Roaring 25. 悪魔の岩礁



 夜明けが近づく中、暗い港を出る船は一隻だけだった。

 件の海の魔物が出現するという『悪魔の岩礁デビルズ・クリーフ』は、インスマス港から一マイル半離れたところにあった。干潮時にはまるで黒くて横に長い島のようになる。今は満潮だったが、それでも海に没することはなく、黒い線のような岩が水面に浮かび上がっていた。

 その辺りから海は急に様相を変え、波が荒くなり、水深も深くなった。まるで底なしで、いくら長い測量糸を垂らしても海底に届くことはないと、老人は舵を切りながら言った。


「謎の巨大魚か……。魔物が出現したのはいつ頃だ?」

「ちょうど、三カ月前からだな。インスマスは土地にかかったまじないの力で、魚がよく獲れることで知られているが……これまでにないような不漁でな。わしなどは、もう八十四日も、一匹も魚が釣れていない。サ・オラだ」

「サ・オラ?」

「すっかり運に見放された、という意味さ」


 老人はキューバ葉巻に火を点け、じっと水平線に目を細めた。


「異常だよ。一匹たりとも海鳥が見えない。先住民の深海魚人ディープ・ワンズどもも、最近じゃ食料を求めて、教会や貧救院に入り浸っているような始末だ」

「その魔物を恐れて魚たちが逃げているのか。政府に助けは出さなかったのか?」

「町議会でもその案が出されたが、却下されたよ。見ての通り、インスマスは排他的な町でな。白人に迫害された魚人たちが集まってできた小さな集落がもとになっておるんじゃ。オーヘッド・マーシュ船長が金の精錬工場を建てたり、昔はそれなりに繁栄していたんじゃが、『インスマス面』という疫病が流行ってからは、より一層の迫害を受けるようになった。一八四六年には、魔法省で防疫法案が可決され、〈滅却官エクスターミネーター〉が出動して町は灰になった。病ごと住民を虐殺し、地図上から抹消しようとしたんじゃ……」

「そんな。ひどい……」

「お嬢さんも亜人ならわかるじゃろう。いつもの政府のやり方じゃよ。結局、なんとか全滅は免れた。今の住人は、その時の生き残りでの……だから、連邦政府への反感は大きい。その後、インスマスは門戸を閉じ、過去の恨みを抱き続けて細々と生活を続けておるんじゃ」


 ジャクソニアン=デモクラシーと西部開拓時代の弊害だ。インスマスだけではなく、十九世紀にはアメリカ全土で亜人や先住民族に対する同様の虐殺が起きたのである。

 老人はワインボトルに入れた水を飲み、残りで口をゆすいでペッと吐き捨てた。


「地元の漁師たちは、深海魚人ディープ・ワンズと協力して、海の魔物を狩ることにした。先月、船が出されたが……サ・オラ。結局、無駄じゃったの。何人かは食べられてしまったよ。それで、どうしようもなくなって、お前さんたち魔術師に依頼が出されたというわけよ」

「そういうことなら、任せろ。獲物はどこだ?」

「今から釣るのさ」


 その時、海からうっすらと太陽が昇り始めた。水面をギラギラと照らすような夜明けの光は、水平線の周りにある厚い雲に覆われ、すぐに見えなくなってしまう。どうやら、今日の天気はあまりよくはないようだ。


「曇天か。風も強い。今日は荒れそうじゃな」


 老人は舳先から細いロープを取り出し、その先についている釣り針にイワシを一匹つけて、船べりから投げ入れた。ロープの端を船尾にしっかりと結びつける。


「イェ=ラ・イラー! クスルゥー、タイン! イェ! イェ!」


 老人は大漁のまじないを口にし、それからアメリアに目をやった。


「この海の魔物には一つ大きな特徴がある。なぜか亜人に反応して襲ってくるという点じゃ。……じゃから、お嬢さんがいてくれたのは、じつに運がいい」

「餌か」

「そうだ」

「えっ……」


 突然の急展開に顔が引きつったままのアメリアの肩を、ダーティはポンと無言で叩いた。



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