第35話 普通の幸せ

 一週間を過ぎ、退院してから目まぐるしく時間は過ぎていく。子供は後藤が晴と名付けた。

 出産時晴れていたから、これからの人生晴れていて欲しい、というそれだけの安直な理由だが結構気に入っている。

 

晴は少しながら言葉が話せるようになっていた。

「お母しゃん晴、セミほしい」

「駄目やで。セミさんはな、すぐ死んでまうねん。自由にさせへんとな」

「わかったー」晴は聞き分けが良い。性格は後藤に似たようだ。

 千絵は後藤をすっかり尻に敷いている。しかし後藤はそれが心地良いらしい。

 後藤の下の名前は正治という。

 朝、「正治、今日弁当作れへんかったわー」と言うと

「ええよ、適当に食べるし」と、ちゃんと返してくれる。


 千絵は、日々というものを今までの分、噛み締めていた。

 いつしか正治の事を愛していた。帰って来るのが待ちどおしい。

 毎晩のようにジェンガやボードゲームを家族で楽しむ。

 だが一度でも喧嘩をしようものなら離れてしまうかもしれない。それは千絵にとって恐ろしい事だ。

 これからも円満でありたい。

 肉体関係は月に一度程度であまり関心がないようだ。千絵も性欲というものが欠けている。ずっとこのままが良い。

 を手に入れた気がする。

 


そんな普通の幸せを過ごし、正治の子は二人もうけて、いつしか二十年が経とうとしていた。

 千絵はもう熟女になっている。四十八歳だ。晴もすいぶんと大きくなった。

「母ちゃん、行ってくるわ」晴は靴紐を直しながら言った。

 結婚はいつするんだろうか。とそわそわとする。

 性格の良い女の子ならいいなと上の空で考える。しかし不安もある。

「あ、母ちゃん。来週彼女連れてくるから」

 ついに来たかと思った。ご飯は何にしよう。

「どんな子?」と聞いた瞬間ドアが閉まった。晴には聞こえていなかったようだ。

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