第3話

 もうすぐ私の担当のアーネが産卵期に入るから授業は全てリモートで受ける、休む時もあるかもしれないと大学で報告した日、いち早く卵を温めて無事に孵した莉子が私に「大変だよ」と先輩ぶってアドバイスしてきた。



「卵を産んだ後のアーネってすごく心配性になるからね。卵のことも心配するけど、私のことも心配するの。もう一歩歩くのにも大騒ぎよ」


「大変そうだね」


「他人事じゃないよ。紬もこれからそうなるんだから。色々買い込んでおいた方がいいよ。アーネに頼めばいいってわけにはいかないの。側から離れたがらないんだから」



 そうなんだ、と頷きながら思う。シャナは今だって私から離れたがらないし、帰るのも嫌そうにしてるけどね。



「ま、それももう終わり。いい経験になったよ」



 え、と思わず驚いてしまう。給料が良いとあんなに喜んでいたのに。



「もう辞めるの? 次も頼まれそうって言ってなかった?」


「うん、ヤニャはね、次もすぐ産むから温めてくれって言ってくれたけど……彼氏がさ、アーネと深い関係を持つのは嫌だって言うから」


「どうして?」



 また変な人を捕まえたのだろうかと眉を寄せてしまう。莉子は好きな人には一直線なのが玉に瑕だ。



「ほら最近、アーネが人間といるとストレスが解消されるからって、錯覚っていうの? 好きだとかそういう感情と勘違いして、恋人になるとか流行ってるじゃない?」



 その言葉を聞いた瞬間、私のことを言われているのかとどきりとしてしまった。



「彼氏が間に受けちゃってさぁ。ヤニャとは全然そんなんじゃないのに。だってヤニャには夫がいるんだよ?」


「そ、うなんだ……」


「ていうか、人間とアーネが恋なんて、あるわけないよね。アーネはさ、優しいし、まあ勘違いしちゃうのも可愛いとこあるよねって感じだけど、人間側が本気なのはちょっと引いちゃうな」



 冷たいもので突き刺されたような錯覚に陥る。

 きっと私がシャナに触れられるたびに興奮していると言ったら、莉子は私の友人ではなくなるのだろう。



「動物に欲情してるのと一緒じゃない? まあアーネは動物と違って話せるけどさ。じゃあ、犬とか猫と話せたら恋して良いのかって言ったら、違うじゃない? それと一緒」



 当たり前でしょう、と私を仲間だと信じ切った顔で言われる。



「だって私達、違う生き物なんだし」



 気持ち悪くて吐きそうだった。莉子になんて言ってその場を離れたかよく覚えていない。

 友人の飼っている猫の姿が頭に浮かぶ。

 シャナに似てる、まだ小さな元野良で人見知りの猫。

 あの子に性欲をぶつけるのと同じなのだろうか? 本当に?

 でもシャナは大きいし、会話ができる、同意だって取れる。

 だけど、違う生き物なのは、そう、そうだ。その通りだ。

 猫達が大きければ、話ができるようになれば、私達は同種族の人間に向けるのと同じ欲を抱いても許されるのか?

 私は荒れる感情をどうしていいか分からなくて、どうしてもシャナの顔を見たくて、私の気持ちを正当化したくて、アーネ族の住む街に向かった。


 シャナに連れられてこの街の中を何度か歩いたことがある。アーネと個人的に契約してる人間にはどのアーネも優しいし、自分の卵を温めてくれなんていう無遠慮な頼みもしない。

 人間が街に入るにはゲートでカードを見せる必要がある。

 シャナの名前を契約している証拠の刻まれたカードを見せるとすぐに街に入れてくれて、アーネを呼び出そうかとまで聞いてくれた。

 家は知ってるから平気、と断ってシャナの住んでいる家に向かう。

 電話で呼んできてもらうよりその方が早いと思ったのだ。

 それにシャナはいつも私の部屋に来るけど、私はシャナの香りのする家でシャナに抱かれる方が好きだ。

 シャナの家に着いて少しほっとしながら「何かあった時のために」と渡されている鍵を使ってドアを開ける。

 本当はメッセージを送った方がいいとはわかっていたけど、多分シャナは仕事中だからと言い訳をして家に入る。

 シャナが帰ってくるまで籠のようなベッドで丸くなりたかった。


 けれど足を踏み入れた瞬間、何故か聞いたことのない不快な音が聞こえてきた。

 金属と金属が触れ合うような耳障りな音だ。

 これはなに、と恐る恐る足を踏み出す。音の鳴る部屋はすぐに見つかった。

 部屋の中を覗き込んだ時、私は何が起きているのかすぐにはわからなかった。

 シャナの体に自分の毛を絡め、腹のような場所を開き切ったアーネがシャナと一つの塊のようになってそこにいた。

 不快な金属音がまた聞こえる。シャナは見たことのない顔と目をしていた。

 いや違う、アーネで見たことがないだけだ。人間ならばよく見たことがある。あれは欲情してる目。

 これはきっとセックスだと、気づいた瞬間力が抜けて床に座り込んでしまった。

 当たり前のことだ。人間もアーネも一人では子どもは作れない。相手が必要だ。

 シャナにパートナーの話をされたことは一度もないが、卵を産むのだから相手がいるのは当たり前のことだ。

 今まで気づかなかったのが不思議なくらい。いやあえて目を逸らしていたのかもしれない。

 シャナに特別な人がいるなんて嫌だったから。そんな大切なことも話してくれていないなんて私は特別じゃないんだと自覚するのが嫌だったから。



「卵は産んですぐ人間に渡してしまうの?」



 シャナにもう一人のアーネが話しかける。耳障りな金属音は消えない。

 当たり前だろ、と心の中で言う。私がシャナの卵に初めて触るんだ。

 私以外の誰が触るっていうんだ。そこだけは譲れない。譲るはずがない。そう信じていたのに。



「いや、そうしたら貴方が触れなくなる。一番最初は私と貴方でないと」



 その裏切りの言葉に私は呆然として、この場に割って入れたらどれだけいいだろうと思った。

 たとえば私がシャナの恋人なら、割って入れるだろう。浮気相手だって構わない。でも私はシャナに雇われているだけなのだ。

 私は這うようにして家を出て、呆然としたまま自分の家に向かって歩き始めた。

 友人が前に送ってきた猫の動画とメッセージを思い出す。

 猫は発情期の時に友人に体を擦り付けてくるのだそうだ。動画の猫は聞くのを憚られる声を出していた。

 尻尾の付け根の辺りをとんとんと叩いてやると、気持ちよくて猫は喜ぶ。人間は一ミリも興奮なんてしていないのに、猫は欲情している。

 私が人間なんじゃない。私が飼い主なんじゃない。私が猫で、シャナが主だ。

 シャナのことを猫に喩えていた自分があまりに滑稽で笑ってしまう。

 私が猫なんだ。シャナに抱かれて撫でられてストレスを癒してあげて、選んだ気になってお金を払われて、そして勝手に欲情して触って欲しいと体を擦り付けている。なんて馬鹿なんだろう。

 家に帰ると吐いてしまった。涙が勝手に流れてきて止まらなかった。

 着替える気にもならなくて床に座り込んでいるとシャナがやってきた。

 アーネも入れる作りの大きな部屋だけどそれでも小さく感じるのか体を縮めてのそのそといつもより急いで入ってくる。

 あの不快な音をさせていないシャナだ。でもそれは私に興奮していないからだともう知っている。



「ツムギ、ツムギ。どうしたんだ」



 私の涙を拭いながらシャナが動揺したように何度も聞いてくる。



「君が街に入った記録が残ってた。私に用があったのか? どうして電話をくれなかった。何があった」



 私に何かあったら困る? そうだね、卵を温めてもらえなくなるもんね。

 貴方はアーネにはモテるけど、人間からは怖がられるから、次の専用の人間を見つけるのは難しいものね。



「……あの人はいいの?」


「なんだって?」


「恋人より、私を選んでくれたの? それとも貴方の身体の中にもう受精した卵があるから? それで私を優先したの? それだけ?」



 きっとシャナは私が何を言っているのか全然わかっていないのだろう。ここまで私は私を曝け出しているのに。

 もしかしたら猫達も本気な時があるのかもしれないと不意に思った。

 私達人間が勝手に生理現象だから発情期だからと流しているだけで、狂おしい欲情をただその人に向けて訴えていることもあるのかもしれない。シャナの体に抱きついて執拗に迫る私のように。



「わかれて」


「なんだって?」


「あの人を愛してるなら別れて、私にして。私がいいって言って」



 シャナはきっと混乱しているのに、私のことを引き剥がそうとしなくて、私とシャナの必死さが違う気がして嫌だった。

 せめてもっと本気で拒んで。気持ち悪いと言って私を突き飛ばせばいい、その大きな体で。ねえ、私と同じところまで堕ちてきてよ。



「何故? 私とあなたでは子どもは作れない」



 卵を産んで子どもを育てるだけが人生じゃないと、そう言った貴方がそんな台詞で私を振るの?

 そんなことで私の気持ちが止められると思っているの? 止められるならこんなこと言ってない。

 シャナは他のアーネとは違う特別だと思ってた。だから私の気持ちは我慢しようと思ってた。

 でもシャナも他のアーネと同じならどうして私が我慢しなきゃいけない? 貴方もどうせ卵を無事に孵したいだけの他のアーネと同じだ。



「それでも、好きなの」


「……私もツムギのことは好きだよ」


「違うよ、シャナ。全然違うの。だってシャナのそれは、私が猫を可愛いって言うのと、一緒でしょう?」



 今ようやく気がついた。どうしてシャナが猫を抱いている私の写真だけを「可愛らしい」と言ったのか。

 それは愛玩してる生き物だからだ。

 私のとっては猫がそれで、シャナにとっては人間がそうだ。



「私は違うわ、貴方に欲情してる」



 どれだけ言葉を尽くしてもきっとシャナには届かない。

 同じ言葉を使っても私達は分かり合えない。だって違う生き物だから。



「ツムギ、君は混乱してるんだ、少し落ち着いて」


「私の胎にシャナの卵を入れてあげる」



 シャナの言葉を遮って切り札を使った。

 私の言葉を聞いた途端、シャナが文字通り目の色を変える。紺色に近い青に染まった目が綺麗だった。

 ほら貴方だって卵が一番大事なんでしょう。ずっと私の胎の中に入れたかったんでしょう。だからずっと触っていたんでしょう。

 貴方の本能も私の欲望も醜くて汚くてきっとお似合いのはず。



「一度だけじゃないよ。シャナが望んで私の身体が可能な限り、何度だって入れてあげる。何度だって貴方の子を健康に生まれさせてみせる」



 貴方のことを他のアーネのように嫌いになれたらいいのに。そんな気持ちにはなれない。

 この想いに理由や他人を納得させる根拠が必要? 人が人を愛するのに理由がいらないなら、私だってシャナに欲情してもいいはず。



「だから、私だけって言って」



 私は貴方に触れてもらえるなら、貴方が一ミリも興奮していなくても構わないから、貴方に私を鳴かせてほしい。

 私の出す声は貴方にとっては不協和音かもしれないけど、それが愛なのだといつか気づいて。

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愛玩と欲情 蒼キるり @ruri-aoki

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