第7話 逃走

シーン7

どれくらい走り続けただろうか。

 いつの間にか迫る足音は消えて、森は静寂を取り戻していた。


「――平気かい?」

「え、あぁ……大丈夫だよ。もう走ることは出来なそうだけどね。見てよ、この足」


 視線を下にすれば、小刻みに震えている足があった。

 ユカをそれを見て、ふふふと笑う。


「ワハハっ! まるで産まれたの子鹿じゃないか!」

「仕方がないだろう。僕は基本インドアな人間なんだ。ここまでよく体力が持ったもんだと、褒めてあげたいぐらいだよ」

「うむ! では、わたしが褒めてあげようじゃないか! 君が手を離さず握り続けてくれたおかげで、無事だったのだからね」


 ユカはリュックから水筒を取り出すと、ヒトナリに差し出した。

 ずっと走り続けたからか、喉はカラカラだ。

 ヒトナリはお礼を言うと、水筒を受け取って喉を潤す。

 水筒の中身はすっきりとした甘さのレモン水だった。その爽やかな風味は、内側から疲れを癒してくれる。

 

「よかった。気に入ってくれたようだね」

「とても美味しかったよ。ありがとう」


 ヒトナリの言葉に、ユカはにっこりと笑った。

 

「いや、お礼を言うのはわたしの方さ。君がそうやって走ってくれなかったら、どうなってたことか。もしかしたら今頃肉塊になってたかもしれないからね」

「肉塊って、大袈裟な……」

「いやいや、あの太い棍棒を君も見ただろう? あれを振るわれたら私たちの体なんてひとたまりもないね」

「そんなに太かったかな?」

「太かったね。例えば……」


 思案するユカの隣にずいっと黒い影が差す。

 それを見て、あぁそうだったと手を打った。


「そうそう! これくらいの太さはあったはずさ」

「黒部さん……、それ」

「ん……?」


 ユカは手に持っていた懐中電灯で、隣を照らした。

 光の中で浮かび上がったのは、黒い棍棒を持った巨体。


「わお」


 ユカの隣にいたのは撒いたはずの鬼だった。

 鬼はユカの声に口を嬉しそうに歪ませ、棍棒を天高く振り上げる。


「黒部さんっ!」


 あの棍棒が振り下ろされたら、ユカは無事では済まない。

 骨は砕け散り、内臓は破裂、そして彼女の命の灯火はそこで果てる事だろう。

 それはダメだ。彼女には生きてもらわなければならない。

 生きて幸せになってほしい。

 そのために自分が犠牲になる事になろうとも、あの時の後悔よりは辛くはない。

 気が付けば名前を叫ぶと同時に駆け出していた。


「ヒトナリくん!?」


 ヒトナリはユカの声を無視して、そのまま突き飛ばした。

 だがユカは少し離れた先で尻餅をついただけで、逃げようとしない。

 ヒトナリは肺に空気を思いっきり溜め込んで、叫んだ。


「逃げろっ! 黒部さん!!」


 その瞬間だった。

 ぐにゃりと視界が歪み、身体が真横に吹き飛ばされる。


「……ッ!」


 鬼によって勢いをつけられた棍棒の破壊力は凄まじく、全身に今まで経験したことのない激痛が襲いかかってきた。

 あまりの痛さに声も出ない

 吹き飛ばされた身体は、三回ほど地べたを転がりながら停止する。

 微かな意識の中、視界にあったのは自身から溢れ出したおびただしい血液の海。

 生暖かく、気持ちがいい。そう感じるほどヒトナリは血を流していた。


 死んではいない。息もある。

 だが、このまま血が出続ければいずれ天に召されるのは確実だ。

 ヒトナリの目には、死神が嬉しそうに微笑んでいるのが見えていた。

 このままユカを救えたという満足感で逝くことができたなら、なんと喜ばしいことか。

 しかし、死神はそんな生温い死を迎えさせてくれる気はないようだ。

 ヒトナリに息がある事に気付いた鬼が、地面を揺らしながら近づいてくる。


「うぅ……」


 逃げる事はできない。辛うじて声は出せたが、身体に力が入らない。

 山を登る時、そして逃げる時に役立った無限に溢れる力はどこかへ消えた。

 向かってくる鬼の表情はとてもにこやかで、ひどく憎たらしい。


 覚悟を決めよう。ユカを救えただけいいじゃないかと、そう決心した時だった。

 鬼の後ろに人影が現れる。華奢なシルエットで、右手で何か丸いものを握っている。

 見間違いであってほしかった。これでは自分の行動が無意味になってしまうからだ。

 だが現実は非情で、ヒトナリの瞳に映し出されたのは逃げたはずの黒部ユカの姿だった。


「……な、んで」


 ここにいるのか。早く逃げろと叫びたかったが上手く声が出ず、もがくことしかできない。

 鬼はその姿がおかしいのか笑みをより一層深くして、ヒャヒャヒャと笑った。

 ユカは鬼の後ろで、ヒトナリを悲しげな表情で見つめている。鬼はそれに気付いた様子はなく、こちらだけを見て近づいてくる。

 そして、なんとユカは鬼の後ろで手に持っていた何かを握りしめて、投擲フォームをつくったではないか。


「おーい! 鬼さんこちら手の鳴る方へ!」


 ユカの声に鬼は振り返り、その姿を捉えると進行方向を変えた。

 ギヒヒと気色悪い声が聞こえてくる。

 棍棒をこれまた天高く構えて、ユカがいる所へと向かってゆく。

 彼女が死ぬ。今度こそ死んでしまう。

 もう失いたくないのに、どうやっても動かない身体に苛ついた。

 目だけが動く事にもっと腹が立つ。

 

 鬼の前にした彼女の身体は小刻みに震えている。そうだ、怖くないはずが無いのだ、あの棍棒が振り下ろされたら、彼女の身体は簡単に潰されるのだから。

 しかし、彼女の目だけは怯んでいなかった。

 いつの日か見た、あの輝く瞳だ。

 そして、鬼が目の前に迫ると言う時、ユカは自分の鼓舞するように叫んだ。


「死に晒せ、くそ鬼がぁああああ!!」


 華奢な彼女からは想像もつかない野太い声が出た瞬間、持っていた石を鬼に向かって投擲した。

 遅い腕から放たれたとは思えないほどの豪速球。

 だが、無意味だ。石ころ程度であの分厚い筋肉の壁をどうにかできるとは思えない。

 弾かれるのがオチである。

 ヒトナリは目に見える結果に目を瞑りたくなった。

 だがしかし、彼女の放った一撃は鬼の分厚い筋肉を貫いていた。


「ガァアアアア!!」


 鬼が咆哮する。

 ヒトナリ方からは表情を見ることはできないが、さぞ苦しそうな顔をしていることだろう。

 何故ならユカが放った一撃は、鬼の胸に大きな風穴を開けていたのだから。

 ドンッと重い音を上げ、巨人は膝をつく。

 ヒトナリをぶん投げた棍棒は持つ力さえ無いのか、手からこぼれ落ちていた。


「…………」

 

 ユカは鬼に、こちらに聞こえない声で何かを言うと、駆け足でヒトナリの元へとやってきた。

 その顔は悲しみに満ちており、目からは涙が溢れている。


「ヒトナリくん、すまない……」


 ユカが謝る必要はない。むしろ鬼を倒してくれた事を感謝したいくらいだった。たが、もう小さな声すら出せない。

 人間がくの字に曲がり、池ができるほどの血を失う。普通ならもう死んでいてもおかしくない。

 まだ意識がある事が不思議でたまらなかった。


「……わたしにはこれくらいしかできないが」

 

 ユカはヒトナリそばにしゃがみ込み、両手をかざした。手を伝って、黄金色に輝く何がヒトナリの身体へと流れてくる。

 それは暖かく、心地がいいものだった。

 きっとこれは幻想だ。人の身体が黄金色に輝くはずがない。たが今は、その心地よさに身を任せるしかなかった。

 ヒトナリは瞼を閉じることにした。

 脅威は去ってユカは生きている。今、自分にできる事は何もない。


 しばらくして、ヒトナリはベットの上で目を覚ました。外は真っ暗で、窓から月明かりが差し込んでいる。

 自分はどれくらい寝ていたのだろうかと、頭を抱えながら起き上がる。すると、ベットの奥にある扉が小さな音を立てて開いた。

 そこにいたのは柴犬の五郎だった。


「……おや? お目覚めになったのですね。良かった、心配していたのですよ」

「……ええ、ついさっき起きたところです。黒部さんは?」

「ユカ様もご就寝なされています。力を使いすぎたのでしょう。ヒトナリ様も大丈夫ですか? ひどい怪我をなされていましたが」

「あ……」


 ヒトナリは布団をめくって、腹部を確認する。そこには傷ひとつない綺麗な肌が存在していた。

 嘘だと思った。

 五郎を見れば、心底ほっとしたという様な安堵の表情を浮かべている。


「これは一体……」

「私の口からは何も。こればかりはユカ様から聞いた方が理解が早いでしょう……。

 まぁ、ともかく今はご飯です。お口に合うか分かりませんが、食べやすいお粥を作ってまいりました」


 そう差し出されたお盆の上にあったのは、湯気の立っているお粥と小皿に盛られた漬物であった。

 五郎にすすめられるままに、それを口に運ぶ。

 あたたかく、ほっとする味で全身から力が抜けるようだった。

 

「食べやすくて、とても美味しいです。優しい味ですね」

「それは良かった。作った甲斐があるというものです。あとは、ゆっくりとなさってください。ヒトナリさんのご自宅には、わたしの方から連絡を入れておきましたから」


 五郎はそう言って扉へと向かう。

 ここでふと疑問を感じた。なぜ、自分が食べたおかゆは湯気が立つほどほかほかだったのだろうかと。

 それも五郎はヒトナリが起きてすぐ部屋に入ってきた。

 聞いても良い事なのか、ヒトナリが迷っている間にも五郎はドアノブへと前足をかけている。

 ヒトナリはこのもやっとした気持ちを解消したかった。

 

「あの!」

「……どうされました?」

「五郎さんは何でこの時間に僕が起きると分かったんですか?」


 気づけば声を出していた。

 それは偶然だと言われれば、納得するしかない。

 でも、どうしても気になったのだ。

 五郎は首を捻ると、苦笑いを浮かべてこう言った。

 

「犬の勘、ですよ」


 五郎は部屋を出て行った。

 結局、ヒトナリの中のもやっとした気持ちはそのままで解消される事はなかった。

 それに五郎の事よりも気になる事はあるのだ。

 自分は何故、無傷なのか。あの時、腹は破け中から蝶が飛び出しているのは確認出来ていた。

 それがこの短時間できれいに治ることなどあり得ない。

 もう一度、掛け布団を巡ってお腹を確かめる。

 そこにはさっきと変わらないきれいな肌があった。

 古傷も綺麗さっぱり消えている。


「頭がパンクしそうだ……」


 タイムスリップから始まって、鬼やら何やら非科学的な事ばかり。

 そういうものを否定してきた人間には、受け止めがたいものが多かった。

 だが、実際に見てそれも殺されかけて存在を認めないわけにもいかない。彼らは想像上の生き物ではなく、実際に存在しているのだと。


「はぁ……」


 ため息と共に眠気がどっとやってくる。目を開けているのさえ、億劫に思えてきた。

 とりあえず今は身体を回復させるのに努めよう。

 起きたら、彼女に話を聞けばいい。

 ヒトナリはあくびをひとつして、ベットに横になった。

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