第四章

第15話

 初の実験から8か月が経った。あれから何度か再実験をして、マシンが通過する空間はマイナス273度、ほぼ絶対零度に近い気温であることが判明している。

 実験のたびに斎藤と水野さんはマシンに改良を重ねていたが、どうしても難しいようで、その度にダメになるコアは3度作り直す羽目になった。


「どうでしたか?」

 4度目の実験後、僕は倉庫から戻って来た水野さんに訊ねた。

「まったくダメね。中までキンキン」

 彼女は手にしたノートを机に投げ置き、不機嫌そうに答える。

「はぁ、また作り直しですね。急いでかかります」

「いえ、その必要はありません。マシンの作り方を変えます」

 材料の発注をしようとパソコンを目指した僕に、教授が言った。

「どういうことです?」

「倉庫の方でお話したのですが、彼女たちにはしばらくこの研究を離れて、岩崎重工で私の知り合いと開発にあたってもらいます」

「岩崎……ですか」

 岩崎重工。日本を代表する大企業だ。業務は多岐に渡り、造船や鉄道、宇宙開発などを行っている。寒さ対策と言うことは……宇宙開発の部類になるのだろうか。いずれにしても、そんなところにも顔が利くとは驚きだ。

 

 そして翌日から、斎藤と水野さんは研究室に姿を現さなくなった。それだけでなく、僕と加藤さんは岩崎から設計図が送られてくるまでの間、やることがほぼなくなった。教授の論文執筆を補佐するくらいだろうか。確実に言えるのは、前よりずっと暇だと言うことだ。

 せっかくなので、その時間を利用してある場所へ行くことにした。


 気温が35度を超える猛暑日、僕は電車に揺られている。高校の最寄り駅を通るこの路線に乗るのは久しぶりだ。流れる景色にどことなく懐かしさを覚える。

 しばらくして目的の駅に到着し、降車する。すると、高温をたたえた水の粒子が僕を包み込み、冷房で適度に冷やされた皮膚をじわじわと侵食した。それはとても不快なもので、「せめて湿度さえなければなぁ」と考えさせた。

 駅を出ると、それは日差しも加わって勢いを増し、参ってしまいそうになる。今はまだ体内に冷房の冷たさが残っているが、それがなくなった時どうなるか。考えたくもない。

 なんとなくロータリーに置いてあるブロンズ像に眼をやると、その裸婦は汗をかいていた。嘘ではない。本当に顔からしずくを垂らしているのだ。まぁ、暑さのせいではなく酸性雨のせいなのだが。

 そんなことを思いつつ額に浮き始めた汗を拭い、歩みを進める。目指すのは酒井の家だ。

 彼女は一軒家に住んでいて、そこまでは駅から20分もかかる。この暑さの中を運動不足の理系学生が行くのは難儀なもので、到着する頃にはだいぶ汗をかいてしまった。


 髪はタオルで拭い、身体には制汗シートを使う。これで取り合えず失礼はないだろう。

 そうして僕は門を開け、敷地内に足を踏み入れた。家の外観は白黒のブロックを複数個組み合わせたような、モダンで一般的なもので、入ってすぐの小さな庭にはピンク色のニチニチソウが植わった鉢が並べてある。この暑いのに、よくピンピンと花を咲かせられるものだ。


 その横を抜けてドア前に立ち、服装を確認する。乱れはない、よし。

 僕は覚悟を決め、インターフォンを押す。

 ピンポーンと言う音が鳴ったあと、「はーい」と女性の声がした。

「連絡した湯川です」

「はい、少しお待ちください」

 そんなやり取りの後、まもなく横の扉が開く。

「初めまして。どうぞ上がってください」

 中から姿を現したのは、高校生くらいに見える少女だった。肩まで伸ばした髪を一本にまとめていて、顔つきはどことなく酒井に似ている。特に、黒縁の眼鏡越しに覗く目元は、彼女と同じくマイナスな印象を持たせない綺麗な一重瞼だ。

 酒井と初めて会ったとき、シャープで美しく、それでいて温かな雰囲気を持ったその輪郭に惹かれたことを思い出す。

「ど、どうも……お邪魔します」

 会釈して玄関に足を踏み入れると、床には青を貴重とした涼しげなマットが敷かれ、靴箱の上には白色の綺麗な陶磁器が置かれていた。

 ただなによりも、その空間はカラリと乾いて気温も低く、サウナを出たあとの水風呂の様な心地よさを覚えさせる。

「今日は暑かったでしょう。飲み物を用意するので、奥へどうぞ」

「ありがとうございます。あ、これ。つまらないものですが……」

 廊下の奥を指した彼女に、僕は慌てて持ってきた菓子折りを差し出す。

「わざわざありがとうございます」


 その後キッチンとつながったダイニングの椅子に座る様言われ、僕は床に荷物を置いて従った。

「麦茶です。どうぞ」

 まもなくして彼女はグラスを僕の前に置き、正面に座る。

 透明なグラスは中に入った麦茶によって濃い琥珀色に染まり、水面に浮かぶ氷は、ガラスと衝突して風鈴とはまた違う風情のある音を立てている。

「すみません、ありがとうございます」

 猛暑の中を歩き、喉が渇いていたことに加え、これを目の当たりにしたことで限界を迎えた僕は、すぐにそれを口にした。

 そしてその瞬間、焦げた麦の心地よい香りと、冷たい水の感覚がそれぞれの通るべき管と感覚器官とを通って脳へと到達し、心地良い清涼感を身体全体へと走らせる。

 夏の麦茶というものは、何度飲んでもたまらない。緑茶やスポーツドリンクも嫌いではないが、やはり本当に喉が渇いているときは麦茶がありがたい。

「今日はわざわざ来ていただいたのにすみません、母は急用があると出かけてしまって……代わりに私が対応させていただきますね」

 グラスが空になる頃、彼女が申し訳なさそうに言った。なるほど、どうりで約束していた相手がいないわけだ。母と言ったということは、彼女は酒井の妹か何かだろうか。

「いえいえ、とんでもない。お願いをしたのは僕の方ですから」

「あと、できれば敬語はやめてください。なんか、気持ち悪いです」

 あげてもらえるだけありがたいという意味で言うと、彼女はそう続けた。気持ち悪いとは……見かけによらず中々ひどい言い方をする。

「ああ、じゃあ遠慮なく。君は酒井の……いや、千尋の、妹さん?」

 そうまで言われて敬語を続けるわけにもいかず、僕は気になっていたことを訊ねた。酒井と言いかけてやめたのは、彼女もまた酒井であるからだ。


「はい。千紗といいます。姉とは3つ離れてます」

「千紗さんか」

「千紗で良いです」

「せめてちゃんとか……」

「余計に気持ち悪いです」

「すみません」

「いえ」

 彼女は表情を余り変えないまま、結構きつい物言いをする。外見は酒井と似ていても、中身はだいぶ違うようだ。そうなるとこの優しいと思っていた目付きも、鋭いものの様な気がしてくる。


「姉からだいぶ奥手な人とは聞いていましたが、ここまでとは思いませんでしたよ。今日はうちに何を?」

 気まずく感じてどう質問をしていいのかわからず少し間が開いた時、彼女の方からそう話を振ってきた。


「千尋がどうして飛び降り自殺をしたのか知りたくてさ。何か心当たりがないか聞きに来たんだ」

「2年も経ってから、ですか?」

 質問に答えると、彼女は痛い所を突いてきた。

「いや、その……大学受験とか色々あってさ。聞くのが遅くなっちゃったんだ」

「……姉の死よりも、自分の大学受験の方が大事なんですか」


 しまった、と思った。今の弁明はまずい。

「いや、そ、そうじゃないんだ。どうしても集中しなきゃいけないものが……」

「いいですよ。少しからかってみただけです。大方、傷ついた心が癒えて来て、真相が気になったとかそんなところでしょう」

 焦った僕を他所に、彼女はほのかに笑いを浮かべて言った。どうにも心の内が見えない。

「でも、知ってもいいことなんかないですよ。知らない方があなたのためだと思います。実際、私は心あたりのせいで後悔していますし、今も完全には折り合いがつけられていません」

 かと思うと、今度は今にも泣きそうな、悲しそうな眼をして右手で左腕を抱き寄せた。

「僕は、君のその後悔を失くすことができます」

 その様子を見て、そんな発言が口を突いて飛び出した。

「……え?」彼女は驚いた様子で、丸くした眼をこちらに向ける。

「僕は今、大学でタイムマシンの研究をしているんだ。完成すれば、彼女の死を止められる」

「……」

 しかし続いて説明をすると、再び眼を伏せて黙り込んでしまった。この時の彼女は小刻みに震えていて、泣いているように見える。


「そんなことで……そんなことで!お姉ちゃんが助けられると思っているなら!今すぐ出て行ってください!!!」


 そして次の瞬間、彼女は血相を変えて立ち上がり、大きな声で叫んだ。バン!という机を叩く音が響く。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。なぜ彼女は怒りに満ちたまなざしで、涙に満たされたまなざしで、こちらを睨みつけているのか。なぜ、そんな声で僕を怒鳴るのか。

「ま、待って!!嘘を吐いてるんじゃないんだ!!僕は本当に大学で……今ホームページを……」

「知りません!!とにかく出て行ってください!!」


 つまらない嘘を吐いたと勘違いされたのだと思い、僕はスマホで大学のホームページを見せようとした。が、もう遅かった。彼女はもう席から移動し、鞄を取って僕に持たせようとしていた。今すぐにでもここから追い出したいという様子だ。

「違う!僕は本当に酒井を……」

 なんとか怒りを沈めようと、何が違うのかもわからないまま弁明する。しかし彼女はまったく聞かず、僕の背中を押して玄関まで追いやって終いには外に追い出した。靴も履かないままでだ。


「最後に言っておきます!あなたは千尋のことなど忘れて、新しい恋をしてください!これは母からの伝言ですが、私も貴方の話を聞いてそうすべきだと思いました!もう二度と来ないでください!」


 彼女は靴を僕の前に投げつけてそう言い捨てると、強い力でドアを閉じた。バタムという大きな音が周囲に響き、庭の木でけたたましく鳴いていたセミが一瞬静かになる。


 僕は何か、重大なミスを犯したらしい。

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