第6話 小説の書き方ハウツー本
「ひなたさんは、絵を描くこともできるのかも知れませんが、文章を書いてもいいかも知れませんよ?」
と言われた。
「小説ですか? どうしてそう思われたんですか?」
とひなたが聞くと、
「小説というのは、実際に書き始めると余計なことを考えてしまうことが多いので、一気に書く力がないと難しいと感じたことがあったんです。実は工芸を勉強する前に、ちょっと小説を書いてみようと思って、小説教室に通ってみたり、本を買ってきて、小説の書き方というハウツー本を読んだりしていたんですが、どうも思っているようにはいかないんですよ」
「どうしてですか?」
「それはね、本に書いていないことが重要だからなんですよ。講座の先生も本に書いていないから触れようとはしない。ひょっとすると、人によって感じ方が様々な部分があるということで、本に載せていなかったのかも知れませんね」
「それが、さっきの一気に書くということですか?」
「ええ、そうです。集中しているので、自分の感覚で、十分くらいしか経っていないと覆っても、実際には一時間くらい経っているなどということは平気であることなんです。でもこれは小説に限らず集中していれば同じなんですけど、文章を書くというのは、ストーリーを思い浮かべて文章にするわけなので、流れに沿って書かないと、頭の中で忘れていってしまうんですよ。そこが小説を書くということで一番難しいところであって、それができないと、小説を書き始めてもすぐに終わってしまったり、一行も書けずに、机に座って腕を組んで、原稿用紙とにらめっこなんてこと、平気であるんですよね」
「私も、中学時代、似たような経験がありました。宿題の作文がまったく書けずに、宿題を提出できなかったことがあったんです。その時は、自分はテーマが決まっていることを書かされるのが苦手なんだと思っていました。自由に何でもいいからと言われれば書けると思っていたんです」
とひなたは言った。
「その気持ちは今も変わっていませんか?」
と言われ、その言葉の意味を模索しながら、
「変わっていないと思いますけど」
というと。
「なるほど、それは半分正解だと思います。だけどね、実際には何でもいいから、とにかく書けばいいというのが一番難しいんですよ。学校の作文くらいなら、そこまではないと思うんだけど、実際にやってみると、最初からテーマが決まっている方が本当はよほど楽なんですよ。でも、それを自分で許せないのは、きっと、テーマを押し付けられたように思っているからなんでしょうね。その思いがあるから、どこかに反発の思いがあって、せっかくの発想が湧いてこないんですよ。こういうのは、最初に浮かんできた発想から、リズムに乗せるようにアイデアを捻出しなければ出てくるものではありませんからね。小説に限らずですが、芸術というのは、最初が肝心だということなのだと思いますよ」
と、マスターは言った。
「マスターは結局、集中してできなかったんですか?」
と言われたマスターは、
「理屈は分かったんだけど、書きながら、想像し続けて、時間の感覚がなくなるくらいまで発想し続けるということが難しかったんですよ。結局、最後まで書けたことはなくて、断念したというわけです。小説というのは、とにかく、内容はどうであれ、最初のステップとしての課題は、最後まで書きあげることなんです。いくら途中で発想が続いて書き続けることができたとしても、書きあげたという実績がないとダメなんですよ。かなり頑張っていたけど結局できなかった。きっと、この二つ以外にも必要な何かがあって、それを自分で習得することができなかったんでしょうね。そのあたりで、心が折れてしまいました」
とマスターが言った。
「私も、小説を少し前に書いてみようと思ったことがあったんですが、無理でしたね。気が付けば同じことを何度も書いていたんですよ。ある程度まで先が見えてきてから、そのことに気づくと、その先がどうしても書けなくなる。ほとんど大詰めだったのに、まるで、双六で振り出しに戻された感覚ですよ。最初はそれほどでもなかったんですが、同じことを書いていたという意識が頭にあると、今度はまったく集中できなくなった。まるで最初の頃の一行書くのに、脂汗を掻いていたあの感覚ですね」
と、ひなたは言った。
「小説と絵画は、また少し違うかも知れないですが、結局は同じ芸術だということでもありますよね。ひょっとすると、同じものを見ているのに、まったく違う方向から見ることで、違った形の新しい芸術が生まれるかも知れないですね。たとえば、絵を描くという発想は、マンガを描いているという感覚に似ていて、アニメとして映像にもなりますよね。小説はドラマの原作として実際にもなる。今の時代ではそういう発想もあるでしょう。でも私たちの若い頃は、絵画と小説というと、一番の違いは、小説ではすべてが想像力によるものだけど、絵の世界は、視覚で感性に訴えるというものであり、私はどちらかというと小説の方が好きだったんです」
とマスターは言った。
「私も本当なら、小説を書けるものなら書いてみたいと思ったことがあったんですけどね。でも、今言われたようなことを考えたことがなかったので、ひょっとするとそれを聞いた今なら書けるかも知れないような気がしてきました。少なくとも、集中力というのを考えた時、小説を書けるような気もしてきました。絵画と小説、二刀流でやってみようかな?」
というと、
「そんな甘い物じゃない。どっちか一つにしておきなさい」
と言われるかと思ったが、
「それはいいことだ。今はまだ若いんだから、いろいろな可能性にチャレンジするのはいいことだと思うよ。特に今の若い人を見ていると、何を楽しみに生きているのかって思いたくなるくらいなので、いろいろなことにチャレンジしようとしている、ひなたさんが眩しく見えて、羨ましいくらいですよ」
とマスターは言った。
ひなたはそれを聞いて安心した。
「やっぱり、年上の尊敬に値すると思う人には、安心感を与えれるんだろうな」
と感じたのだ。
それから、少しして大学の授業に出た時、図書館に寄ってみた。それまでは絵の描き方のハウツー本のようなものを見たことはあったが、小説の書き方はなかったからだ。
小説の書き方というのは、思ったより少なかった。文章の書き方としてはあったが、小説に限っては、あまり置いていなかった。
そもそも、小説と小説以外の文章の違いとは何かというのを思いながら本棚を見てみると、、まるでいまさらと思うことに気づいたのだ。
「文章、と文書」
というものがそもそも違っているのに、それまで気付いていなかった、
それはまだ大学生ということもあるからだろうが、文書というものは、ビジネス文書に代表されるように、ある程度ひな形のような書き方が決まっているもので、会社に提出するモノとして、退職願や、始末書なのどのようなものがビジネス文書と呼ばれるものであろう。
しかし、文章と呼ばれるものは、散文と言ってもいいのだろうが、定文化されているものではないのだが、最低限の体裁は整っていないといけないだろう。
例えば、文章の終わりには、段落分けをして、段落分けの最初の文字は一行開けるであるとか、クエスチョンマークや、ビックリマークを書いた後は一行開けるというような、本当に常識的なこと以外は、ある程度フリーに書けるというのが、小説としての定義のようなものだろう。
小説には、フィクションとノンフィクションがあり、論文や作文、ドキュメンタリーなどがノンフィクション、そして、ミステリーやホラー、恋愛などのような、架空の話がフィクションというわけだ。
一般的に小説と言われるのはフィクションであろう。ノンフィクションを小説の中に入れるのは、いかがなものかという考えもあるが、ひなたの意見としては、
「入らないと思う」
という考えであった。
そして、もう一つ気に入らないジャンルがある。それは、
「二次創作」
と呼ばれるものだ。
他人の書いた、小説であったり、マンガを題材にして、その続編を書いてみたり、あるいは、題材はそこから持ってはくるが、まったく別の世界のできごととして描くことで、オリジナリティを出そうという魂胆なのかも知れないが、しょせんは
「他人のふんどしで相撲を取っている」
というだけの、言ってしまえば、盗作まがいの話ではないかと思うのだった。
小説のハウツー本を読んでみると、一番重要なことは、
「どんな作品であっても、最後まで書きあげる」
ということであった。
小説を最後まで書けない理由についていろいろと書いてあった。
まず考えられるのは、文章が出てこないということだ。これはそのまま、発想は浮かばないということであるが、一つの理由として、
「プロットをキチンと書いていないからだ」
と言えるであろう。
プロットというのは、小説の設計図とでもいえばいいのか、マンガであれば、ネームと呼ばれるものであろう。
どういうジャンルにするか、時代背景、登場人物、場所の設定などいろいろな考えられることを箇条書きでもいいから書いておく。プロットには決まった形はないので、自分で分かりやすいように書いておけばいいのだ。
箇条書きにするのもいいし、登場人物などは相関関係図を描くのもいいだろう。小説のジャンルによって、必要なことは異なる。ミステリーなどは、探偵、犯人、トリック、被害者、そして、どのように解決に結びつけるかなどいろいろあるだろう。特に相関関係図などは、作中の挿絵などにも使えたりするので、書いておくといいかも知れない。
まったく何も考えずに書き始めると、数行書いて、もう書くことがないのだ。すでに策は出尽くしたとでもいえばいいのか、それが初心者が陥る最初の難関である。
その時に感じるのが、
「やはり小説を書くのは難しい。俺なんかが書こうと思ったことが間違いだったんだ」
と思うことである。
そして、書けなかった理由のほとんどを、小説を書くのが難しいという枠に押し込めてしまうから、書けなくなるのだ。
どんな内容でも、どんなに下手くそな文章であっても、最後まで書きあげてしまうと、後から手直しなどいくらでもできるというものだ。
まったく何もないところから書くよりも、一度書いたものの手直しをする方が、相当楽であることに気づくはずだ。
そして、書けない理由のもう一つは、
「自分に自信が持てない」
ということである。
自信がないから、余計に、プロットも書かずにいきなり原稿用紙に向かおうとする。プロットがよほど難しいものだということを考えているのだろうが、少なくともアイデアを出すくらいの知識は誰にでもあるというものだ。
小説のジャンルについて、まったく知らないという人はいないだろう。少なくとも、
「小説を書いてみたいな」
と思っている人は、それまで小説を読んでから、
「あんな風に書ければいいな」
と感じたから書こうと思ったはずだし、まったく本を読んだことのないという人に、小説を書こうという意識はないはずだ。
それを思うと、ジャンルくらいは思いつくだろう。後は消去法である。書いてみたい小説の中から。どれだったら書けるか? あるいは、何を書いてみたいと思うかということを消去法で考えていけば、書きたいものが残るはずだ。(残らなかったら、しょうがないので、そこで諦めるしかないのだろうか)
後は、プロットに必要なものを考えていく。取材や本を読んでの勉強も必要だろうし、自分の経験を思い出して書くのもいいだろう。
ノンフィクションであれば、自分が経験していないことを書くのはNGだが、フィクションであれば、ある程度は何でもありだ。少々無理な話であっても、
「これは夢だった」
という夢オチという形にしてしまうという手もあるだろう。
ただ、夢オチはベタな方法なので、似たような話になりそうな場合は、他の人の作品と被らないように考える必要はあるのだが、一度も完結させたことのない素人が、そこまで考える必要はないだろう。
それが売れて、印刷され、値段がついた商業本であれば、そこまで気にしなければいけないが、発表予定のない自分のオリジナル作品であれば、別に盗作であっても、著作権侵害には当たらない。著作権侵害は、あくまでも盗作により、利益を得て、本来の著作権者に迷惑をかけた場合に適用されるものである。
もう一つ考えられるとすれば、
「集中力が続かない」
ということではないだろうか?
すぐに気が散ってしまって、小説を書いているのに、別のことを考えてしまったり、自分の部屋であれば、テレビやゲームという誘惑に負けてしあったりというのがあるだろう。
小説を書きあげることができない」
という人で、理由として一番最初に挙げるのが、この考えではないだろうか。
一番分かりやすい考えで、表に出ていることだからだ。その理由の大きなものとしては、
「小説を読んでいないからだ」
ということに尽きるだろう。
人の作品でも読んでいれば、どんどんその小説に引き込まれていくのが分かるはずだ。読みながら気が散っているようでは、そもそも小説を書こうなどと最初から考えること自体間違っているのだ。
その最初のステージをクリアしたのであれば、本を読むことだってできるだろう。他の人の小説にどのように引き込まれるのかを考えながら読んでいくと、
「俺だったら、この次の文章、こういう書き方をするよな」
と感じるはずである。
先々に読んでいくと、
「読みながら考えられるのだから、文章を作りながらだって、先読みができるはずだ」
と感じるはずだ。
そうなってしまうと、もうこっちのものだ。あとはいかに小説を言葉としてつなげていくかということの問題だけである。
そのために、集中力が必要なのだということに気づけば、ここの、
「集中力が続かない」
という問題はクリアするはずである、
書いているうちに、どんどん先の言葉が思い浮かんできて、気が付けば集中している。集中力がないのではなく、集中力をもたらすくせをつけるようにすればいいのだ。それが読書であり、文章作法の勉強と一緒に、流れも感じることができる。そういう意味ではハウツー本も大切だが、生のサンプルも大切だと言えるだろう。どんな小説を書けばいいのかというのも集中力が生まれてくると、おのずと、プロットも出来上がるし、自分になかった自信を持つこともできるだろう。
そう、書きあげることの最終的な目的は、
「自分に自信を持つことだ」
ということになるだろう、
ただ、書きあげるということに関しては他の芸術と同じであろうが、何よりも違うのが、
「自分になんかできるわけがない」
という思いが他の芸術よりも強いのではないかと思われる。
確かにほかの芸術でも、自分にはできないと思われがちのことは往々にしてあるだろう。絵画にしても、工芸にしても、投げ出したくなることもあるだろう。むしろ、文章よりも絵画や工芸の方が、感性としては強いのではないだろうか。
絵画の場合のように、感性が強いというのに、なぜ小説を書いている人間よりも、絵を描く人の方が圧倒的に多いのか、実に不思議に思う。友達の中にも、
「絵を描いている」
という人は結構いるが、
「小説を書いている」
という人はあまり見かけたことがない。
ひょっとすると、あまり書いている人がいないことと、読ませてほしいなどと言われるのを危惧して、書いているということを公表しない人が多いのかも知れない。
絵であれば、結構描いている人が多いので、少々下手くそでも、さほど何も言われないような気がするが、小説であれば、結構辛辣な意見が寄せられるのではないかという思いもあるのかも知れない。
確かに、ネットなどで素人小説家が書いた作品の感想やレビューなどで、結構辛辣な意見を書いている人もいる。
絵に関しては、見る角度によって意見もさまざまなので、辛辣な意見があっても、それほど気にはならないが、小説というと、文章なので、ある程度は幅が決まっているようなものである。辛辣な意見も真摯に受け止めなければいけないのではないだろうか。
小説というのは、そうやって考えてみると、今からやってみようと思うのはどうなのだろうか?
「他の芸術ではなく、小説だけをやっていきたい」
と思うのであれば、小説に走るのもいいだろうが、絵画もやりながらというと、中途半端な気もして、本当に両立できるのか、難しいところであった。
小説が書けるようになってからであれば、それも可能なのだろうが、最初が絵画だったというのは、どうなのだろう?
図書館で本を読んでいると、同じように小説の書き方なろ本を物色している男子生徒がいた。彼はメガネをかけていて、少し小柄な少年と言ってもいいくらいの男の子だった。男子を意識するのは、マッチョな男子だと思っていたのだが、真剣に小説の書き方という本を読んでいるその少年に、今までに感じたことのない感情を抱いたのは、なぜだったのか?
同じ目的を持った人が、図書館で同じような本を探しているというシチュエーションは、恋愛マンガ、恋愛小説では明らかにベタなお話ではないだろうか。
しかも、好みのタイプではない男の子をなぜ意識するのか、それを分からない間は、どうしても気にしてしまう。その矛盾をいかに自分なりに解釈するか、どこが難しいところであった。
「あの、どんな小説を書かれているんですか?」
と、ひなたは彼に聞いた。
彼がもし、必死になって否定し、小説を書いていないと言えば、自分と同じレベルなので、ひなたは、安心して話ができるだろう。
しかし、彼が落ち着いて、今何かの小説を書いているということになれば、彼から教わることもありそうな気がする。その時は、彼のことを師匠のように感じ、決して男女の関係に発展することはないだろうと思うのだった。
どちらにしても、その反応で相手に期待するものの違いこそあれ、近づきになりたいと思う気持ちには変わりはないだろう。
すると、彼の反応は、
「ああ、僕はまだ小説を書きたいと考えているだけで、まだまだこれからだと思っているんですよ。おねえさんはどうなんですか?」
と、彼はひなたのことをおねえさんと言った。
ということは少なくとも、現役で入学してきた一年生ということであろうか?
「おねえさんとは?」
と聞くと、
「ごめんなさい。これは僕のくせなんですよ。ついついおねえさんと言ってしまうんですよ」
というと、
「いつも、誰にでもおねえさんというの?」
と聞いてみると、
「そうですね、初対面の人にはそう言いますね。でも、さすがに学生服を着ている女の子であったり、おばさんだと思うような人には言いませんけどね。少なくともここは大学内であるし、僕と同学年か、上級生しかいないと思ったからですね」
ということだった。
確信犯ではあるが、彼の言っていることに、違和感はない。彼の様子を見ていると、可愛らしいの一言だった。マッチョが好きなひなたには、彼を一人の男性という意識で見るよりも、弟という雰囲気がピッタリだ。
「おねえさん」
と言われるのも、そういう意味では違和感があるわけではない、
家では一人っ子のひなたなので、弟ができた気がして、そういう意味で、可愛いと感じるのだった。
そういえば子供の頃に母親に、
「どうして、私には弟がいないの?」
と聞いたことがあった。
小学校の頃友達の家に遊びに行った時、友達の弟が、お姉ちゃんである友達に、必死になって、
「お姉ちゃん、遊んでよ」
と言っていたのを思い出した。
もし、ひなたが遊びに行っていなければ、友達が弟と遊んであげていたことだろう、弟は、ひなたに嫉妬したということだろうか。
ただ、そんなことが分かる年でもなかったので、
「この弟、鬱陶しいわね」
というような感情を抱いたような気がしていたのだ。
それなのに、家に帰ってくると、友達のように弟が慕ってくるのが羨ましく感じ、
「どうして私には弟がいないの?」
と、まるで弟がいるのが当たり前であるかのような聞き方をしたのだった。
「そんなこというもじゃありませn・赤ちゃんというのは授かりものだから、私たちの思うようにはいかないおよ」
と言われた記憶がある、
その時言われたのは、
「授かりもの」
という言葉で、
「神様からの」
という言葉はなかった。
子供の頃なので理解できなかったが、今から思えば、あれは、思うようにはいかないというウソを神様のせいにしてはいけないという、わずかばかりの後ろめたさがあったのかも知れない。
そういう意味では、母親は子供お扱い方が上手かったのかも知れない。友達がどのように聞いているのか分からないが、考えてみれば答えにくいことは、できるだけぼやかせて、そして、そういうことは人には聞いてはいけないということを、思い込ませているようだった。
そのおかげで、あまり母親には逆らわない娘だったと思う。逆に、あまりにも曖昧すぎて、何が悪いのかという肝心なことを自分の中で消化できずにごまかしてきたように思う。高校時代の先生との恋愛も、その一つだったのかも知れない。
「悪いことをしている」
という意識はあるのだが、何がどうして悪いのかというのがまったく分からない。それだけに、先生とズルズルいってしまったのではないだろうか。
しかも先生の方も今から考えれば、あまりにもガードが甘すぎる。甘すぎるガードをこじ開けてしまったのだから、ひなたにも、邪悪な女をしての目があるのかも知れない。
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