腕は言うことを聞かない。まるで水中にいるかのような、そんな感覚がする。
その間も彼女は、僕の右側を通過するように落ちていく。頭を下にして、その形は僕が見たものに近くなる。必死に腕を伸ばすが、まだ届かない。
届いたのは、僕の目線と彼女の足が同じ高さになった時だった。僕の手が、彼女の細い左足首を捉えた。
絶対に離すまいと、力を込める。掴まれる感覚に気が付いたのか、彼女が一瞬、ひどく驚いた顔で僕を見た。
だがいくら彼女が細見とは言っても、一人の人間の体重に建物一階分の加速度が乗ったものを、片腕で支えるのは厳しいものがあった。
無情にも、それは僕の手をすり抜けて行った。靴にも手をかけたが、ローファー靴であったために簡単に脱げ、彼女はそれを残して地面に吸い込まれて行く。
頭が真っ白になると同時に、速度が等倍になった。次の瞬間にはもう、彼女の命はなくなっていた。
二年半前、僕は同じものを見た。花壇に倒れる酒井、頭から流れる鮮やかで真っ赤な血。水の様に流れ、花壇の土とレンガの隙間、そして僕の脳裏にしみ込んでいく。
形容しがたい悲しみと怒り、失意の混ざった感情が体中を駆け巡り、僕の心を破壊する。
ガシャン
その時、音がした。今見ている方から鳴ったそれには、聞き覚えがある。勢いよく開けられた窓が、アルミのサッシに激突した時に出たものだ。
彼女の前を遮る様に、下の窓からとある人物が頭を覗かせた。それは、高校生の僕だった。
思えば、すべての起点はここなのかもしれない。僕はこれを見て絶望し、引きこもり、最終的にタイムマシンを目指した。そして未来からやってきた僕が……彼女を死に至らせた。
僕が……余計なことをしたんだ。改めてそう思う。僕が、僕さえいなければ……彼女が死ぬことはなかった。
彼女を助けられなかった悔しさと、自分自身への怒りでおかしくなりそうになる。
そんな感情で、下の階から彼女を見て泣き叫ぶ僕を見ている。
ああ、そうだ。僕がいなければよかったんだ。この頃の僕がいなくなれば教授のノートは誤りになり、事故は起こらない。斎藤も死なない。大学生の僕はここにやってこない。酒井も、死なない。
そのことに気が付いた。そして、決意する。
高校生の僕を、殺してやると。
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