第14話
シーン13
これはとても重要な選択だ。女の手を取れば、ユカを救える可能性が生まれる。しかし、女はヒトナリに不利な契約だとはっきり言った。隠す事なく言った事には好感が持てるが、そこまで言うということはそれだけの不利益がヒトナリに降りかかるという事だ。
……そうだ。契約の内容を聞いてからでも遅くはない。自分は思っている以上に焦っていたようだ。内容も聞かずに、契約を結ぶなどやってはならない事のはずなのに。そんな考えさえ思い浮かぶのに時間がかかってしまった。
『契約内容を聞いてもいいですか』
――……はい。まず最初に言った通り、私が渡す力はあくまであの女を助ける事が出来るかもしれないというもの。つまりは可能性を高めるだけです。絶対ではありません。
そして、次にこの契約を結んだ後、貴方の魂は私のものとなります。今世を全うしたのち輪廻転生の輪に入ることはなく、永遠にです。
『……永遠、ですか』
――永遠です。ずっとずっと、私と一緒にここで過ごす事になります。だって、それだけの力を授けるのです。これくらい安いものでしょう?
当然のことだと女は表情ひとつ変えず言った。
――大丈夫。恐ることはありません。契約を結べばあの女を救えるかもしれない。その為に来世を私と過ごすことになるだけ。ほら、不利な契約とは言いましたがよくよく考えれば、利の方が多いのでは?
『……そうかも、しれません』
――そうでしょう。さぁ、もう一度聞きましょうか。ヒトナリくん、私の手を取りますか?
ヒトナリは白くきめ細やかな肌を持った手を見つめる。
この手は取るべきということは、分かっていた。しかし、自分の中の臆病な虫が邪魔をする。
あの時の手は殆ど悩むことなく握れたのに、この手を取ることはとても難しい。こういう時、自分の消極的さが嫌になる。
タイムスリップをしてから積極的に動こうと努力していたのに、女に本心を見抜かれてからは昔の自分に戻ってしまっていた。
……しかし、ここで怖気付いて女の手を取らなかったらきっと、ヒトナリは後悔する。それだけは避けたかった。たった一つの行動で、後悔し続けるなんてもう二度とごめんだ。
女が提示した契約を見ても、そんなに不利益なものではない。ただ力を貰う代わりに、自分の来世を渡せばいいだけ。恐ることなど一つもない。少なくとも今世は自由に生きられるという事なのだから。
こくんと唾を飲み込んで、女の手へと自分の手を伸ばす。微かに震える手は、ヒトナリの心を表しているようだった。
女は笑っている。
――ふふっ。ヒトナリくんなら、そうすると思っていましたよ。契約成立です。
ヒトナリはがっちりと女の手を握っていた。彼女の手は氷を触っているのではないかと錯覚するほどに冷たい。海の中にいる、それも関係しているのだろうか。
――どうしました? 不思議そうな顔をして。もしかして契約をやり直したいと?
『いえ、そうではありません』
――そうですか。なら、よいのですか。
女はまた笑って、優しく手を離した。
――さて……、ここに契約は完了しました。来世の貴方は私のもの。良い響きです。今世はあの女に取られると思うと、妬ましいですが我慢しましょう。
女はぐっと眉を寄せてため息をついた後、こほんと咳払いをひとつして口をもう一度開く。語られたのは女が授けるという力についてだった。
――ヒトナリくん。今から力を授けるわけですが、一つだけ注意があります。
『注意って、それは契約前に言ってもらわないと困りますよ』
――そうなんですが、きっとこれを聞いたら怖がると思って伏せていたのです。思いやりというものですよ。
そう言うと女は人差し指をヒトナリの前に掲げる。すると、ボッという音を立てて火が灯る。海の中にもかかわらず消えないその火は、黄金色に輝いていた。そう黒部ユカが呪いの力と言った、あの火と同じ色をしていたのだ。
『それは黒部さんの炎……』
――驚きましたか? そうです、これはあの女の力と同じもの。それを今から貴方に授けます。
『もしかしてそれがさっき言っていた私が怖がることなんですか。失礼ですが、怖がるほどのものでは……』
――いいえ、違います。ここからですよ。
その言葉と共に火は女の人差し指から離れ、ヒトナリの身体に吸い込まれるように入っていった。ちょうど心臓の辺りだ。
……何も起きる様子はない。
これで終わりなのかと拍子抜けした時だった。心臓を中心として、身体全体が炎に包まれ肌を焼き尽くすように燃え上がったのだ。
『あああああッ!!』
声を上げれば炎の口の中へと侵入し、その中を満遍なく焼き焦がす。熱く、そして痛い。血液は流れ出した瞬間に蒸発した。体の中の水分というものが熱湯になったのではと錯覚する。
自身を焼いている臭いが、鼻に入ってくる。耳からはチリチリという不快な音が聞こえた。瞼は眼球にへばりつき開けることさえ出来なかった。
苦しかった。はやくこの苦痛から解放されたかった。しかし、願いが叶うことはなく炎はヒトナリを焼き続ける。そんな中、微かに残った聴覚が女の声を拾う。
――これを聞いていたら貴方はきっと手を取らなかったでしょう。それに不利益な契約だと最初に言ったはずです。来世が私のものになる……確かにそれは相応の対価と言えますが、この力には些か不足でした。今世での対価が足りなかったのです。
女は続ける。
――……来世という対価を設けることで、軽減を図ったのですが、やはりダメだったようですね。
『たす……け……て……』
――すみません……。その火は私ものであって、私のものではないのです。消すこともできません。手に余る力は常に対価を必要とするのです。
消すことも出来ないならば、どうすればいいのか。それを聞く思考や力も奪われてゆく。
火力が上がる。細胞の燃えるスピードが上がり、感覚さえ朧げになってゆく。意識も薄く、自分がどこにいるのかも曖昧だ。
『あ……』
ついに火がヒトナリの全てを飲み込んだ。感覚は全てなくなり、無の中へと落ちる。微かに残る意識の中で、暗闇の先に光が見えた。
――ごめんなさい。
あの女の声だ。悲しげな声はヒトナリの心を揺さぶる。最後まで名前さえ分からなかったというのに、ユカと同じ声色というだけで、深くまで入ってくる。
女が謝る必要はない。契約の一部を隠していたのは確かに怒りを覚えた部分もあった。しかし、事前に知っていたら確実に迷っていただろう。たとえ二度と後悔をしたくないとしても。
女は黒部ユカをよく思っていなかったはずだ。言葉の節々に、それが表れていた。それでもヒトナリに力を与えるこという選択肢を与えてくれた。元から提示しないという手もあったにもかかわらずだ。
火に炙られたのは苦しかった。恐怖もした。しかし、女を恨めしいとは思わない。彼女がいなければきっとヒトナリはあの海の中にずっと居ることになったはずなのだから。
――これからヒトナリくんの意識は浮上を始めます。対価を払った事で、力は貴方のものになりましたが油断してはなりません。あの火は元々、ヒトナリくんに備わっていたものではない異物。扱うにはとても苦労するのでしょう。
使い方はあの世界に戻った瞬間、分かると思いますがそれが分かったところで自在に操れるわけではありません。それ相応の時間を必要とします。けれど、それではあの女を救うことは難しいでしょう……。
もう海面に近づいてきているのか、女の声が遠くなってゆく。
――力はあくまで可能性を上げるだけのもの。その後のことは貴方自身が頑張るしかありません。大丈夫、きっと力は貴方に応えてくれるはずです。
強烈な光が見えた。眩く神々しいそれは、ヒトナリを優しく包んで一気に上まで上げてくれる。暖かく心地がいい。ずっとその中に包まれていたかった。
――さぁ、目覚めの時です。心地の良い世界を選ばす、苦しみが溢れあの女がいる場所を選んだ愚かな人。貴方の今世が幸せになる事を願っています。
最後に……、ヒトナリくん、約束を守ってくれてありがとう。久しぶりに貴方の顔が見れて嬉しかったですよ。
女の声はそれ以降、ヒトナリの耳に届くことはなかった。しかし、彼女の最後の言葉で気付かされた事がある。
それは自身の勘違いについてだ。ずっと自分に告白してきてくれたのは黒部ユカだと思っていたが、それは違っていた。そもそも、自分の中のユカの口調と人柄が違いすぎる。黒部ユカと実際の彼女に大きな差異があった。
では、あの黒部ユカは偽物なのかと言えばそうではない。きっと今の彼女が本当の黒部ユカなのだ。そして、ヒトナリに告白してくれたのは、海の中であったあの女だ。不思議な雰囲気をもつユカと瓜二つの容姿をした彼女。口調、人柄も確かに記憶の中の黒部ユカと一致していた。
けれど気付いたところでもう遅い。ヒトナリの視界を埋め尽くす光はどんどん大きくなり、体を覆い尽くすほどになっている。そして、金縛りにあったように自由が効かない。
炎を得る対価として、今世で彼女と会う事は二度と叶わないのだ。ヒトナリは今更ながら後悔した。それは何度目かも分からない、後悔だった。
ヒトナリは浮上する……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます