第31話

 1500万円。大学2年生が手にすることなど、まずない大金だ。

 社会人になってからも、貯金がここに達するまでにはかなりの時間を要することだろう。

僕はそれを、20歳という年齢で手に入れた。


 でも、喜びなんてない。きっと今の僕は物を買ったり、美味しいものを食べたりしてもなにも感じない。

 感じるとしても反射的なもので、すぐに気持ちは沈むだろう。長期的な幸せは得られない。


 数日して、僕は退院した。ギプスとサポーターはまだ取れていないが、松葉杖を使えば一人で出歩くことができる。


 まず研究室に行ってみた。驚いたことに、外からの見た目はそう変わっていなかった。

 コンクリートでできた頑丈な建物は、爆発でも火災でもビクともしなかったらしく、少し焦げていたのと、シャッターがなくなっていただけだった。

キャンパスには、いつも通りたくさんの学生が歩いている。空は青く澄んでいて、2月の冷たい風に撫でられ僕は身体を震わせる。

右手に松葉杖、左腕にはギプスがあるので、腕を組んで寒さに抵抗することはできない。


「人が数人死んだところで、社会はなにも変わらない、か」

 事故に遭ってなお堂々と佇む研究室を眺めながらそう呟き、家に帰ろうと回れ右をする。


「その通り。人が数人増えたり減ったりしても、全体に影響したりなんかしないわ」

 瞬間、視界のかなり近い位置に人の眼が映る。

 僕の真後ろに、水野さんが立っていた。

彼女は白いセーターに黒い革のロングコートを羽織り、首には灰色のマフラー、足に黒いブーツを履いている。

 ブーツのかかとは高く、彼女自身の背丈もあって目線の高さは僕とほぼ一致していた。

「ああ、水野さん。すみません、急に振り返ってしま……」

「数人の死で世界は変わったりしない。なら、死んだ数人を蘇らせたところで問題はない。

……貴方だって本当は、まだ諦めたくないでしょう。私にはわかる」

 謝ろうとした僕に、彼女は鋭い眼をしてそんな言葉をぶつけてきた。声はいつにも増して低く、真剣な話をしているのだと理解する。


「見せたいものがあるの」

 困惑してなにも答えずにいると、次に彼女はそう言って僕に手を貸すように横に立った。

 移動したのは、キャンパス内にある簡単な休憩スペースだ。そこはウッドデッキの様になっていて、授業期間中は学生が様々なことをしている。パソコンとにらめっこをしたり、麻雀を打ったり、恋人や友人との会話に興じたり。

……嫌なことを考えた。


「見せたいものって、なんですか」

 頭に浮かんだ過去の青春を振り払い、正面に座った彼女に訊ねる。

「これよ」

 すると彼女は、机の上に小さな四角いものを置いた。それは5cmほどのガラスケースで、中には……紫色の水晶が入っている。

「X!?どうしてここに!?あいた!」

 びっくりして声が大きくなり、足を骨折しているのに立ち上がろうとして失敗、木製の堅い椅子に尻餅をつく。

「あの日病院を飛び出したあと、一度ここに来たの。そしたら何か工事をしていて、作業員がこれを運び出してるところでさ。あわてて事情を説明して譲ってもらったの」

 彼女は椅子にナナメに腰掛け、頬杖をつく。

「どうしてこれが残っているのかはさっぱりわからない。でも、これはきっと何か運命の……」

「加藤さんです!」

 それを聞いて、僕は思い出した。実験の日。そして事故の日、その前日のことを。

実験当日、僕はXの在庫がなくなることに気が付いた。しかし実験室にはすでにXがあり、僕はそれを金庫に戻した。

実験前日、加藤さんは実験室にXを放置した。その日の夜、教授は金庫内のXを、ひとつを残してすべて処分した。

つまり……加藤さんが片付け忘れたひとつ分、教授の計算がズレた。


「……どういうこと?」

 眉をひそめた顔で訊く彼女に、僕は今のことを説明する。

「なるほどね。あいつのズボラなところが、初めて役立ったと」

「そういうことです」

 彼女は呆れ顔で首を振る。

「ならそのズボラさに、感謝しないとね」

 そしてそう続けると頬杖をやめ、姿勢を正して僕の方に向き直る。

「湯川くん」

「はい」


「私と、タイムマシンを作ってもらえないかな」

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