第16話
シーン15
不思議と恐怖は感じなかった。目の前に現れたのは自分の臓物を土の上に散らかした鬼だというのに、威圧感こそあれどあの時ほどの恐ろしさがなかった。それはきっと鬼の顔が能面のように無表情で、不気味だったからかもしれない。
対して術者である男の顔は青白く、大粒の汗がアスファルトで塗り固められた地表と絶え間なく滴り落ちていた。立っているのもやっとの様子で、息も荒い。
鬼はそれだけの負担を術者にかけるほど、強大な存在ということだ。
「…………さっさと終わらせろ、守鬼」
しんどそうに放たれた言葉に、鬼はこくりと頷くとまっすぐこちらへやってくる。その歩みはとてもゆっくりで、ヒトナリを脅威とも思ってないことが伝わってくるようだった。それに対してヒトナリは何も思わない。事実、鬼の方が何倍も強い存在だからだ。
燃え盛る右腕に目線を下ろす。
この純白の炎は色々なことを教えてくれた。それは言葉ではなくイメージとしてヒトナリの脳へと伝えられた。
陰陽師のこと、霊力のこと、そして対峙する鬼が通常式神にはなり得ない本物の神であることだ。その証拠であるように人間の霊力は透明であるのに対して、鬼から立ち昇る霊力は煌びやかな黄金色だ。それは神に属するものしか持たない霊力の色である。
人が神を倒すことなどできない。それは当然のことであった。では、どうするべきなのか。ヒトナリの中ではもう決まっている。
「ふぅ………」
小さく小さく息を吐く。それだけで身体がほぐれ緊張がとれた。純白の炎は変わらず揺らめいている。
ヒトナリに宿った炎はユカの炎と似て非なるものだ。物に付加はできないし、怪異や神に対する効力もない。ではどんな力を持っているのか。それはとても単純。
炎が灯った部分の身体能力を向上させる、それだけだ。そして、それは炎の密度を濃くすればするだけ倍化する。単純で分かりやすく素晴らしい能力だ。しかしながら欠点も存在することもヒトナリは理解していた。たが、今回に限りそれは欠点になりえない。
目を伏せる。炎の一部を右脚の裏に少しずつ移動させる。これはヒトナリの考えを鬼に悟らせないようにするための行動だった。いくら鬼が自分を舐めてくれているといえど、用心するに越した事はない。幸い鬼が気付いた様子はなく、あとはタイミングだけだ。
鬼の筋肉に包まれた太い足が、視界に入った。後もう少し、もう一歩だけ進んでくれればいい。それだけで全てが揃う。そして、鬼はヒトナリを警戒することなく一歩を踏み出した。
(……来た)
ヒトナリは右脚の炎を一気に燃え上がらせる。それに気付いた鬼はスピードを上げ、迫ってくる。たが、それでは遅い。もう準備は整っていたのだ。伏せていた目を上げ、目標を真っ直ぐに見据える。捉えたのは鬼の後ろで苦しんでいる術者の男。そう、ヒトナリは最初から正々堂々やり合うつもりなどなかった。
自らの全力を持って男を叩き潰す。それしか頭にない。
目線を逸らさず、目標だけを目指し、右脚でアスファルトを踏み砕いた。炎によって何倍にも膨れ上がった脚力は鬼の脇をぬけ、次の瞬間には男の前へとヒトナリを送り届けてくれた。目があった男は苦虫を噛んだような顔をしている。
「てめえ……」
やはり油断はできない。男は懐に手を入れて何かの準備をしている。こちらを睨みながらも隙がない。
式神だろうか。それとも自身を守る術かなにかか。どちらとしてもヒトナリが不利になるもののはず。なら、その前に意識を刈り取れば済む話だ。
踏み込んだ勢いを殺すことなく、右腕に全ての炎を集中させる。そして、後ろへと引き絞る事で力を溜めた。今、ヒトナリが居るのは男の正面。お互いの顔がくっきりとわかる距離だ。これならば届きうる。
狙うは顔面。それのみ。
十二分に溜めた拳を男に向かって解き放つ。それは炎の力で底上げされたヒトナリの全力。いくら相手がプロの陰陽師と言えど無傷とはいくまい。たが、拳が届くほんの数センチ前で、男の顔はにんまりと笑みを浮かべていた。
「……バーカ。そんなうまく行くかよ、守鬼!」
何故、今さら鬼の名前をと考える暇もなく、突如現れた巨大な手によってヒトナリの身体は真横へと払われた。
その衝撃は凄まじく、瞬時に身体右半分に霊力、そして炎を薄く纏わせたがほぼ無意味で、恐ろしい衝撃がヒトナリを襲った。皮肉にもそれは鬼に初めて会った時に食らった攻撃と同じであった。
「くッ……」
吹き飛ばされた先は酒屋。入口の自動ドアを破壊し、店内の商品棚がクッションになった事で、ヒトナリは停止した。あの時のように内臓が飛び出る事はなかったものの、痛いものは痛い。さらには陳列されていた酒が破壊されたことによって、中身がヒトナリにぶちまけられ酒の匂いが鼻を刺激した。
ツンとくる独特の匂い。タイムスリップ前はよく嗅いでいた匂い。それが今は酷く懐かしく感じた。
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