第50話

 それから数秒の間、僕は茫然と地面にへたりこんでいた。登ったばかりの太陽が、角度をきつくして僕を照らす。

 そんな時、玄関の方で金属音が鳴る。家の扉が開く音だ。そうだった、ここは酒井の家の前。しかも先ほど僕が叫んだばかりだ。父親か母親が様子を見に来たのかもしれない。


 そう悟った僕は、反射的に立ち上がってその場から逃げ出した。そして、走りながら思い直す。まだ諦めるには早い、と。彼女が死ぬまでのあと2時間、限界まで抵抗してやればいいじゃないか。

 こんなことをしている場合ではない。止めにいかなくては。

 僕はそのまま電車に飛び乗った。


 この状況だ。彼女はきっと学校にいる。これから忍び込んで彼女を見つけ出し、何とか説得する。それでダメなら、力づくにでも。

 僕は彼女を助けるためにここに来た。努力をしてきた。たとえひとりよがりだったとしても、僕は彼女を死なせない。


 そんな思いを胸に、学校最寄りの駅へと降り立つ。8時前という時間帯もあって、ホームはたくさんの人で溢れていた。スーツに身を包んだサラリーマン、うちの学ランを着た高校生。眠そうに歩くのは、大学生だろう。

 人ごみをかき分けて、早歩きで駅を出る。迷惑など考えない。僕はそれどころではないのだから。

 徒歩5分の距離を2分で駆け抜け、学校西の路地にまわり込む。正門から入ろうとすれば目立つし、守衛に取り押さえられるかもしれない。その点ここは体育館の裏に位置していて、この時間は誰も近づかない。さらに裏手にはマンションがあり、陰になるので他の人間に気付かれることもない。

 侵入するならここと、これまでの調査で決めていた。まさか本当にすることになるとは思っていなかったが、対策しておいてよかった。

 周囲に誰もいないことを確認し、フェンスに手をかける。緑色の鉄線を網状に編んで作られたそれの高さは2m程度で、有刺鉄線もない。上端まで登るのは簡単だった。少し音が鳴ってしまったが、幸い誰にも気付かれていない。

 そのまま僕は、体育館とフェンスの間に飛び降りた。そこの幅は2mほどしかなく、この時間は日も当たっていない。

 慎重に進み、角から少しだけ顔を出す。見えたのは教室のある校舎と体育館を隔てる通路の床、背の高いネットに覆われたサッカーコートだけで、人はいなかった。

 今がチャンスだと、素早く校舎の外にある非常階段に移動する。


 階段を登りながら、ふと考える。心の思うままにここへ来たが、これからどうやって彼女を見つけ出し、説得するのかと。屋上にいてくれれば良い。でも、そうでない場合どうすればいいのか。教室にでもいられたら、僕はそこに向かうことができない。

 なぜならそこには生徒も教師もいて、行けば絶対に不審者がいるとバレるからだ。そんな状態で説得することはできない。

 ならばどうするか。5階に着いた時、僕は思いついた。まず屋上を見て、そこに彼女がいなければドアを塞いでしまえば良いと。そうすれば、自殺はできない。これは名案に違いない。すぐに向かおう。

 そうして僕は非常階段から5階の廊下に侵入した。この階にあるのは特殊教室のみのため人の姿はなく、電気もついていない。あるのは、教室のドアについたのぞき窓から指し込む太陽光だけだ。ただここのトイレはいつも空いているため、それ目的で来る生徒が少数いる。長期滞在は無用だ。さっさと去ることにする。


 足音をかけない程度に駆け抜け、上に繋がる階段に辿り着く。わざわざ中を通ったのは、屋上には非常階段が接続していないためだ。つまり、この階段が唯一の出入り口ということになる。ここを塞げば、僕の勝ちだ。彼女に自殺はできない。教授の理論も誤りだ。僕は負けない。


 そんなことを思いながら登ると、外に出るドアのある塔屋には何やら色々と置いてあった。それは使われなくなったロッカーや、折り畳み式の長机だった。これは良い。ドアの向こうに移動させれば、外開きのため開けることができなくなるはずだ。

 その発想に従い、僕はロッカー2つと机4つを屋上に移動させてバリケードを建設した。これでもうこちらにくることはできない。だが時刻は午前8時20分。僕が落ちる彼女を見たのは1時間目が終わる少し前、9時15分だ。まだ1時間近くある。気を抜くことはできない。

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