43 救いの、先にあるもの

 長い静寂の後、ナターシャ王女は小さくため息をついた。


 興ざめだといった様子できびすを返し、部屋の奥に置かれた椅子に腰かける。

 そして、シャリフ皇太子やニコラ達のことは一切無視して、テーブルの上に置かれた本に手をかけた。


 ナターシャがまとう黒色の服が、本を手に取ると同時に入り口から入ってきた風ではだける。

 あらわになった白色の肌には、無数の傷やあざが浮かんでいた。


「……ッ! この傷や痣は一体だれが!?」


 シャリフ皇太子はナターシャの方に急いで駆け寄り、腕を取って問いかけた。

 ナターシャは一瞬驚いたような表情を見せたものの、すぐに目を細めてフッと鼻で笑って答える。


「……こんなもの、この国では普通のことでしょう? この国の男たちは男尊女卑の土壌の元、優位付けや箔付けのために自らの母親や妻に手を上げる。そこに、日ごろの憂さ晴らしとして自分の娘に手を上げるのが加わった……ただ、それだけのこと」


「ということは、父が君に手を上げていたということか!?……自らの娘に、こんなに跡が残るまで日常的に……だから君は、国王を……この国を恨んで滅ぼそうと……?」


「? いったい何のことでしょう?」


 シャリフ皇太子の問いかけに、ナターシャは素知らぬ顔で答えた。

 その様子にシャリフ皇太子は一瞬眉をひそめる。そして、小さく息を吐いて言葉を続けた。


「君が着ている黒衣は『土の乙女』が着るものだ。そして君は、この国の王女だ。我々首長一族は、概して魔法適性の強い者が多い。下層階級出身ばかりの他の乙女達に比べて、君の魔力が段違いに強くても驚きはしない。飛蝗バッタに関しても辻褄つじつまが合う」


 ナターシャは尚も怪訝そうな表情を浮かべている。

『何のことだか分からない』

 あたかもそう言っているかのような表情に、シャリフ皇太子はため息を深める。

 

「……それでもまだとぼけるつもりなら……いいだろう。ニコラ、こっちへ来てくれないか」


 突然話しかけられて、鉄格子の扉を見ていたニコラは思わずビクッとした。

 急いでそちらに視線を向けると、シャリフ皇太子がこちらに向かって手招きしている。

 

 これが恐らく、シャリフ皇太子の言っていた『ニコラの協力が必要なこと』なのだろうと思い至り、慌てて二人の方に歩み寄っていった。

 後ろにいたアニーとテッドも、ニコラの後に続いて部屋内に入っていく。


 ナターシャはシャリフ皇太子の言葉に、自分の腕を取るシャリフ皇太子から視線を外してニコラの方を見た。

 それはちょうど、ニコラと、その後に続くアニーとテッドの三人が、心配そうに二人の様子を窺いながら近づいているところで……。


 ニコラを視界に収めたナターシャが、その瞬間目を見開き、驚いたように急に立ちあがった。


 腕を掴んでいたシャリフ皇太子の手を払いのけ、その手で口元を覆うと全身をガタガタと震えだす。


「ヴラスタ嬢と同じ反応……やはり君は『乙女』で、『女王』だったか……」

「そんな、まさか……私は……」


 ナターシャはそう言って、膝から崩れ落ちていく。

 シャリフ皇太子は慌ててナターシャの肩を支え、そして言った。


「もう、何も言わなくていい。君がしたことは許されることではないが、君をこのようにしてしまった父やこの国にも……もちろん私にも責任がある。私と共に罪を償っていこう」


 そう、シャリフ皇太子が「ああ……」と俯くナターシャに、清濁併せいだくあわせ飲むような、けれど慈愛に満ちた表情で言葉をかけた時だった。

 

 ニコラの姿を見て驚き、俯きながら震えていたナターシャの体がピタリと止まった。

 そして静かに、けれど刺すような冷たい声色で言い放つ。


「……それが救いになると、本当に思っているのですか?」

 

 そう言うと、ナターシャはバッと勢い良く頭を上げた。

 その目には、シャリフ皇太子どころかニコラたちも映っていない。


 その目には、ただ……が映っていた。


 気が付けば、ナターシャと扉との間には何の障害物もなく、一直線に道が開かれていた。

 一拍遅れで気付いたシャリフ皇太子が、ナターシャに手を伸ばす。

 

 しかし、彼女は全身を覆う布を目隠しのように脱ぎ広げながら、まっすぐと、ただひたすらに扉の方へと走っていく。

 そして、あっという間に扉の、さらにその奥の窓に手をつき、こちらを振り向いた。


 満面の笑みだった。


 窓から入る風が、ナターシャの髪と体に残された薄布をバサバサと乱す。

 激しく吹き込む風に乗って、小さな水の粒が細かく弾けていた。

 

「ありがとう、お兄様。ここに来たのがあなたで良かった……あなたは、優しい。けれど、分かっていないの。ここに、この国に、とらわれて生き続けることこそが、私にとって最早もはや地獄でしかないのだということを。私には、もう何もない。すべて、なくなってしまった。最後に、来てくれて本当にありがとう……そして、さようなら」


 ナターシャはそう言うと、歓喜に満ちた表情を浮かべたまま軽やかに塔から飛び降りた。

 シャリフ皇太子やニコラたちは、その一部始終を、突然のことに戸惑い固まりながら見送ることしかできなかった。


 ナターシャのいなくなった空間に、ただ静寂が流れる。


 激しく吹き荒れる外界の轟音は、塔の外側だけでなく、塔の中にいたるまであらゆる音をかき消しているようだった。

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