魔を退ける少女5

「五十嵐さん、もう『動いて良い』ですよ」

「……お、体が動く」


 少し掠れた声で動いていいと言われると、急に体の自由が戻ってくる。いや、元々自由に動かせていたが、動いてはいけないという意識が強く動かせなかったが正確だ。

 その動いてはいけないという意識が無くなり、代わりに動いても良いという意識が浮上してくる。

 何とも変わった感覚に首を傾げていると、ローファーの踵を鳴らしながらばらばらにされている人だったものの残骸に華奈樹が近付く。


「……ごめんなさい。痛かったでしょう、苦しかったでしょう。助けられなくて、ごめんなさい。辛いでしょう、未練が残っているでしょう。あなた達の未来を奪われることになってしまい、本当にごめんなさい」


 華奈樹は血と肉片と飛び散っている内臓を見ても平然としているが、そんなものとは無縁な生活をしている悠一は近付けず、若干離れた場所で華奈樹の背中を見守る。

 かすかに吹く風に乗って小さな懺悔の声が届く。守れなかったことに、ほぞを噛んでいるようだ。


「あなた達が、あの呪詛師に魂を奪われていなくて良かった。せめて、安らかに、安全に、あの世に行けるように導きます。……仏説摩訶般若波羅蜜多心経ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう


 ゆったりと、非常にゆったりと、聞き覚えのあるお経を両手を合わせて唱える。

 お経を唱えている華奈樹の姿は様になっていて、声をかけることはおろか、ほんの僅かな物音を立てることさえ躊躇われた。


「———菩提薩婆訶ぼじそわか般若心経はんにゃしんぎょう

「……あり……と、う」


 時間にして三分と少し、華奈樹はお経を唱えた。そのお経を唱え終えるとすぐ、死骸の側に三人の若い男女が姿を表し、悲しげな笑みを浮かべてからその姿が溶けるように消えていった。


「どうか、安らかに眠ってください。あの世と来世で、穏やかに過ごせることを祈ります」


 三人の霊の姿が消えると、華奈樹の纏う雰囲気が非常に悲しげで今にも泣きそうなものになり、お経を唱え終わった後も数十秒間手を合わせ続けていた。

 悠一も、あの三人が本当に死んでしまったのだと、華奈樹の手で成仏してあの世に行ったのだと何となく理解すると、無意識に合掌して黙祷する。


「……さて、供養も終わりましたし、被害の拡大はとりあえず食い止めることはできました。色々と聞きたいことがお互いにあるでしょうから、マンションで落ち合いましょう」


 黙祷を終えて目を開けると、華奈樹が浮かない表情でこちらを見ていた。


「え……と、そう、だな。こんな場所で色々聞くわけにもいかないし、一緒に下校すると面倒ごと起きそうだし」

「私は先に戻っています。諸々の準備が終わったらお部屋に伺いますので、それでは」


 華奈樹が近付いてきたので預けられていた鞄を返すと、少し早口で言われる。

 学年一、下手すれば学校一の美少女が自分の部屋を訪れると言い心臓が一瞬強く跳ねるが、それよりも優先すべきことがあるだろうと思い出す。


「刀崎待って」

「はい?」


 隣を通り過ぎて自宅マンションの方に向かって歩き始める華奈樹に声をかけると、足を止めて不思議そうな顔で振り向く。


「これ、やるよ。声掠れているし、咳き込んでいたから」


 鞄の中に右手を突っ込み、昨日の下校時に買うだけ買っていたパック詰めののど飴を渡す。

 結構激しく咳き込んでいたし、お経を唱える前も喉を手で押さえていたので、かなり痛んでいるのだろう。気休め程度にしかならないだろうが、今の悠一にできることはこれくらいなので渡しておく。


「別に、そこまで気にしていただかなくても」

「何もできなかったし、守られてばっかだったんだ。せめてこれくらいはさせてくれ。じゃないと俺の良心が傷付く」


 それでも本人はいいと言うが、悠一が納得しないのでほぼ押し付けるように華奈樹にのど飴を握らせる。


「五十嵐さんて、実は結構強引な方ですか?」

「さあな。けど、俺じゃなくても助けてくれた女の子が咳き込んで喉痛そうに押さえていたら、飲み物なりのど飴なりを渡したと思うぞ」

「そうでしょうか。あんな、呪い合いを見て普通に接してくれるとは到底思えませんが」


 変わっているのですねと付け加えられ、確かにそうかもしれないと頭をかく。

 あんな化け物と戦い、化け物なんかよりも高い身体能力と膂力で圧倒し、言葉一つで捻り切り、潰して、爆散させていた。

 いくらすれ違えば誰もが振り返って見つめてしまうような美しい少女だとしても、あんなものを見てしまえば同じ目で見ることなどできるはずもない。

 それなのに悠一は、普段通りにクラスメイトとして接することができているし、何なら助けられたと恩を感じている。


「返しても頑なに拒みそうですし、これ、いただきますね」

「あ、あぁ。そうしてくれ」


 細い指で封を開けて袋の中から一つ、更に小さい封をされた飴を取り出してそれを開け、小さな口の中に放り込む。


「では、改めまして、また後ほど」


 渡された飴を鞄の中にしまうと、華奈樹はぺこりと頭を下げてから踵を返し、軽やかな足取りで歩き去っていく。

 住んでいるマンションが同じで隣に住んでいることは、学校にいる誰もが知らないことだ。親友と呼べるほど仲の良い和樹ですら、そのことを知らない。

 もし同じ道を歩いているのを学校の同級生やクラスメイトに見つかれば、あらぬ誤解を招くかもしれない。女神と比喩される華奈樹の人気とそれによる影響は、想像も付かない。


 なんかとんでもないことに巻き込まれたなと長く息を吐き、酷い血の臭いがするこの場から早く立ち去りたかったため、華奈樹が歩いていった道とは違う道を使ってマンションに帰る。

 その途中で、ポケットの中に入っているスマホを取り出して110番通報した。ありのままを話したところで悪戯だと思われるため、高架付近で悲鳴が聞こえたとだけ伝えた。

 本当のことを知っているのに、言ったところで信じてもらえないと分かっているからこそ吐いた嘘に、悠一は申し訳なさで胸を締め付けられるような気がした。

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