クローゼット・フロム・ザ・フューチャー

徒家エイト

第1話

 一人暮らしの幕上麻富優まくあげまふゆは、クローゼットに見知らぬ女子高生がいたときの対処法を知らなかった。

 麻富優は女子高生を見つめ、女子高生も麻富優を見つめ、どちらも何も言わないまま時間が過ぎる。

 呆然とする麻富優に対し、女子高生は焦っていた。何かを言おうと口をパクパクとさせて、視線をうろうろとさまよわせている。

「えっと……」

 だがここは、家主らしく麻富優が先に口を開いた。

「……こんにちは」

 麻富優はとりあえず頭を下げた。

 そしてニコリと笑った。

「どなたですか?」


「ま、まあ見つかってしまっては仕方がないわ」

 少女はのそりとクローゼットから出てきた。そして自分の胸をポンと叩く。

 小柄な麻富優よりも頭一つ分程度背が高い。髪の毛はショートカットだが、毛先はばらばらであれていた。

 どうして女子高生だとわかったかと言えば、彼女は制服を着ていたからである。麻富優も見かけたことがある、この辺りの高校のものだった。

 少女は何か吹っ切れたのか、堂々として言った。

「私の名前は幕上楪子 《まくあげちゃこ》。簡単に説明すると、ママの娘よ。未来から来たの」

「ママ……。ママ?」

 麻富優は首を傾げる。少女の言っていることが、まるで理解できなかった。

 もしかしたらおかしいのは自分で、彼女の方が正しいのではないかと思わせる謎の説得力すらあった。

 だが何度見てみても、カーテンが閉じられた薄暗いワンルームマンションは、確かに自分が暮らしている部屋だ。堂々といて当然という態度をとる楪子なる少女の存在の方が本来不自然だった。

 そしてこの部屋に『ママ』なる人物はいない。自分はいたって普通の会社勤めだし、独身で子供もいない。

「えっと、ママって誰?」

 麻富優が首を傾げると、楪子はそっと麻富優の手を取った。

「あなたよ。幕上麻富優」

「幕上麻富優……。まくあげまふゆ……。まふゆ?」

 幕上麻富優という人物に、幕上麻富優は一人しか心当たりがなかった。

「わたし?」

「そう」

「本当に……?」

「本当よ」

「…………」

「信じて」

 楪子はじっと麻富優を見つめていた。だが、やがてあきらめたように目を伏せた。

「……いえ、やっぱりいい、です。そんなこと普通信じられるわけ」

「そうなんだ!」

 麻富優はへにゃりと笑った。

「へ?」

 楪子の目が丸くなる。

「そ、そうなんだって、……もしかして信じれくれる、の?」

「うん。楪子ちゃんは私の子どもってことでしょ?」

「そうだけど……。これで信じるんだ……」

 楪子は驚き呆れた様子だった。

「信じてって楪子ちゃんが言ったんじゃん」

「いや、普通信じないかなって」

「信じてって言う人を疑うほど、わたし悪い人間じゃないよ!」

「普通は疑うのよ……。まあ、これがママの良いとこなんだけど……」

 頭を抱えながらも、楪子はまんざらでもなさそうな顔で言った。そしてすぐに表情を引き締める。

「でも、ママはこれから、その優しさのせいでとんでもない目に会うの。それからママの人生は大変なことになって、苦労と困難が続くことになるわ」

「え?」

「でも大丈夫。そんな道からママを救うために、私はやってきたの」

 楪子は麻富優の手を取った。そしてその目をじっと見つめた。

「私がママを幸せにして見せるわ。あのダメクズカスなんかに、ママの人生をめちゃくちゃにはさせないんだから!」

「はぁ」

 麻富優はいまだイマイチ事情を呑み込めていなかった。

 だが、真剣に自分を見る楪子に、優しく笑いかけた。

「まだよくわからないけど、ありがとう。私のために頑張ってくれて」

「う、うん……」

 麻富優に見られた楪子は、顔を赤く染める。

「でも、あんまり汚い言葉使っちゃダメだよ?」

「……わかったわ、ママ」

「よしよし、いい子だねぇ」

 麻富優が楪子の頭をなでる。

「そうだ、お茶飲む? ゆっくりお話ししようよ」

「え、でも時間が……」

「だいじょーぶだいじょーぶ。ね、座って」

「う、うん」

 麻富優は楪子を座椅子に座らせる。そしてちょうどお湯の沸いていた電子ケトルからお湯を注いで、紅茶を二杯いれた。

「ごめんね、パックの奴なんだけど」

「ううん! 一回目の紅茶パックなんて贅沢、久しぶり!」

「……苦労してるんだねぇ」

 嬉しそうに紅茶をすする楪子を見て、麻富優はしみじみと呟いた。

「たくさん飲んでね」

「……苦労してるのは、ママよ」

 楪子は、カップに視線を落とした。

「なのに、私のことをいつも気遣って、優しくて、それで、それで……」

「……何があったの?」

 声を震わせる楪子に、麻富優は優しく問いかけた。

「ママはね、とんでもないやつと結婚しちゃうの」

 楪子は小さな声で言った。

「バンドのボーカルやってるとか言いながら、ろくに働かないこくつぶし。粗野で暴力的で、一日中パチンコとか競馬とかで金を使って、たまに帰ってきてママからお小遣いせびるの」

「まぁ」

「ママがどれだけ働いてもあいつが金を取ってくから、うちはずっと貧乏だった。でもママはいつも笑ってたの。でも、ママが突然倒れちゃって……」

 それでも『旦那』は帰ってこなかったのだという。

「むちゃくちゃ腹が立って、悔しくて、悲しくて、あのクローゼットの中に閉じこもって泣いてた。そしたら、急にママの声がしてね」

 そっと隙間を除くと、楪子が知るより若い麻富優がいた。楪子は一瞬で、自分が過去にタイムスリップしたのだと気が付いた。

「びっくりしたけど、チャンスだとも思ったわ。過去を帰ることでママを幸せにする。そう決めたの」

 再び顔を上げた楪子の瞳には、強い決意が宿っていた。

 麻富優は目を見開いた。

「……ありがとう」

 そしてふとほほ笑む。

「おいで、楪子ちゃん」

「え?」

「楪子ちゃん、大変だったんだねぇ」

 麻富優はすっと横にずれると、両手を広げた。

「はい、どーぞ」

 楪子は初めこそ戸惑ったようだったが、すぐに光に集まる虫のように麻富優に近づくと、その胸に顔をうずめた。

「ママ、ママだ……。ママ……っ!」

「ありがとうねぇ」

 涙を流す楪子の頭を、麻富優は優しく撫でる。

「絶対に、ママは絶対に幸せにする! 私頑張るから!」

「うんうん」

 麻富優は頷く。

「でもね、楪子ちゃ―――」 

 その時、ピンポンとチャイムが鳴った。

「あ!」

「はっ!」

 麻富優はパッと笑顔を咲かせ、楪子はキッと顔をしかめた。

 ピンポン。

 間を置かず、再び呼び出し音がする。

「楪子ちゃん、お客さんが来たみたい。だからちょっと」

「ママ! 開けちゃダメ! たぶんそいつが―――」

 腰を浮かそうとした麻富優を、楪子が引き留める。

 だが、鍵をかけていなかったドアはひとりでに開いた。

「麻富優、いるの?」

 そこには一人の女が立っていた。

 身長は麻富優より頭一つ高いぐらい。ヘソが見えるほど短い黒色のシャツと丈の短いレザーのジャケット、そしてホットパンツを着ている。腰から下がった鎖が、女が動くたびにじゃらじゃらと音を立てていた。

 髪型は紫と白に染め分けたベリーショートだったが、前髪だけ長く、左目をほとんど覆っていた。一方右目には、金色のカラコンが嵌められてた。

「おっす、麻富優」

 低く、威圧感さえ感じる声だった。だが麻富優はニコニコと笑った。

「いらっしゃい、ハルちゃん」

 そう言って部屋の中に迎え入れた瞬間、

「この、ダメクズカスがー!!!」

 楪子が立ち上がって、思いきり指をさして叫んだ。

「元凶! ゴミ! ここから去ねぇ!!」

「ちょっと楪子ちゃん!?」

 凄まじい形相の楪子に、麻富優は驚く。

「ママ! こいつがママの人生めちゃくちゃにするんだよ!!」

「ハルちゃんが?」

 麻富優はハルちゃんと呼ぶ女と楪子を見比べ、

「ふふ、ないない! 楪子ちゃんが言ってたのは私の旦那さんでしょ? ハルちゃん女の子だよ? たぶん勘違いだよ!」

 と笑った。だが、楪子は厳しい表情を崩さなかった。

「いいえ違うわ! 為楠春日ためくすはるひ、こいつがママのパートナーで、……私を産んだ女」

「ええ~、またまたぁ」

「…………」

「……本当に?」

「本当よ」

 麻富優が驚愕で口をパクパクとさせている中、当の為楠春日は胡散臭そうに楪子を見ていった。

「何こいつ」


 部屋の中心に置かれた丸い座卓を、麻富優、楪子、春日が囲んでいた。LED電球が明るく三人を照らしているが、内二人の顔をは全く明るくなかった。

 楪子は今にも嚙みつかんばかりの形相で春日を睨み、春日も鬱陶しそうに楪子を睨み返している。

「えーっと」

 そんな二人に挟まれた麻富優は、おろおろと視線をさまよわせ、

「お菓子、食べる?」

「食べるわ!」

「いらない」

 それぞれ相反する返事をもらうのだった。

「じゃ、じゃあ楪子ちゃんは欲しいって言ってるから持ってくるね」

「あのさ、麻富優」

「なぁに?」

「こいつ何者?」

「えーっとねぇ、わたしたちの子供らしいよ?」

「はぁ」

 春日は深いため息とともに、麻富優を見た。

「そんなバカみたいな話に騙されんなよ。嘘に決まってんだろ」

「嘘じゃないわ!」

 楪子はしびれを切らしたように机を叩いた。

「私はあなたたちの子供よ。今から20年後の未来から来たの!」

「バカバカしい」

 春日は吐き捨てる。

「話聞いてりゃ不法侵入者じゃん。麻富優のストーカーかなんかじゃないの? 見つかってごまかすためにそんなクソみたいなでっち上げ吹いてんだろ」

「確かにクソみたいな話かもしれないけど本当よ。それに、あなたよりかはクソじゃないわ」

「黙って聞いてりゃ人の事馬鹿にして。親の顔が見たいね」

「そこの鏡を覗けばいつでも見れるわよ」

 楪子の言葉に、春日はやれやれとかぶりを振った。

「ダメだよ麻富優。こいつ頭おかしい」

「そんなこと言っちゃダメだよ、ハルちゃん」

 麻富優がしかめっ面で咎める。

「はい、チョコパイ。楪子ちゃんチョコパイ好き?」

「え、ホントに!? 大好き!」

 楪子は笑顔で言った。

「未来だと、ママが月に一回の贅沢って言って一個だけ買ってくれてたの!」

「そうなんだ。今日は好きなだけ食べていいよぉ」

「やった! ママ大好き!」

「あのなぁ!」

 春日が声を荒げた。

「麻富優もなんでこんな怪しいやつにかまうんだよ。さっさと追い出せ!」

「でも追い出すのはちょっとかわいそうかなぁって」

「追い出されるのはお前よ、ダメクズカスが」

「為楠春日だ!! はーるーひっ!! 人の名前バカにすんなって学校で習わないのか、最近の高校生は」

「あいにく親に似てね、先生の話あんまり聞いてないのよ」

「そうかい」

 春日は乱暴にスマホを取り出した。

「とりあえず警察だ。麻富優がしねえならアタシがする」

「ちょっとハルちゃん!」

 だが楪子は落ち着いていた。

「出来るものならしてみなさい。……料金滞納で解約して置物になってるでしょ、それ」

「あ」

 春日のスマホは電源こそ付くものの、キャリアのアンテナは立たなかった。

「それに、電話なんて開通させようものなら借金の取り立てが止まなくなるんじゃないの? それでいいのかしら」

「ちっ。忘れてた……」

 春日は舌打ちをした。

「っていうかてめぇ、なんでそれを知って……」

「20年後も同じだからよ。本っ当に学習しないバカだったのね」

「うるせぇ!」

 怒鳴り声をあげる春日を、楪子は冷徹な視線で見た。

「ついでに当ててあげましょうか。お前、今財布の中に12円しかなかったはずよ。あとははずれの馬券ばっか」

「なっ」

 春日が息をのんだ。その反応を見る限り、楪子の指摘は外れてはいなさそうだ。

「競馬でスッてきたんでしょ。それで当面の生活費を借りようとしてママの家に来た。違う?」

「なんで、それを……」

「ママがね、お前との出会った頃のエピソードだって何回も聞かせてくれたのよ。なぜか嬉しそうにね」

「ひっ……」

 春日は不気味そうに後ずさる。

「お前、マジで……」

「信じられないんだったら、これ、見せてあげるわ」

 楪子は制服の内ポケットに手を突っ込んだ。

「うちに一枚だけある写真。私はスマホ持たせてもらってないから、持ち歩けるママの写真はこれしかないの」

 楪子が見せたのは、大判のプリクラだった。三人が並んで写っていて、目や肌が加工されてはいるものの、それが誰かの判別はつけることが出来た。

「……アタシと麻富優と、お前?」

「そう。ママが倒れる前に撮ったの」

 真ん中で笑顔でピースしているのは麻富優だ。少し距離を置いた左隣には、不機嫌な顔をした楪子。同じように隙間を開けて、右隣には興味なさげに視線を逸らせる春日がいた。

「わぁ!」

 麻富優は笑顔で写真を覗き込んだ。

「すごいねぇ。未来のプリクラ、私達年取ってるのに今とあんまり変わらなく見えるよ!」

「いや、それよりも気にするべきところがあるだろ……」

 春日は唖然として楪子を見た。

「てめぇ、じゃあ、マジで……」

「言ってるでしょ。お前の娘だって」

 楪子は汚物でも見るかのように春日を見る。

「でもね、私がこの時代に来たからには変えて見せるわ。お前からママを守って、幸せな未来をつかみ取ってもらうの!」

 楪子は春日を見下すように、そう高らかに宣言した。

「あー、マジか。くそ。嘘だろ……」

 春日はしばらく呻いていた。だが、ふと真剣な顔で口を開いた。

「……あんたさ、ちょっと聞きたいんだけど」

「何? 未来のお前は相変わらずダメでクズでカスよ。一日中ギャンブルと喧嘩でぶらぶら。男遊び女遊びを繰り返して、家には全然帰ってこないくせにたまに帰ってくると金だけせびって」

「あのさ」

 春日がじっと楪子を見つめた。

「結婚って、マジでしたのか? アタシと麻富優が」

「そ、そうよ。そのせいでお前の借金とかをママが」

「……ふーん」

 納得したようにニヤリと笑った春日は、挑発的に言った。

「じゃあアタシ、麻富優のことかなり好きだったんだな」

「え?」

「ハルちゃん?」

 春日は麻富優を強引に引き寄せた。

「絶対離れてやんないから」

「えっ!?」

「なっ!」

 突然の宣戦布告に、麻富優と楪子は目を丸くする。

「このアタシがそこまで入れ込むってことは大分惚れちゃってたんでしょ。ならみすみす手放してたまるか」

「は、ハルちゃん!?」

「ははは離しなさい!! その手を! 今すぐ!!」

「やだ」

 楪子はしばらく鯉のように口をぱくつかせていたが、すぐに目を吊り上げた。

「なんですとぉぉっ!?」

 そう言って春日に飛びつき、麻富優と引き離そうとつかみかかる。

「離れなさい! 離れろ!!!」

「やーだーねー」

「はーなーれーろーっ!!!」

「と、楪子ちゃ、いたっ、ハル……ちょっと」

 二人にもみくちゃにされ麻富優。だが楪子も春日も意にも返さず手を放そうとしない。

 そしてとうとう、麻富優は切れた。

「いい加減にしなさーい!!」

 可愛らしいがよく通る声だった。二人はぴたりと動きを止めた。その隙に麻富優はするりと抜け出すと、低い身長を補うためにベッドの上で脳立ちになって二人を見下ろした。

「二人とも、喧嘩はダメ!」

「でも!」

「あんなぁ!」

「でももだってもナシです!」

 麻富優はしかめ面で大きく腕でバツを作った。

「楪子ちゃんは、私を幸せにしたいっていってくれたよね?」

「う、うん、そうだけど……」

「じゃあハルちゃんと仲良くしてください!」

「ええええ!?」

 楪子は悲鳴を上げた。

「いくらママの頼みでもそれは無理! あいつは親の仇なのよ!」

「……どうしても?」

「うっ」

 悲しそうに瞳を潤ませる麻富優に楪子は呻き声をあげた。

「ま、まあ、向こうが真人間になってくれるなら、それで……」

 その言葉を聞いて、麻富優はパッと花が咲いたように笑った。

「よかった!」

「うう」

 そして今度は春日の方を向いた。何を言われるかの察しがついた春日は、麻富優の気迫に押されたのか一歩後ずさった。

「ハルちゃん!」

「な、なんだよ……」

「楪子ちゃんのこと、あんまり困らせないで上げてね?」

 春日は苦々しい様子で麻富優と楪子をそれぞれ見つめ、

「……努力はしてやる」

 とため息交じりに言ったのだった。

「うん、よかったよかった!」

 麻富優はそれを見て満足げに微笑む。

「じゃ、仲直りの印に握手ね」

 麻富優に促されるままに、三人は手を握る。麻富優は笑顔だったが、楪子と春日は憮然とした表情のままだった。


 ひと段落して、春日は楪子と彼女が現れたクローゼットを不審げに見た。

「っていうか、お前さ。クローゼットから来たとかマジ意味わかんないんだけど。引き出しじゃないのかよ」

「何よ引き出しって」

「未来からくる奴は引き出しからって相場があるんだよ」

「どこの相場よ」

「うるせぇ」

 ぶつくさと言いながら、春日はクローゼットの戸を開ける。中はいたって普通で、いくら調べてもどこかにおかしなところはなかった。

「普通じゃん」

「だから詳しくは知らないって言ったでしょ! 私に文句言わないで頂戴!」

 すると麻富優が思い出したように手を叩いた。

「そうだ! ところで楪子ちゃん、枕は羽毛とソバガラどっちがいい?」

 麻富優がそう尋ねると、楪子は一転笑った。

「私はどっちでもいいわ! ママの選んでくれた奴なら何でも!」

「じゃあ羽毛にしてあげよう!」

「やったありがとう、ママ!」

「いや待て。なんかここで暮らす流れになってねえか?」

「あたりまえでしょ、帰れないんだから」

 楪子はさも当然と言わんばかりに春日に言った。

「それに、そもそもお前をママから引き離すまでは帰らないわ」

「あ、楪子ちゃんその言い方ダメだよ!」

「う、ごめんなさい」

「だぁぁああ!!」

 自分の思うように話の進まない苛立ちで、春日はとうとう切れた。

「なんなんだよまったく! どいつここいつも頭おかしいんじゃねーの!?」

「おかしいのはお前よ。そんなに嫌なら出ていけば?」

 楪子は挑発するように言った。

「だいたい、今のお前にはママに執着する理由はないはずよ」

 その言葉に、春日は固まった。

 確かに、春日には麻富優に執着する理由は一つもなかった。

 今の春日にとって、麻富優はただ居酒屋で出会ってしまっただけの女である。たまたまいい男がいたので、相手に付き合って日本酒をあおってしまい、便器と友達になっていたところを助けられたのだ。

『よかったら、これ使ってください』

 といって差し出されたハンカチが、すべてのきっかけだった。

 そしてこの家に案内され、一晩介抱されたのだ。とはいえ春日は詳しいことは覚えていないし、麻富優にわざわざ聞くまでもない話だったので放っておいた。

 ちなみに一緒に来ていた男は自分を見捨てて帰っていたらしく、後でぶん殴った。

 麻富優とはこれきりの縁かと思っていたが、それからというもの、麻富優はやたらと春日に絡んできたし、春日は春日で彼女と飲めば金を払わなくてもいいので付き合ってやっていた。

 家にも来てほしいと何度か言われていて、今日たまたま有り金を使い果たしてしまったので金を借りに来た。ただそれだけの関係のはずだった。

 にも拘わらず、あんなことを言ってしまったのは、やはり楪子の言葉のせいだった。

 麻富優は、絶対にありえないと思っていた『結婚』をする相手だという。

 春日の生き方は基本的にその日暮らしだ。男でも女でも、気が向いた時に押しかけ、その気がなくなったら出ていく。押しかけるのも別に好意があるわけではなく、そうしないと気が狂いそうな焦燥感に襲われるからだ。そして、その思いが一人に向き続けることは、これまで一度もなかった。

 だから結婚なんて鎖は死んでもごめんだと思っていたし、たまに重い相手が迫ってきたとしても足蹴にしていた。

 だというのに。

 春日はニコニコと笑う麻富優を見つめた。

 そして楪子にさんざん煽られた今も、自ら帰ろうという意思はこれっぽっちも湧いてこなかった。

 自分が不快な場所にわざわざ長居するほど、気の長い人間ではないことぐらいわかっているのに。むしろ、この場から離れたくないという思いがどんどん増していく。

「楪子ちゃん! そんなこと言っちゃダメって言ったでしょ!」

 顔を上げると、麻富優が楪子を叱っていた。

 そしてふとこちらを向いた。

「ハルちゃん、あんまり怒らないで上げてね」

「え、いや、まあ」

 ふいに声をかけられたので、尻すぼみな返事しか出てこない。

「アタシゃ大人だからね、そこのガキより。こんぐらいで怒りはしないっての」

「よかった、ありがとう」

 そう言うと、麻富優は春日に抱き着いた。

「うわぁっ!?」

 麻富優の髪が頬に触れ、柔らかな体が密着する。動揺した春日は飛び上がるが、しっかりとホールドされており逃げることが出来なかった。

「な、なな!?」

 だが麻富優はなぜか首を傾げた。

「どうしたの? ハルちゃん、これ好きでしょ?」

「はぁ!?」

「だって初めて会った日、泣きながら私にだっこせがんで来たんだよ? だからまたしてあげようかなって思ってたんだけど、なかなか機会がなくて」

「そそそそ、そんなこと言ったのかアタシは!?」

「こいつがそんな可愛げのある事言ったの!?」

 春日と楪子がそれぞれ驚くが、麻富優は当然という風に言う。

「だって、ハルちゃん寂しがり屋でしょ。だからなんだかほっとけなくて」

「さ、寂しがり屋ってなんだよ! 人の事勝手に」

「じゃあこれ嫌い?」

 麻富優は春日の頭をなでる。春日は反論しようと口を動かすが、

「……、別に」

 結局気が抜けたように、そう言うだけだった。


「……決めた」

 しばらく麻富優に撫でられ、猫のように丸まっていた春日は、急にすくっと立ち上がった。

「アタシもここに住む」

「はぁ!?」

 歯噛みしながら様子を見ていた楪子が、春日に対抗するように立ち上がる。二人の上背は同じぐらいで、互いを睨む目元はよく似ていた。

「何言ってんの!? 何の権利があってそんなこと言ってるのよ!」

「少なくともお前よりかは権利あるよ!」

「娘以上に権利のある人間がいるのかしらね!?」

「親に向かってなんだその口の利き方は!」

「今更親面しないで頂戴!」

「お布団足りないからハルちゃんは自分の持ってきてくれると嬉しいな」

「「受け入れるの早いな!」」

 楪子と春日のツッコミがそろった。だが麻富優はニコニコと答える。

「好きな人と一緒に入れるんだもん。嬉しいに決まってるじゃない」

「ぬぅ……」

「手ごわいな、麻富優……」

 麻富優に毒気を抜かれたように、二人は肩の力を抜いた。

「まあいいわ。こいつがそばにいたほうが、ママに迷惑かけないか監視しやすいし」

「さっさと未来に送り返してやる」

 口ではそう言いながらも、先ほどまでの勢いはなかった。

「じゃあ、今日から二人ともよろしくねぇ!」

 こうして、三人の奇妙な共同生活が幕を開けたのだった。

「カーテン、開けよっか」

 麻富優は笑っていた。


 ワンルームに一人でいるのは退屈だった。

 世界から切り離されて、一人ぼっちになってしまった感覚。

 窓の外から町を見るたびに、お前なんかいなくてもいいのだと突きつけられるような気がして、いつの間にかカーテンを閉じたままの暮らしをするようになった。

 誰かを助けるのも受け入れるのも、そうしなければ自分という形を保てないような気がしていたからだ。

 誰から自分を認識しなければ、幕上麻富優は消えてしまう。だから麻富優は見てもらおうと世話を焼き、相手を受け入れ、自らの存在を焼き付けんとしていた。

 突然押し掛けてきた二人の同居人は、麻富優をどうしようもなく麻富優たらしめてくれる存在のように思えた。

 この二人が自分を必要としてくれるのならば、自分はどこまでも二人を受け入れることが出来る。

 麻富優はそう確信して、再び笑みを浮かべるのだった。

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クローゼット・フロム・ザ・フューチャー 徒家エイト @takuwan-umeboshi

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