第13話
シーン12
無力だ。
タイムスリップというチャンスをもらったというのに、自分が無力ならどうしようもないではないか。
アスファルトの冷たさが肌に伝わってくる。
身体に力が入らず、立ち上がることさえできない。骸骨に殴られたのもあるが、鬼にやられた脇腹にずっと鈍痛が走っているのも大きい。
視界に革のブーツが映る。
恐らくあの鎧を着た骸骨の主人だ。
その奥では、ユカが必死に叫んでいる。残念ながら聴覚さえまともに働いていない為、聞き取ることは出来ない。しかし、彼女の事だ。自分を助けるための言葉を男に叫んでいるのだろう。
情けない。ヒトナリが出来ることといえば骸骨の主人に対して、唸ることだけ。
薄くなった視界の中で、男は懐から何かの容器を取り出し、蓋のようなものに手をかけている。
中身はなんだろうか。色は紫色で時折、中で動いているのが分かった。
ユカの叫びが大きくなる。それほど危険なものなのか。
たが、ヒトナリは逃げることができない。たった一発、殴られただけなのに。貧弱すぎるこの身体が、憎たらしくて堪らなかった。
けへへっと笑い声が聞こえる。その声に目を向ければ骸骨の主人が蓋を開け、容器を傾けていた。
中にいた紫色の煙はまるで生き物のように這い出し、ヒトナリを囲い込んでゆく。せめてもの抵抗として、息を止めた。しかし、ずっと止めておくなど不可能でふとした瞬間に煙を吸い込んでしまった。
声が聞こえる。
「……じゃあな少年。恨むなら無力な自分を恨みな。まぁ、気づいた時には全部忘れちまってるんだから、こんな事言っても無駄だけどな、けへへっ」
その言葉で理解する。自分が吸い込んだ煙は記憶を消すか、操作するものだと。だとしたら、ユカのことも忘れてしまうのではないか。ヒトナリは酷く恐怖した。彼女の事を忘れるなどありえない。考えたくもない。愛されることよりも恐ろしい。
身体が震えた。たが、それも一瞬だ。意識は次第に遠くなり、なにも考えられなくなる。
笑い声が聞こえる。それがとても憎らしくて、気力を振り絞り近くにあった小石を握り込み、骸骨の主人に向かって思いっきり投げた。
声が止んだ。ヒトナリは最後の最後でやったぞと、ほくそ笑む。
「……バーカ」
この言葉が男に届いたかは、分からない。けれで、ほんの少しだけ達成感を感じることができた。
そして、ヒトナリは暗い海の底へと沈んでゆく。
#
――…………き……ださい。
意識の底。そのまた奥の隅っこで声が聞こえた。
透き通るような美しさをもった声で、するりと耳を奥へと入ってゆく。
――お久しぶりです。お寝坊さん?
目をゆっくりと開けると黒部ユカが微笑みを浮かべ、ヒトナリの事を見つめていた。いや……、彼女はユカではない。瓜二つの顔つきだが、ある一つの箇所が明確に違っている。
黄金に輝く瞳。眩い光を放つそれは、非現実的な美しさを持っている。見ていると吸い込まれるような感覚に陥り、思わず目を逸らしてしまった。
――また見てくれないんですね……。
その態度に彼女は機嫌を損ねてしまう。ヒトナリは慌てて謝罪をしようとしたが、視界に飛び込んできたものに驚いて言葉を飲み込んでしまった。
ヒトナリの周りは大量の水で囲まれていた。さらに小さな魚が楽しそうに泳いでいて、下では煌びやかな珊瑚礁が波と踊っている。そう、ここは海の中だったのだ。その中で二人はぷかぷかと浮かんでいる。
目が点になるとは、こういう事を言うのかとヒトナリが思っていると、彼女は笑った。
――ふふっ。ここは私がヒトナリくんといる為に作った特別な場所です。素敵でしょう?
たしかに綺麗だ。ヒトナリは頷いた。
『そうですね。とても素敵です』
――そうでしょう、そうでしょう。なんと言っても私の自信作なんですからね。ここに貴方が来てくれるのをずっと待っていたんですよ?
『それは……、申し訳ない』
――ちょっと意地悪でしたね。ふふっ、謝らなくてもいいんです。だって、貴方は来てくれたんですから。
彼女はそう言うと、ヒトナリの手を優しく握る。
――さぁ、行きましょう。見せたいものがたくさんあるんです。
その言葉と共に彼女はヒトナリをどこかへ連れて行こうとする。とても楽しそうに、嬉しそうに。けれど、ヒトナリはその誘いに乗ることは出来ない。
彼女の手を優しく解いた。
『私は……、一緒には行けない。私にはそれよりも行かなければならない場所があるんです。早くここから出ないと』
――……出て、どうするのです?
『彼女を、黒部さんを助けるんです。貴女に話すべきことではないでしょうが、いま黒部さんは危機的状況にある。私が助けれなければ彼女はあいつに連れ去られてしまう』
意識を失う前のことはしっかりと覚えていた。叫ぶユカと笑う男。その笑みが感情を逆撫でし、焦りを増加させる。
けれど、目の前にいる彼女は表情を変えることなくこう言った。
――無駄ですよ? ヒトナリくん。貴方がここから出れたとしても、あの女を救うことなどできません。不可能と言っていいでしょう。
『何故そんな事が分かるんです。やってみなければ何も――』
――分かります。だって事実、貴方はあの男に敗北したではありませんか? それも骨ごときの拳を一撃受けただけで。そんな貴方がどうやってあの女を救うというのです? 愛の力は〜とか言うんじゃありませんよね。笑わせないでください。そんなもの無意味です。
まるで人が変わったように彼女は言葉を続ける。
――それに彼女を助けると言う言葉も本当に心の底から貴方が思っていることなんですか?
『そうです。だって私は彼女の事を愛している。彼女は私に愛を知るきっかけをくれた人だ。だからこそ、命を賭して守りたい』
――ふふっ。本当はそんな事、思ってもいないのに?
心底おかしいと彼女は笑う。ヒトナリはすぐ否定しようと思ったが、上手く言葉が出てこなかった。
それを見てさらに彼女は笑みを深める。
――貴方は愛を知るきっかけをくれたと言いました。でも知る事が出来ただけで、誰かを愛するなんて事できるわけがありません。だって――。
彼女の黄金の瞳がヒトナリを貫いた。その事に身体が震え、脂汗が全身から溢れ出す。突然のことにヒトナリはひどく混乱した。
――貴方は変わっていない。愛すること、そして愛されることが怖いままなのだから。私は知っていますよ? あの女に告白した後、自室で震えていたでしょう。ガタガタと、まるで叱られた子どもように。
『――やめてくれ!!』
隠していたことなのに。嘘だと自分を信じ込ませていたのに。何故、彼女には分かるんだ。
……そうだ、怖い。愛が怖い。
ヒトナリは耐えられなくなって、その場に疼くまる。
本当は叔母を見た時、怖かった。優しくされ、気遣われることが辛かった。だから、手伝いを申し出た。
自分は一緒に住む資格がある人間だと、示すために。
黒部ユカに対してもそうだ。彼女に告白したのも近くにいる為の口実であり、本当に好きなわけでない。
黒部ユカを探し続けた数十年。そして訪れた彼女を助けるチャンス。タイムトラベルという非現実。その事に自分は浮かれていたのだと今更ながら思い知った。あれだけ否定していたオカルトに、踊らされていたのだ。
馬鹿馬鹿しくて、ヒトナリは苦笑した。
そんなヒトナリに女は近づいて、そっと寄り添う。
――大丈夫。貴方はもう充分頑張りました。元々、必死になる必要などなかったのです。これは必然、覆すことなど出来ない運命。足掻くことなど不必要な労力です。むしろ貴方が傷つくだけ。さぁ、ここでずっと暮らしましょう。ここは頑張り続けた貴方に与えられたものです。あらゆるものが思いのまま。楽園のような場所ですよ?
ひどい言い草だ。それではまるで黒部ユカを探す事に人生をかけた自分が馬鹿みたいじゃないかと、ヒトナリは苦笑する。でも、女の言うことも正しいと肯定する自分もいた。
事実ここはとても心地がよかった。不快なことなど一切なく、むしろ心は幸福な気持ちで溢れている。ここが頑張り続けたヒトナリへとご褒美だというのなら、これほど良いものはない。
タイムトラベルは黒部ユカを助けるためだと思っていた。しかし、もしかしたらここに来るためだったのではないかとさえ思えてくる。
……いや、本当にそうだろうか。
――ふふっ。
隣で笑う彼女を見る。彼女は満面の笑みでヒトナリを見つめている。何度見てもユカと瓜二つの容姿だ。双子の姉妹だと言われても、納得してしまう。しかし、何故か笑顔の中に悲しげな感情が見え隠れしていた。
そう認識すると、彼女の笑顔が歪なものに見えて仕方がない。それにこの笑顔には覚えがあった。
ヒトナリがタイムスリップするに至ったきっかけとも言うべき、黒部ユカの幽霊。今の彼女はあの時のユカの表情に酷似していた。
『そうだった……』
ヒトナリは顔を上げる。
愛は、怖い。愛されるのも愛することも恐ろしい。
けれど、黒部ユカを救いたいと思ったのは事実なのだ。
でなければ、黒部ユカが涙を流しながら差し出した手を握ったりしない。
ヒトナリは立ちあがろうと体に力を入れた。しかし、横から生えてきた手に掴まれ、その場から動くことが出来なかった。
『私は――』
――やめなさい。貴方は無力なのです。あの女を救う事などできるわけがない。
『ええ。分かっています』
ヒトナリは頷いて、女と目を合わせる。黄金に輝く瞳は、自分を貫く。しかしここでそらしてはいけない。
『それでも行かなければならないんです。私は彼女の涙を見てしまった。こんな自分に告白してくれた人の涙を。もしここで何もせず見捨ててしまったら、きっと一生後悔してしまう。だから、いくら自分が無力でも最後まで足掻かないと納得ができない。
ようは自己満足です。申し訳ない』
頭を下げたヒトナリに、女は困った顔をする。
――死んでしまいますよ。それでもいいのですか?
『嫌ですよ。でも、後悔するよりずっといい』
そうだ、死ぬのは嫌だ。けれど、後悔の辛さも痛いほどわかっている。
女はヒトナリの顔を見ると、大きなため息を吐いた。
――はぁ……。もう何を言っても無駄なようですね。
『申し訳ない……』
――謝る必要はないですよ。これは私の力不足が招いた事。けれど、やはり悲しいですね。そして憎らしい。
貴方にそこまでさせる女が。
『……』
女は心底、嫌だという風に顔を歪ませる。そして、突然自分の顔を両手で叩いた。
それに驚いたヒトナリに、ひどく冷静な声でこう言った。
――ふぅ……。これは最後の手段なんですが、ヒトナリくん。私と一つ、契約を結びませんか?
『契約、ですか』
――はい。しかし、これは対等なものではなく圧倒的に私に有利なものです。契約を結べば貴方は外にいるものを倒せる可能性を手に入れられる。
『絶対に倒せるとはならないんですね』
――そうです。あくまでも可能性を手に入れられるだけ。そこからは自力で頑張らなければなりません。
どうしますか?
女はヒトナリの前に手を差し出す。そして、こてんと首を傾ける。
――わたしの手を、取りますか?
悪魔の契約。そんな言葉が脳裏をよぎった。
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