第6話 新婚夫婦の感情
勧善懲悪の気持ちから、それを見て見ぬふりをして飛び出した刑事がいたとして、その刑事は他の捜査員から白い目で見られ、被疑者を取り逃しでもすれば、責任問題になりかねない。
これは難しい問題で、
「大きなヤマを目の前にしていれば、小さな暴行事件くらいは目を瞑らないといけないではないか」
という上司に対して、行動を起こした刑事は、
「犯罪に大きいも小さいもない」
と言って、正義感を振り飾る人がいる。
こういうシチュエーションはテレビドラマなどでは結構見られることだ。そのほとんどが、暴行犯人を見逃さなかった警官に賛美を浴びせるが、果たしてそうであろうか。
これがいわゆる日本人における、
「判官びいき」
という考え方であったり、警察にある縦割り社会であったり、管轄という縄張り意識を勧善懲悪で懲らしめるという考えが、美徳とされることでの賛美なのだろう。
だが、果たして実際はどうなのだろう?
暴行犯を見過ごすことができなくて、動いてしまったことに、
「警察官として当たり前のことをしただけだ」
という賛美だけではことは収まらない。
肝心の取り逃がした犯人というのが、
「警察の地道な捜査で、ローラーを掛けたことで、やっと探り出した相手を、いとも簡単に逃がした」
ということになるのであれば、本当に暴行犯という、いわゆる「小さな事件」を解決するために、大きな事件を犠牲にするというのはいいことなのだろうか?
その事件は麻薬が絡んでいるかも知れない。この時に逮捕してしまうと、うまくいけば組織を根こそぎ壊滅させられるかも知れない。逆にこの時できなかったことで、相手もさらに警戒し、二度と警察に逮捕の決定的瞬間が訪れることはないかも知れない。
もし、この情報が、内偵者によるものだということが相手にバレれば、内通者が殺されてしまう可能性だってあるのだ。
下手をすると、今回の逮捕劇が未遂に終わったことで、死ななくてもいい命がいくつ失われるかということを考えると、目の前の事件を解決できたとしても、
「お前は何てことしたんだ。お前のちっぴけな正義感が、たくさんの命を奪うことになるかも知れないんだぞ、もしそうなったら、お前がやったことは、ただの自己満足でしかない」
と言われるだろう。
刑事に憧れて警察官になった人の中には、昔の刑事ドラマを見て、
「勧善懲悪の気持ち」
で、刑事を目指す人が一定数いるだろう。
そして、そんな連中は必ず刑事ドラマを見て憧れを持つのだ。
警察の縦割りに対しての不満、さらにヤクザ顔負けの縄張り意識、さらに、何かなければ動かないという警察の公務員意識に対して、ドラマは完全に挑戦していた。
しかし、それは視聴率を稼ぐためのもので、かなりの部分が盛っているのも事実であろう。
先輩刑事も同じ思いで入ってきた人も多いだろう。今では完全にドラマはドラマと割り切っているので、どこかで、自分の考えが変わっていく契機があるのだろうが、そういう意味では、
「これは誰もが通る道であり、これを乗り越えてこそ、一般人から警察官になれるのだ」
と考えてもいいだろう。
勧善懲悪や、警察の体制のいい悪いは、一言では言い表せない問題を秘めているのだった。
要するに、
「どれほど冷静に先を読むことができるのか?」
ということである。
まずは、警察組織というものに対してであるが、たぶん最初に警察に入った時というのは、縦割り社会というものを自分で分かっていながら、入った人がほとんどであろう。少なくとも自分がこれから働こうというところがどういうところなのかということを下調べくらいはするだろうし、警察官になろうと思ったきっかけがテレビドラマだったりもするわけなので、警察組織のいいところばかりをテレビドラマでやっているわけではない。むしろ、そういう組織に対して、一人の勧善懲悪な刑事が立ち向かうという構図を描いたものが多いだろう。
ただし、あくまでも、ドラマはドラマである、確かに最後は誰が正しいのかなどということを明確にはしていない。警察組織側から見た話もしっかりと描いている。
「警察に入って、自分でやりたいことをやるなら、出世して、それができるまで上り詰めるしかない」
という理屈になる。
そのためには、勧善懲悪はおろか、自分の意志まで木っ端みじんに砕くだけの覚悟が必要な時もある。
「大人のつきあい」
などという、接待に招かれて、上司のご機嫌伺いをしたり、上司に忖度し、やりたくもない汚れ役をさせられたり、下手をすれば、自分だけが責任を取らされる羽目にならないとも限らないが、それでももがき苦しみながら、上を目指している人だって実際にはいるのだった。
ただ、気を付けておかないといけないのは、よほどの覚悟と一貫した強い意志がなければ、長いものに巻かれてしまうということである。
いつの間にか自分のカネと利権に塗れてしまい、保身のために金を使うという、そんな下衆な警察官に成り下がってしまわないようにしないといけないということだ。
それは、まるで血を吸われた女性が、ドラキュラになって生まれ変わるという話と同じではないか。
魂を抜かれた後に、悪の魂を埋め込まれてしまったのであれば、それこそ犬死であり、さらに一番自分のなりたくないものになってしまうというのは、実に本末転倒なことである。
しかも、一般募集から警察官になった人間は、出世したとしても、最高でも、
「警視長」
と呼ばれるところまでだという。
つまり、それ以上になるには、国家公務員一種の試験に合格してからの、いわゆる、
「キャリア組」
でないとできないという、
ちなみに、ノンキャリアの場合は、一般の警察官採用試験に合格することを前提とし、そこから警察学校に入校し、巡査という階級から始まるという、地方公務員からという一般昇進になるのだ。
昇進するには、昇進試験に合格する必要があり、警備補、警部、警視を経て、その上の警視正になった時点で、初めて国家公務員の資格が与えられるということになる。
ちなみにであるが、都道府県警察において、東京都は少し特殊である。そもそも東京都というものが特殊である。
ちなみにの、またちなみにとなるが、元々廃藩置県において、最初に東京都というものは存在しなかった。東京は大阪と同じで東京府だったあのだ。
「東京府東京市○○区」
これが、昭和十八年まで続き、それ以降は、東京都という特別行政区域となったのだが、いわゆる、
「警視庁」
と呼ばれるものは、東京都のみを管轄するもので、その最高位が警視総監である。警察勘の階級において、最高位に位置する。(その上の警察庁長官は階級街のため)
道府県警察本部の長である、警察本部長は、その下の、警視監であったり、警視長と呼ばれる人が就任する。つまり、ノンキャリアは、警視総監にはなれないが、道府県警察本部長にはなれるということである。
話は若干逸れてしまったが、警察機構の話というのは、結構ややこしく、捜査権限などの細かいことなどは、警察法というもので、管理されている。警察のトップは、警察庁ということになるのだ。さらにちなみにその上は、国家公安委員会であり、内閣府の外局と言われる、行政機関になるのである。
そんな警察機関というのは、縦社会というものと同時に、縄張り意識もある。いわゆる、
「管轄」
というものだ、
都道府県が違えば、警察本部も違うので、下手をすれば、自分たちの県で通用していたことでも、県をまたいだ時点で通用しないこともある。県独自に違う条例のようなものもあって、実にやりにくいであろう。特に東京都接しているようなところでは、その感覚は候で、警視庁と神奈川、埼玉。千葉県警とではまったく違うと言ってもいいだろう。
何しろトップが、警視総監という県警本部長よりも二階級も上であるという事実だけでも、かなりのものだ。
やはり、東京は特別行政区ということになるのだろう。
とはいえ、同一県内でも、警察署の管轄が決まっていて、そこを超えての捜査は許しがいったりする。
もっといえば、逃走犯人が管轄を超えて隣の警察署管内に行ってしまえば、手出しができないというところもあったりする。
もちろん、極端な例であるが、目の前を走り去る犯人を逃がすことになりかねないということは、一般市民としては安心して警察を頼ることができないということだ。
何と言っても、警察官は、公務員、警視正以上は国家公務員になり、警視正未満は地方公務員だ。
テレビドラマの刑事ものなどで、捜査の指揮を取っている警部級であっても、地方公務員なのである。
どこまであてになるかあるか分からないというものである。
そんなことを考えていると、いちかが、
「そのバラとスズランというものについて、どんな意味があるのか、推理してみようか?」
と言われた。
「何か意味があると思うの? 別に適当だと思っていたんだけど」
というと、
「そんなことはないでしょう? 警察に言われることを覚悟で相手も、そういうことをしているんでしょう? いくら、警察が何もできないと分かっていても、もし、何かの弾みで捕まりでもすれば、これらの行動は必ず、追及されるでしょうね。だから、その男だって、意味を持ってのことしかしないと思うのよ。ところでね。その表に置いておいた人って、男なんでしょうね?」
と言われた。
ゆいは、少しビックリした。まさか、女性がそんなことをするとは思ってもいなかったので、いちかが何を言いたいのか分からなかった。
「ゆいは、私がどうしてこういう話をしたのか、ピンと来てはいないんでしょうね? これも別に私は意味もなく聞いたわけではないのよ。表に置いてあった花が、最初がバラで、次がスズランだったということに何か意味があると思ってね」
といちかは言った。
「私もいろいろ考えてみたんだけど、バラやスズランのことをね。スズランというのは、猛毒があるというのは聞いたことがあったので、毒に対しての暗示ではないかと思ったんだけど、バラに関しては思いつかなかったわ」
とゆいは言った。
「そうなんだ。今私が、バラを置いたのは、本当に男かって聞いたわよね?」
といちかが聞いてきたので、
「ええ、それがどうしたの? 男でなかったら、女ということなの?」
「ええ、そういうこと。でも。それが最終的な答えではないの。あくまでも途中経過というところかしら?」
「ますます分からないわ」
と、ゆいは、いちかが何を言いたいのか分からなかった。
「もしね、そこに置いたのが、女性だったとすれば、今度は、ゆりではないかと思うのよ」
というではないか。
「ゆり? ゆりって、英語でリリーという、あのゆりのこと?」
「ええ、そうよ。ここまで言って分からない?」
「ええ」
「じゃあ、百合族って言葉聞いたことはない?」
と言われて、
「聞いたことはあるけど、意味は知らないわ」
と言った。
「知らないんだ……」
と、今度は考え込むように、いちかが、顎に手を掛けて、考え込むようなポーズをした。
ゆいは、人が知らないことを知っていたりして、周囲をビックリさせることが往々にしてあったりしたは、逆に、
「こんなことも知らないの?」
とばかりに、ウブなところもあったりした。
特に、大人の会話には、その傾向が顕著に表れていて、今回のような隠語もしかりで、さすがに、いちかも閉口してしまった。
「百合というのはね、大人の隠語なんだけど、女性同士の同性愛のことをいうのよ。いわゆるレズビアンね」
と言われた。
「ああ、そういうことなのね?」
とゆいが言うので、
「じゃあ、バラというのは分かる?」
と訊かれて、
「今のお話の経緯からすれば、男性同士の同性愛、ホモということになるのかしら?」
「そういうことね。昔から、百合族、バラ族なんて言われ方をしていたりしたわ。私はあなたの部屋の前にバラがあったって聞いた時、もし、それが何かの暗号だということであれば、その答えは、ホモではないかと思ったの。これは、私の経験から感じたことなんだけど、私の前に付き合っていた男が男色だったということを聞かされたって言ったでしょう? あれから私は、そういう男色やレズのような一種の変態的なものが変に気になるようになったのよ」
というのだった。
「そういえば、確か旦那さんが変態で、昔付き合っていた女が捨て台詞を残していなくなったということがあったわね」
とゆいがいうと、
「ええ、そうね」
といちかは、答えた。その表情が寂しげでもなく、却ってあっさりしているように見えた。
「じゃあ、あの女の話はウソだったのかしら?」
とゆいが聞くと、
「そんなことはないわ。でも男色というわけではなかった。男色というのは、その性癖を隠すために、カモフラージュで結婚するというけど、彼にはそんなことはなかった。普通に私たちは愛し合っているし、ガツガツしたところもない。男の人が好きだというニュアンスはないし、彼は紳士なのよ」
と、のろけのような言い方をした。
「それなら、よかったですよね」
というと、
「でもね。彼はやっぱり変態だったのよ」
と、少し語気を強めるようにいちかは言った。
「変態というと?」
「それはね、SMの気があるということなの。彼にはサディスティックなところがあるんだけど、それは、ベッドの中だけのことなんだけどね」
と言いながら、恥ずかしそうに下を向くいちかだった。
「えっ、いちかはそれでいいの?」
と聞くと、
「ええ、いいのよ。私も最初は戸惑ったわ。でも、そんなに嫌ではなかった。元々、彼がホモではないかって思っていたくらいだったので、ホモの男性に抱かれるよりはマシだと思ったのね。ホモの気がないと分かった時は嬉しかったもの。だけど、それなりに覚悟はしていたので、ソフトSMくらいならいいかもって思っていると、自分が彼に身体ごと委ねていることに気が付いたの。彼はとても紳士で、彼に委ねることに、私も快感めいたものを感じるようになったのね。私が身体を彼に委ねると、彼は本当に嬉しそうな顔をするのよ。私を包み込んでくれるようなね。彼の性癖というのは、羞恥系のものなので、痛みを伴ったり、苦しいものではないので、お互いに目と目が合った時など、本当に嬉しいの。ノーマルなセックスだったら、恥ずかしくて目を逸らすか、思わず笑ってしまって、ごまかすかのどちらかなんでしょうけど、彼との間にはそんなことがなく、私も快感に襲われていることに気づいたのよ」
といちががいうので、
「じゃあ、いちかは、あなた自身もそういうセックスに染まっていったということなのかしら?」
とゆいがいうと、
「そうかも知れない。あるいは、私自身にもマゾの気があったのかも知れない。彼からセックスの間に辱めを受けることで、身体にビリビリ電流が走る感じなのよ。何度でも昇天できるしね。こんな快感、今までになかった。身体の相性がいい悪いという人がいるでしょう? 私たちは、その領域を飛び越えている関係のような気がするの。お互いを求め合うというか、ずっと、二人の間のこのような感情をもたらす関係は永遠に続くのではないかという感覚ね。ずっと飽きることはないというかね。でも、そのためには、少々のプレイはエスカレートするかも知れない。不安と言えば、そこかしらね?」
といちかは言った。
「いちか自身も、自分で変態だという意識はあるの?」
「ええ、ただ、その時に感じるのが、変態の定義って何なのかな? って思うのよう」
「というと?」
「私は、旦那といて、別に嫌でもないし、変態という言葉には皆抵抗あるでしょう? 私も旦那のことを変態ってあの女から言われた時はショックで、真剣、婚約解消、どうしようかって思ったのよ。でも、私はその時、思い切って聞いてみたの。あなたは、本当に変態なんかってね。そして、その話をそのオンナから聞いたというと、彼は、そのオンナとはすでに終わっていて、そのオンナの言っていることは、半分はウソだというのよね」
といちかがいうと、
「えっ? 半分というのは?」
「自分が、男色だという情報は間違っているというのよ。でも、変態に関舌は否定しなかった。ただ、自分を信じてほしいというだけだったわ」
といういちかに対して、
「それでも、結婚をやめようとは思わなかったということね?」
「ええ、その通りよ。だって、元々、結婚なんて、分からないものじゃない。昔は成田離婚なんて言葉が流行ったくらいだからね。要するに、それは、結婚してから、今まで見えていなかった部分が見えてくるからだということ。逆に言えば、結婚するまでは、相手のいい部分しか見ようとしていないということと、相手も、嫌われないように見せたくない部分は見せないようにしているでしょう? 結婚前は、これだけ付き合ってきたのだから、相手のことはすべて分かるなんて自惚れているから、結局何も知らないのに、知っているかのように自信満々で結婚してしまうと、本当は相手を見誤っていたことに気づいても、それはすでに後の祭りというわけね」
といちかは言った。
「なるほど、それは何となく分かる気がするわ」
とゆいは、相槌を打ったが、いちかは、どこまでゆいが分かっているのかということにはまったく触れることもなく、
「結婚してからの生活は、二人にしか分からない。少しずつ、この人は自分の感じていた人とはどこか違っていると気付くと、それが、小さな穴となって、次第にどんどん広がっていく。それが自分でも分かってきて、広がりが大きくなるのに比例して、自分でもどうすることもできなくなってしまうのよ。しかも、新婚なのに、そんな感覚を持ってしまった自分が悪いのか、今まで隠してきた相手に対する不信感なのかなのよね。でも、自分がそう思っているということは、相手も同じように思っているかも知れないということを分かっていないと、不公平な感じがしてくるのよ。夫婦って、何でも分かち合うものだって勝手に思っている人がいるでしょう? そういう人にはきっと、その間はたまらないと思うし、そういう人に限って自分のことしか考えていないのよね。自分と同じように、相手も悩んでいるかも知れないなんて、決して感じることはないのよ」
というのだった。
「お互いにすれ違ってしまうということかしら?」
とゆいがいうと、
「そうね、目と目で話ができるくらいの至近距離で見つめ合っているような関係を、どちらからともなく目線を逸らすような感じになり、前に向いて歩いていって、相手を通り越してしまうと、どちらかが、振り返らない限り、二度と会うことはない。それが何を意味しているかというと、結局、お互いに自分のことしか考えていなかったとすると、そこでもう終わりだということ。そして、どちらかが振り返って、相手の後ろ姿に視線を向けた時、相手がそれに気づいてくれるかくれないか、それによって、将来も決まってくる。結婚した時というのは、将棋でいえば、一番最初に並べたあの状態なのよね。結婚生活というのは、一つ一つ駒を進めていくのと同じ、最初にすれ違った場合というのは、お互いにそのことを分かっていないということなんだって思うの。将棋で一番隙のない布陣というのが、一番最初に並べたあの形なんだからね」
というではないか。
「じゃあ、いちかも、その時に振り返ったの?」
「うん、でも、そもそもすれ違ってもいなかったのよ。最初に見つめ合った視線を最初に切ったのは私だったんだけど、顔を逸らしながら歩いて行こうとすると、彼が私の前にたち塞がって、抱きしめてくれたの。それが、彼の私への抱擁であり、愛情だったのよ」
と、訊いているだけで、こっちまで顔が真っ赤になってきそうだった。
「ごちそうさま」
と言ってニッコリと笑うと、
「だからね。私も今は、SMのプレイに実は夢中なの。こんなこというと恥ずかしいんだけどね。でも分かったの。私が婚約中に変な女から彼の性癖を聞かされてショックを受けている時、彼も私の様子を見て、何かおかしいと思ったんでしょうね? きっと婚約を解消されるんじゃないかって思ったかも知れないわ。でも、彼の性格から言って、まず私が何も行動を起こす前から自分が気になっているからということで、気持ちを言ってくる人ではないということをね。実際に、彼は自分の意識をしっかりと持って、私を見てくれた。後で聞くと、自分も私が何かに悩んでいることは分かっていたけど、どうすることもできないと思ったので、何も言わなかったというの。私がね、だったら、私が婚約解消を言い出せばどうだった? と聞くと、最終的にはしたがったと思うって言ったのよ。もし、自分が必死になって止めに入ると、却って相手の気持ちを意固地にするかも知れない。少なくとも相手を疑って、信じたいと思っているのを超えてからの気持ちだからってね。彼がいうには、女性というものは、最初は必死になって我慢するけど、我慢の限界を超えると、何を言っても逆効果になる。つまり、女が別れに関して口にし始めると、もう後戻りができないところまで覚悟をしてから当たってくるから、男にはどうすることもできないんじゃないかって思っていたのよ。私は確かにその通りだと思った。彼の言う通りであって、それ以上何も言えないと思ったの。それが私の持った疑いに対しての彼の気持ちの上での答えであり、そして、SMプレイが、身体に対しての答えだったのよ。彼は、精神面でも肉体面でも、私に対して、十分なくらいに接してくれていると、そう思った時、別れるなんてありえないと思うのが普通なんじゃないかしら? 今まで知っていると思ったことを、ある程度リセットして、彼は新婚というものをしっかり見つめて、私に不要な不安感を抱かせないようにしようと、考えてくれたのだと思うと、本当に感激だったのよ」
というのだった。
「本当にすごいわね。私はそんな感覚を持ったことがなかったわ」
とゆいがいうと、
「それはそうでしょうね。婚約している時に、新婚生活がまったく分からないのと同じで、結婚も婚約のしていない人が、この話を訊いたとしても、なるほどとは思うかも知れないけど、理解まではできないと思うの。だって、もし、異性とお付き合いをしているとしても、その付き合いがどれくらいのものなのかって、普通は分からないでしょう? ちゃんと相手のことを考えているのか、自分で勝手に想像が妄想を膨らませて、勝手にお花畑を広げているだけなのかも知れないしね。でもお付き合いをしている間はそれでいいの。逆のそれが特権とでもいうんじゃないかと思うのよ。交際期間というのは、その期間にしか味わうことのできないものもあって、その人にしか分からないことがある。それをどう過ごしていくか、そして、愛をどのような形で育んでいくかは自由なのよ。そこで性格が違うといって別れるのは、別に問題はない。むしろ、もっと深い関係になって別れるとなると、いろいろとややこしくなるのは当然のことよね? それを分かっての男女交際ではないと思うんだけど、本当は一番楽しい時期なのかも知れないわね。何と言っても、どっちにも転べるんだからね」
と言われたゆいは、
「でも、それだけに、一方が勝手に相手を嫌になることだってあるわけでしょう? お互いに別れる時、一緒に相手を嫌いになるわけではないので、必ず、相手を傷つけることになるだろうし、ふる方だって、平静な気持ちでいられるとは限らない。少なからず。お互いに傷が残るのも当然だと思うの。でも、立ち直れないということはないので、本当に最後には、自分の経験値があがったというくらいになっているのかも知れないわね」
と言った。
「確かにそれは言えるかも知れないわ。要するにその人にとっては、立ち直るまでは、恋愛期間が続いているというわけでしょう? 相手は終わっているのに、自分だけが、時計を進めることができないという思いとの葛藤があるからね。その思いは私は大切だと思うのよ。その後に婚約、結婚とつながっていくのに、恋愛での経験は貴重なの。やり切れない気持ちがトラウマになったり、どうしていいのか分からなくなったりと、その人の中にどのような形で残るかというのも大きな問題なのよ。でもね、消えない悩みなんてないのよ。先に進むためのステップとして、悩みがあるのだとすれば、悩むことの本当の辛さが、自分が今どこにいるのか分からないということだと思うの、だから、その場合の解決策は、悩んでいる自分の中に、本当の自分を返すということなのよ。魂の合体とでもいえばいいのかしら?」
と、いちかは言った。
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