言葉の影

川本 薫

第1話

「君のために言ってやってんだ!! 」

「はい、すみません」

 こんな会話を僕は死ぬまで何千回、何万回繰り返すのだろう? 『僕のために』と毎日声を枯らして怒鳴る上司が例えば、もし明日、死んだとしたら僕の心からは涙が出るのだろうか? 僕は毎日、仕事帰り駅のホームに立ちながら真正面に見える建売住宅の一軒家を見ていた。知りもしない人の家なのに幸せの象徴のように4月になれば鯉のぼり、梅雨が明ければ二階のベランダにビニールプールが置かれているのが見えた。


 誕生日でもない、命日でもない、でも僕の中に今でもあの朝はくっついたままだった。

 テレビでは梅雨が明けたと宣言された日、確か今日のワンコはヨーグルトが好きなダックスだった。


「おはようございます」

 会社に着いてタイムカードを押して自分の席に座ったとたん

「木崎くん、すぐに社長室に来てくれ!! 」 

 まだ始業時間の9時にもなってないのに部長が慌てて僕の目の前に来た。

「社長室ですか? 」

「ああ、そうだ、厄介なことが起きた」

「僕が関わることで? 」

「詳しくは社長から聞いてくれ。はあっ、僕がこうやって木崎くんに話す言葉もこれからは慎重にならんといけん時代が来たんだな」

 部長が言う事の何一つ理解できないまま、僕は部長の後ろを歩いた。

 部長が社長室をノックする。

「どうぞ」

「失礼します」

「では、僕は──」

 部長が社長室からから出ようとしたとき、

「君もここにいてくれ」

 社長は部長を呼び止めた。

「木崎くん、単刀直入に聞く。上司の赤木くんのことはどう思う? 」

「どう思うって? 嫌いとか好きとかですか? 」

「まあそれも含めて赤木くんが君の心の中にどう存在してるかだよ? 忖度無しで正直に答えて欲しい」

「正直に? 」

 背後から部長の圧を感じながら僕は正直に答えた。

「赤木さんが死んだら僕は泣くだろうか? って時々、考えます。『君のために』って言う言葉でどこまで他人を許せるのか? って言うことも赤木さんと出会ってはじめて考えました。教えるのではなく、ただ感情をぶちまけて発散させてるんじゃないか? こんな人にはなりたくないと思っています」

「ありがとう。それが君の本心だね? 」

「いえ、もっと言えば目の前から消えてくれ、と思います。電車の中でも帰宅した部屋の中でも赤木さんの声が僕の耳元にしみついているんで」

「わかった」

「じゃあ、失礼します」

 僕が社長に頭を下げると部長も同時に頭を下げて社長室から出た。

「何かあったんですか? 」 

「木崎くんは知らないほうがいいことだ。それから今日から君の上司は僕になるから」

 それから社内で赤木さんを見ることはなかった。パワハラで訴えられたとか事故で亡くなった息子さんのノートに赤木さんのことが延々と書かれていたとか、憶測の噂は流れるだけ流れたあと、誰も口にしなくなった。

 そして新しい僕の上司の部長は僕を叱ることはせず、隣に並ぶのではなく、僕の失敗もまるごと底から救うような覚悟を僕に見せた。

 時々、週末になると誘ってくれる飲みも部長となら苦痛ではなく、僕はどこかで誘われることも楽しみになっていた。

「木崎、今日、少し話せるか? 」

 珍しく部長は僕に

「話せるか? 」

と聞いてきて、僕は顧客リストをマーカーでチェックしながら

「もちろん、話せます」

こう答えた。

 その夜、いつも行く居酒屋でもスタンドでもなく部長が僕を連れて行ったのは薄暗い喫茶店だった。

「アルコールが入る前に真面目な話をしたかったんだ。どうしても」

「はい」

 部長は僕がメニュー表を取る前に店員を呼んでアイスコーヒーを2つ頼んだ。

「僕は今の会社に入社する前、ある不動産会社にヘッドハンティングされて働いていたんだ。はじめこそ、良かったものの年収が100万ずつ下がっていって、最後はテレビドラマみたいに同じヘッドハンティングされた同期と別室出勤になった」

「マジですか? そんなこと本当にあるんです? 」

「そうだよ。人にとって辛いのは忙しいことじゃない。何もしなくてもいいって言われることだ。ある朝、いつものようにその部屋のドアを開けると同期が亡くなっていた。僕も悩んでいたから直視できなかったその姿は他人事じゃなかった。そこからの記憶が今もないんだ。ただそれから一ヶ月も経たないうちに社内でレクリエーションのバーベキューがあった。人が一人死んだのに何事もなかったように笑ってる姿は僕にはショックでその翌日に辞表を出したよ」

「死んだんですか? 」

「ああ。たかが一人かもしれない。それでも親になってみれば育つことも育てることも当たり前じゃない。少なくともヘッドハンティングされて期待されていた人間だからね。彼のフェイスブックは今でもそのままだ」

「赤木さんは? 」

「僕も知らない。でも彼は弱かったんだろうよ。社長室に呼ばれてその後ですぐに退社したから。僕にも本当のことはわからない。でも僕もいずれは誰かの上司になる木崎くんも言葉の重みは知っておいたほうがいいと思うんだ。少なからず、どんな立場になっても謝ることを忘れてはいけないって」

 目の前にいつの間にか置かれていたアイスコーヒー。部長はシロップをいれてゆっくりとストローでグラスの中を混ぜた。


*****


「ねぇ……、スーパーで目が合ったから買ってきちゃった!! 」

 パソコンの前に座っている僕に彼女が一口サイズに切ったスイカを小皿にのせて運んできた。

「スイカ? 」

「うん、わたしたちが子供の頃はなんかもっと果物食べてたなぁ〜って思って」

「そう言えば、今年初? 外から蝉の声が聞こえない? 」

「本当だ!! いつの間にか蛙から蝉になってる!! 」

 窓を開けてみた。

 さっきまで僕はずっと考え事をしていた。

「何かまた考えてた? 」

「うん、誕生日でも命日でも記念日でもない忘れられない日があって、その日のことを書きたいと思うのにうまく書けなくて」

「うまく書く? 」

「そう、うまく書けない」

「なんでうまく書くの? 誰のため? うまくなくてもいいじゃん。書くことぐらい思いのままで。もちろん、死ねとか誰かを故意的に傷つけるのは駄目だけど。好きなことまで誰かに評価されたいの? 」

 まさか、彼女にそんなことを言われるとは思わず、僕は

「君に何がわかる? 」

 そう口からこぼしかけた。そうだ、わかるわけないんだ、わかるわけないことを黙って見守ってくれてる人に八つ当たりするところだった。

「少し外を歩こうか? 」

「やだ、蚊に刺される!! 」

「いや、このまま部屋にいると喧嘩になりそうだから外を歩こう」

 夜は当たり前だけど暗かった。

 彼女と歩きながら目にとまった家の灯りをじっと見る。その灯のひとつひとつに暮らす人がいて当たり前だけどそれぞれの今日がある。

 僕は相変わらず正解がわからない。正解がわからないのに気がつくとこの気持ちをまた書きたくなっていた。

「ねぇ? 幽霊って本当にいるのかな? 」

「なに? 急に? 」

「だってさ、許せないって思うことってあるじゃん? この許せない気持ちがきっと届くんだろうな? って思って。この許せない気持ちをたくさん抱えたまま、もし亡くなったら気持ちだけがね、本当にここに残る気がするんだ」

「何かあった? 」

「そりゃあ、いろいろあるよ。聞いてほしくても、あなたはパソコンとにらめっこしてるからね。私の存在なんて見えないみたいに。カーテンレールに新しく買ってきた風鈴つけたのだって気付かなかったでしょ? 大切だった人が亡くなってその気持ちを残したいこともわかるけど、あなたは生きてるんだよ」 

 風鈴? 僕は風鈴どころか、さっき食べたはずのスイカの味もわからなくなっていた。

「言葉に囚われすぎてる!! 目の前にあるのは新しい真新しい7月だよ!! 」

 吐き出したくても吐き出せない何か詰まっていたようなものを取り出してくれたのは図書館で借りた本でも誰かがおすすめしてくれた物語でもなく彼女だった。 


「言葉に燃やされる前に、言葉の影に涼んで冷やして思いっきり揺れればいい」

 桜の木の葉がわさわさと残った雨粒を落としながら揺れていた7月の夜、僕は言葉の影を踏みながら部屋に戻って風鈴をわざと彼女の耳元でならした。


『ちりん、ちりん、今年の夏はどこか行きますか? 沖縄とか無理ですけど──』

『ちりん、ちりん、とりあえず、かき氷、食べに行きたいです』

 まるで糸電話みたいに二人の真ん中で風鈴を鳴らしながら。

 僕はまたそれさえも、きっと夏に放ちたくなる。

 影も日向も全部全部、ここに存在するように──そしていつか全部、白紙になる。

 それでも多分、って思いながら。

  


 





 





 





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言葉の影 川本 薫 @engawa2023

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