第弐章 狐の嫁入り

第7話 普通の幸せというもの

 それは私がまだ六歳か七歳の頃。沖さんと会った少し後の出来事。



「ねえねえ、お父様、あそこにいる小さい人はだぁれ?」


 私が庭でまりをついて遊んでいると、大きなふきの葉の下に、緑色の服を着た小さな男の人が見えた。


 この頃、私は生身の人間とそれ以外の人間の区別がついていなかった。


 近所の駄菓子屋に居座る小さな赤い着物の少女も、街頭の下にいる黒くて背の高いヒトも、白いポワポワした浮遊体も、みんな私以外にも見えていると思っていた。


 だけど私がそういった「人ならざる者」について話すと、お父様は決まって顔をしかめた。


「何言ってるんだ、千代。そんな所には誰もいないぞ」


「えっ、居るよ。ちゃんと見て! ほら、あそこ――」


 私がお父様の着物を引っ張り、なおも庭先を指さしていると、父親は私の手を思い切り叩いた。


「いい加減にしなさい!」


 私がビックリして目を見開くと、父親は嫌悪感と恐怖感の入り交じった顔で、私を蔑むように見つめた。


「そんな所には誰も居やしない。嘘をつくのはやめるんだ!」


「私、嘘なんて――」


 お父様に信じてもらおうと、必死で食い下がる私に、お父様はピシャリと言った。


「もう二度と、そんな嘘は言ってはいけない。さもないと、お前の母親みたいになってしまうぞ」


 その夜、私はお父様とお義母さんが話している会話を、ふすま越しに聞いてしまった。


「あの子ときたら、あの子の母親とまるで同じだ。居やしないものを居ると言ったり、無いものを見えると言ったり――」


 嘆くお父様に、再婚したばかりのお義母様が寄り添うようにして座る。


「一種の神経症なんじゃないかしら。遺伝するんでしょ、そういうのって」


「だとしたら、千代も母親のように心を病んで……あんな風になってしまうのだろうか。参ったな。これ以上我が家名を汚すような事があっては困るというのに」


 深く肩を落とすお父様を、お義母様は優しい口調で慰める。


「大丈夫。いざとなったら、病院に入れてしまえばいいのよ。圧力をかけて、一生出てこれないようにすれば、誰にも見つからないわ」


 クスクスと笑うお義母様の真っ赤な唇が、目に焼き付いて離れない。


 背中が恐怖で凍る。


 嫌だ。病院に入れられるだなんて。一生出てこられないだなんて。


 その夜、私は一人布団の中で考えた。


 庭に「緑の人」を見た時の、あのお父様の反応。まるで穢らわしいものを見るような瞳だった。


 私は、これまでにも何度もお父様にあの目で見られたことがあったことを思い出した。


 今思うと、お母様が亡くなる前から、お父様はずっとそうだった。


 お父様は普段は優しかったけれど、「居やしないもの」について語るときだけは、酷く渋い顔をしていた。


 お義母様がこの家に来て、カヨ子が生まれて、それからお父様は変わってしまった。そう思っていた。


 だけど違った。お義母様が来る前から、お父様はずっと私の力を疎んでいたんだ。


 ということは――お父様があんな風になってしまったのは、お義母様のせいじゃなかったんだ。


 全ては私のせい。私のこの力のせいなんだ。


 私が「居やしないもの」を見るのが、普通の女の子じゃないのが、お父様は嫌なんだ。


 私はギュッと布団の端を握りしめた。


 普通にならなきゃ。


 お父様やお義母様に嫌われないように、普通の女の子にならなくちゃ。


 ***


「ああ、千代、君に縁談が来ているよ」


 数日後、私はお父様とお継母様に呼び出された。


 やった、ついに次の縁談が来たわ。


 これで沖さんの求婚を断る口実ができる。


 沖さんには悪いけど、やっぱり普通の人間と結婚したいもの。


 「呪われた令嬢」では無くなったとたん、「狐に魅入られた令嬢」になってしまうだなんて勘弁だもの。


 いそいそと居間に向かい、正座をする。


「それで、お相手はどんな方でしょう?」


 尋ねると、お父様は上機嫌に答える。


「ああ、資産家で、感じの良い方だよ。カフェーの経営もしていらっしゃる」


「そ、そうですか」


 カフェーの経営……。まさかね。


 私は恐る恐る尋ねた。


「その方のお名前は?」


 父親は、満面の笑みで答えた。


おき常春つねはるくんと言ったかな」


 その言葉に、私はその場でずっこけそうになる。


 お、沖さん!?


 ま、まさか、うちに直接縁談を申しこんでくるなんて!


 私があっけに取られていると、お継母様はニコニコと笑みを浮かべる。


「なかなかの美丈夫で、感じの良い青年て、あなたのような娘には勿体無いぐらいのお方よ」


 そ、そりゃあ美丈夫だけど、狐なのよ?


「えっと」


 私が口を挟もうとすると、お父様は有無も言わせぬ口調で断言した。


「うむ、父さんも、中々に骨のある人物と見た」


「――で、でも」


 私が口を開こうとすると、お父様はぴしゃりとたしなめた。


「千代、沖くんは資産家だし、『呪われた令嬢』なんて評判が広まってしまった今、お前を貰ってくれる相手なんてそうそういないぞ」


 そ、そんなあ。


 資産家だなんて、絶対に嘘でしょ。もうちょっとちゃんと調べてよ。


 まさか、沖さんにまやかしや妖術でたぶらかされちゃったの?


「とにかくそういうわけだから、行き遅れになる前に、この際、沖くんに決めてしまいなさい」


 冷たく言い放つお父様。

 私は黙って頭を垂れるしかなかった。


「……はい」


 そんなわけで、私はどうやら沖さんのところに嫁ぐことになってしまったみたい。

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