第5話 柴犬

シーン5

コンクリートに塗り固められた坂道を、ゆっくりと登ってゆく。時折、携帯端末のナビに映し出されている道筋を確認し、間違うことがないように。

 その際、汗が何粒か顔を伝って、地面に落ちた。

 最初は意気揚々と坂道を登っていたヒトナリだったが、思っていた以上に、学生時代の身体は貧弱だった。


「はぁ……、はぁ……、僕はこんなに体力がなかったのか……?」


 タイムスリップする前も体力はない方だったが、しかし今は10代の身体である。若々しい今なら、急勾配な坂道でも楽勝だろうと思っていたのだ。だが、蓋を開けてみれば、足の筋肉は悲鳴を上げて、身体中から汗が滝のように流れていた。

 思えば、ヒトナリは外で遊ぶことなど皆無で自室で漫画か小説を読んでいた記憶しかない。つまりは完全な運動不足であった。


 (もっと運動しておけばよかった……)


 遅い後悔をしながら、再び足をすすめる。

 ナビ通りなら、ここまででようやく半分の距離だ。あと、もう半分登れば到着すると自分を勇気づける。

 ちなみに、ヒトナリは一旦自宅に戻り荷物を置いて必要最低限のものを持ち、黒部ユカが住むという住所へと向かっている。

 トモコはまだ帰ってきていなかったため、メールを送っておいた。

 これでいらぬ心配をかける事はないだろう。


(にしても、遠い……)


 目的地はまだ見えてこない。

 だからだろうか、普段は気にもとめない周囲の音が耳に聞こえてくる。木々の揺らぎ、川のせせらぎ、鳥の鳴き声。それはヒトナリを思考の渦へと誘いこむ。


 (――黒部さんから貰った住所。どうも心当たりがないんだよなぁ。それって、どういうことだろう)


 黒部ユカの失踪後、ヒトナリは彼女が住んでいた家に何度も足を運んでいた。そのため、住所は頭の中にしっかりと刻まれている。しかし、今回、黒部ユカ本人から渡された住所はそれとは全く別のものが書かれていたのだ。

 

 可能性として考えられるのは、別邸だろうか。たが、彼女の養父母と数えきれないくらい会話をしたが、そんな話は一つも出る事はなかった。

 

 意識的に隠していた点も無くはないが、養父母は本当に黒部ユカの安否を心配していた。そんな彼らがどんな理由があろうと、それを隠すとはヒトナリにはどうしても思えない。


(彼女の養父母は心の底から、黒部さんを心配していた。本当の娘ではないのに、血の繋がった家族以上に愛していたんだ)


 だとすれば、ヒトナリが渡されたこの住所にある家は彼女の養父母すら知らなかったという事になる。

 ヒトナリの予想が本当にその通りなら、そこには黒部ユカの失踪に繋がる何かがあるかもしない。

 彼女と接点を持つ。それで事件を未然に防ぐという目標に一歩近づいた。取らぬ狸の皮算用もいいところだが、ヒトナリはそれが無性に嬉しくて、坂道を登る足に力がこもる。


 すると、視界の奥に白い建物の様なもの捉えた。

 ナビを確認すれば、そこが終着点になっている。

 ヒトナリは思考を止めて、未だ小さく震える足を必死に動かす。

 6月の初めの、どこか湿り気のある暑さが全身を包み込み、身体から体力を奪ってゆく。

 シャツは汗を吸い込んで重く感じる。

 けれど、ヒトナリは足を止める事はしなかった。


(――やっと着いた)


 たどり着いた安心感からか、力が抜けそうになるのを必死に堪え、黒部ユカが住む家を目に収める。

 彼女の家は、一言で言い表すならば外国の小さい洋館のような見た目をしていた。

 白い外壁で、朱色の屋根が印象深い。だが、所々植物の蔦が壁に張り巡らされ、どこか暗い印象を与える。そんな家だった。


 もしかしたら、ノック式なのかと玄関に近づけばそこにはしっかりとインターホンがあり、ヒトナリをそれを押して、人が出て来るのを待つ事に。

 すると、奥の方から小走りに駆けてくる足音が聞こえてきた。きっとユカが、慌てて自室から玄関へ走ってきているのだろう。

 ヒトナリはそう思ったのだが、両開きの扉を開けて現れたのは予想外の人物?であった。


「はーい。おや? どちら様でございましょうか?」

「……は? うえぇ?」


 ヒトナリが変な声をだしたのは、仕方のない事だ。

 だって、そこにいたのはーー。


「い、犬が喋ってる。 それも二足歩行……」


 二足歩行の柴犬だったのだから。それも言葉を流暢に喋る。

 オレンジ色の毛並みに、ピンと立った両耳。くりっとした黒い瞳は、ヒトナリの姿を映し出し、そして、突き出した口には、鋭い牙が生えそろっていた。

 間違いない、やはり犬である。


「嘘だ……。犬が喋るなんて、あり得ない。それも二足歩行してるなんて……! これは夢なのか?」

「お、落ち着いて下さい! わたくしの姿を見て驚くのは無理がない事。しかし、どうか落ち着いて下さい」


 ヒトナリが狼狽するのを見て、その柴犬は困り顔に身振り手振りでそれを諌めようとする。その姿に、ヒトナリはどうにか冷静さを取り戻すことができた。

 いや、犬が二足歩行で喋るというのだから、驚くのも無理はないのだが、ここへ来た理由を思い出して心を落ち着かせた。それにヒトナリ自身、タイムスリップしている人間である。

 もしかしたら、この世には二足歩行で喋る犬もいるのかもしれないと、馬鹿馬鹿しいとは思ったがそれで自分を納得させた。


「――し、失礼しました。喋る犬という存在を初めて見たもので」

「いえ、わたくしの姿形がいかに珍妙であるかは分かっていますから、どうかお気になさらずに。それで、どんなご用件で当家に……?」

「あ、実は黒部ユカさんに放課後こちらに来るようにと言われまして」

「ユカ様に、ですか? ふむ……、わかりました。では、ユカ様を呼んで参りますので、こちらで少々お待ちください」


 柴犬はヒトナリの言葉に少し首を捻ってから頷くと、奥の方へと消えていった。

 しばらくして、奥の方から階段をドタドタと降りる音が聞こえてきた。そして、現れたのは全力疾走してきたのか息が荒く、髪が散らかった黒部ユカであった。

 ユカは素早く息を整えると、大きく手を広げて満面の笑みを浮かべた。


「おお! 来てくれたかヒトナリくん! ささ、遠慮せず上がってくれたまえ」

「うん。お邪魔します」


 ヒトナリは軽く会釈すると、玄関で脱いだ靴を整えて、ユカの家へと足を踏み入れた。

 外見で分かっていたが、中は広く、ユカの後ろをついて行かなければ迷ってしまいそうだ。

 それにユカは早足で坂道を登るのに疲労したヒトナリの足は、ついていくのがやっとだった。

 しばらくして着いたのは、奥の一室。

 そこは畳がひかれた和室で、室内にはテーブルと座布団。

 その中にヒトナリは案内された。


「すまないが、少しここで待っていてくれないか? 実はお茶とお菓子を持ってくるのを忘れていてね。その間、ゆっくりくつろいでいてくれ」

「いや、そんな気を使わなくても大丈夫だよ?」

「それではわたしの気が済まない。招待したのはわたしなのだからね。では、行ってくる」


 ユカはヒトナリにそう言うと、これまた小走りで駆けていった。

 彼女もまた緊張しているのかもしれない。だとしたら、ヒトナリが緊張したままだと、ユカも色々とやりづらいだろう。ヒトナリはユカに言われた通り、身体の力を抜いてくつろぎ、緊張を解くことにした。


「それにしても、すごいな」


 ヒトナリは座布団の上で足をマッサージしながら、部屋に目を向けた。

 そこはなんと表せばよいのか、言うなればとてもオカルトちっくな部屋だろうか。

 土偶や刀、日本人形に藁人形。そして、古そうな書物が棚にズラリと並んでいる。

 そういうものが好きだと言っていたが、家の一室をその物だらけにするとは、驚きを通り越して感心してしまう。


「素晴らしいだろう? これはわたし自ら集めたものなんだ」


 いつ帰ってきたのか。ユカはお盆をもって入口に立っていた。

 

「え、これを黒部さんが一人で?」

「そうだとも。なにせわたしはずっと五郎とわたしの二人で暮らしてきたからね。あ、五郎というのは君が玄関であった柴犬の名前だよ」


 ユカはヒトナリの前にお菓子とお茶を置き、対面に座りながらそう告げる。

 これを一人で集めたのは確かに凄いと思うが、それ以上に気になる事がユカの口から飛び出していた。


「黒部さんのご両親って……」

「あぁ、実は幼い頃に両親を亡くしてね。頼る親類もなく、ここで暮らしているのさ。幸い、亡くなった両親が遺産をたくさん残してくれていて、それを切り崩しながら暮らしているんだよ」

「そう、なんだね……」

「ん、どうしたんだい倉井ヒトナリくん。顔が青いぞ?」

「ううん、大丈夫だから」


 ヒトナリは自分の笑みが引き攣ってない事を願いながら、返事をした。


「じゃあ、今までずっとここで暮らしてきたの?」

「うむ。君も会ったと思うが物心ついた時から犬の五郎と一緒に暮らしてる。わたしにとって唯一の家族だな」

「家もここだけ?」

「勿論、遺産がたくさんあるといえど、そんな大きな買い物はできないからね。小さい頃からずっとこの家で暮らしているよ。でも、なんでそんな事を聞くんだい?」

「いや、ちょっと気になっただけだよ」

「そうか? ならいいんだが……」


 ヒトナリはユカの答えでやっと確信した。タイムスリップする前に会っていたユカの養父母を名乗る者たちは、真っ赤な偽物だったのだと。

 その事に気付かなかった自分の馬鹿さ加減に呆れながら、改めて今の状況に感謝した。

 これはタイムスリップしなければ、ユカと接点を持たなければ知り得なかったことなのだから。


 そんなヒトナリの事などつゆ知らず、ユカはヒトナリを見て楽しそうに笑ながら、口を開いた。


「こほん! それでだな、倉井ヒトナリくん。君をわたしの家に招待したのは他でもない。オカルトに興味のある君にわたしと一緒に同好会を立ち上げてほしいと思ったからなのだ。……どうだろうか?」

「同好会? うん、いいよ」


 オカルトに興味は無いが、同好会となればユカと一緒にいれる時間は必然的に長くなるだろう。それだけ事件を未然に防げる可能性が上がるため、ヒトナリ的には願ったり叶ったりだった。

 しかし、すぐに了承したヒトナリにユカは不満げな顔をした。


「そ、そうか。それは嬉しいが、そんなすぐに了承するとは……。そういうのはもっとこう粘るというか、渋るものでないのか?」

「渋ってほしかったの? それじゃあ――」

「い、いや! いいんだ! 君の気持ちはしかと受け止めた! オカルト同好会、ここに誕生だ!」


 ヒトナリがわざとそう言えば、焦って反応するユカ。

 そして、ユカは1枚の紙を懐から取り出した。

 また何処かの住所でも渡されるかと思ったが、紙というのが同じなだけで、それ以外は全くの別物であった。

 地図である。


「さて、早速だが同好会として活動したいと思う。まずは今日の夜に隣山に出るという鬼を見に行く」

「今日? それに山に出る鬼? たしか、どっかの部活の1年生が肝試しに行って見たっていう……」

「おお、ヒトナリくんは耳が早いな。そうだ、その鬼だよ。わたしはこの鬼の話を聞いた時からワクワクが止まらなくてね! だから、同士ができた今日という記念すべき日に是非見に行きたいのだよ! さて――」


 ユカはテーブルに広げた地図に指を置いた。

 指を置いた場所には赤い丸で印が付けられており、赤文字で『鬼出現』と書かれていた。

 それ以外にも、何ヶ所か赤丸が付けられている場所がある。


「ここが鬼の目撃情報があった場所だ。他にもあるが、1番新しいのはここだね」

「ということは、ここに行くの?」

「そうだとも!鬼がそこにいる可能性が最も高いということだからね。嘘の可能性も大いにあるが、それは行ってみれば分かること。うむ! 実に楽しみだ!」


 ユカは満面の笑みを浮かべながら、本当に楽しそうにしていた。まだ夜にはなっていないというのに、ソワソワしている。


「って、夜に行くんだ。それなら家に連絡を入れないと……」


 遅くても夕方には帰る予定だったので、トモコへの連絡もそれくらいの時間に帰るとしてあった。

 慌てて携帯端末を取り出すヒトナリにユカは待ったをかけた。


「大丈夫だ、ヒトナリくん。わたしから提案したのだから、保護者への連絡はこちらからしておこう」

「……いや、気持ちはありがたいけど、僕の方からしておくよ」

「いいのかい? いや、ヒトナリくんがそれでいいならわたしは構わないのだが……」


 彼女の言葉に甘えても良かったのだが、こういう連絡は出来るだけ自分でしたかった。

 ヒトナリはユカに断って、トモコに帰りが遅くなる旨の連絡を入れる。

 心配させてはいけないと、友人宅に泊まるという内容にして。

 あと念の為に、マナーモードを解除していつ連絡が来ても気づけるようにした。


「連絡は済んだのかい?」

「うん、これで大丈夫だと思う」


 ユカの問いに、顔を上げるとどこか浮かない顔をしていた。

 

「……わたしは、少々強引過ぎただろうか。いち早く鬼をこの目に納めたいと今日にしてしまったが、後日でも――」

「ううん、大丈夫! 僕だってその噂を聞いてからぜひ見てみたいと思ってたんだ!」


 ヒトナリのその言葉に、ユカはパァと顔を明るくする。

 

「そうか……! やはり君はわたしの見込み通りのオカルト好きだな! うむ!」


 ユカは嬉しそうに何度も頷いて、それから何か思い出したかのようにハッとした顔した。


「あ、そうだ! 探索には体力が必要になるし、夜まで何も食べないのも辛いものがある。折角だし、夕食を食べていくといい。五郎の料理はそれはもう絶品なのだぞ?」

「そうなんだ。それは楽しみだなあ」

「うむ。早速五郎にその事を伝えにいくから、それまでここでゆっくりしててくれたまえ。あ、本も自由に読んでいいぞ。君のお眼鏡にかなう物があればいいのだが……」

「ありがとう。読ませてもらうよ」

「そうか! では、失礼する」


 ユカはそう言うと軽くスキップしながら、部屋を出ていった。

 それだけ楽しみなのだろう。その様子を見ると、オカルトに興味もない自分は酷く罪深い事をしてるのだと、理解させられる。

 それがユカを助ける為とはいえ、騙している事に違いはない。

 ヒトナリは立ち上がると、壁にズラリと並べられた本の中から一冊を手にとって読み始めた。それは、たとえ付け焼き刃だとしても、ユカの話について行きたいと思ったからだった。

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