魔を退ける少女3

 その後も、何だかんだで華奈樹自身が忙しくしていたこともあり、学校が終わるまで会話をすることは無かった。

 体育の次にあった生物の授業で小テストがあることを思い出したらしい女子生徒が、泣きそうな顔をしながら泣き付いたり、まだもうしばらく先の話ではあるが期末考査の効率的な対策とスケジュールの組み方など、様々なことを聞かれていた。


 華奈樹本人は何か話したそうに悠一の方を何度かちらちらと視線を向けていたが、大体その時には他の男子が周囲にいたこともあり、何を勘違いしたのか無駄に顔や立ち方をキメたりしていて、それを悠一がからかった。


「うー、今日はやけに寒いな……」


 放課後、昨日発生した殺人事件もあって全ての部活動は中止になり、下校時刻も繰り上げられたため、生徒達は学校に残ることなく帰路についていた。

 悠一は部活動や委員会に所属してしないいわゆる帰宅部なので、下校時刻が繰り上げになろうが部活が中止になろうが、あまり関係無かった。


「しっかし、物騒になったもんだ。学校の周りで殺人事件とか、勘弁してくれって感じだよ」


 ぶつぶつと独り言を呟きながら歩く。

 地元を離れて高校進学するに当たって、両親から提示された条件に治安が良い場所があった。

 今住んでいる空霧からぎり市は治安が良く、かつ国公立大学の進学率が非常に高い高校である都立明月あかつき学院があったため、ここを選んだ。


 事件事故はどこに行ったってあるが、空霧市は本当に治安が良く防犯意識も高い町で、犯罪率が低い。華奈樹のような人の目を引くような美少女が一人暮らししているのも、おそらく同じ理由だろう。

 なのに、一晩で事件が三件続けて発生した。もう入学して好成績を修めている以上、両親は過干渉して転校させることは無いだろうが、しばらくは心配のメールや電話が来るだろうなと苦笑を浮かべる。


 ともあれ、さっさと事件が解決してくれることを祈りながら歩くと、風に乗って微かに声らしきものが聞こえた。

 それはいつもなら聞き逃してしまうであろうほど小さなもので、しかし確かに訴えるようなものだった。


「……別に、そんな遠回りってわけじゃないからな」


 声らしきものが聞こえた方を向き、普段より五分ほど帰宅が遅くなる程度だったので、確認することを兼ねてそちらに向かう。

 ただ、何か嫌な予感がする。胸が意味も無くざわ付いている。十月も後半に差し掛かっていて気温も大分低くなって寒いのに、じっとりと嫌な汗が流れている。


 しばらく歩くと、嗅ぎ慣れない何かが鼻腔を刺激する。それは不快感を感じさせ、眉を顰める。

 真っ直ぐ歩いていると段々とその臭いが強くなっていく。

 悠一の住むマンションから時間にして、徒歩十五分強といったところか。学校からそう遠くない場所に、電車の通る高架がある。

 その周辺に着いた悠一は、酷く充満している不快な臭いに気分が悪くなる。


「来なけりゃ良かったな。気持ち悪くなってくる」


 手で口と鼻を覆いながら不快さを隠さない表情で零し、帰ろうと踵を返す。


「なんだ、随分と面白い客がいるな」


 数歩歩いたところで、思わず足を止めてしまうほど低く恐ろしいと感じる声が背後からかけられる。

 ぶわっと冷や汗と脂汗が広がり、呼吸が荒くなる。


「ふむ、実に変わっている。触発されて呼び起こされただけにしては、随分と呪力の量が多い。備わっている呪力の量が多いということか。しかしそれだけでこれほど特上な香りをさせるとは、まるで天からの祝福を受けているかのようだ。なんたる僥倖だろうか」


 ごつ、ごつ、と重い軍靴のような足音を立てながら、誰かがゆっくりと近付いてくる。

 振り返ったらいけないと分かっていながら、それでも喉を鳴らしてからゆっくりと振り返る。

 そこには、髪の色から履いている靴まで真っ黒な背の高い男が、唯一黒では無い顔と手に真っ赤な血を付着させて歩み寄っていた。


「魂を見ても、三大怨霊との繋がりは見当たらない。呪術師の家系ではないのも関わらず、この呪力。素晴らしい。それがあれば、私の目標に大きく近付ける」

「なっ、何を、言ってっ……!」


 異様な雰囲気を纏う男は、理解できない言葉を並べている。

 三大怨霊だとか呪術師の家系だとか呪力だとか、全く分からない。

 サブカルチャーは好きで漫画もゲームも人並みにやり込んでいるから、呪術師とか呪力と言う単語だけは知っている。

 もしや漫画やゲームと現実の区別が付かなくなった可哀想な人なのではと考えるが、感情が抜け落ちているとも言えるほど昏い黒目を見て、冗談でもなんでもないと本能で理解する。


「貴様の魂、貴様の呪力、我が目標たる呪術の頂点への礎とさせてもらう」


 血の付いた左手を前に伸ばし、それで悠一に触れようとしてくる。


 ———逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ!


 本能がガンガンと警告を大音量で鳴らし、頭で逃げろと何度も叫ぶが、男の背後にある人だったものの残骸を見て、体が硬直して動けない。

 自分もああなってしまうのか。ここで殺されてしまうのか。苦しく殺されるのか。そんなことばかりぐるぐると頭の中を周り、ただ体を震わせて歯をガチガチと鳴らす。


「『吹っ飛べ』!」


 あと少しで男の手が悠一の顔に触れようとした瞬間、聞き覚えのある清涼感ある声が鼓膜を打つ。

 その直後、正面に立っていた男が突然後方に向かって凄まじい勢いで吹っ飛んでいき、高架に激突する。


「ようやく、尻尾を出しましたね。呪詛師、狂谷敷阿頼耶くるやしきあらや


 こつ、とローファーの踵を鳴らしながら前に出た小柄な少女、華奈樹が鋭い目つきで吹っ飛んだ男を睨んでいる。

 隣を通り過ぎる時ちらりと彼女の顔を見たら、両の目に赤い三つ巴紋が浮かんでいつもは焦げ茶の虹彩が澄んだ海や空のように美しい青色になっていた。


「……よもや、この身に呪言を受ける日が来ようとは」


 かなり勢いよく飛ばされて、人の体から鳴るようなものではない凄まじい音が聞こえていたのだが、まるで何事もなかったかのようにゆったりと立ち上がる、阿頼耶と呼ばれた男。

 一応、かなりダメージが入っているようだ。首は折れているかのようにだらりと曲がっているし、胴体も変に歪に曲がっている。右足は根本から骨が折れているのか、力なく垂れ下がっている。

 他にもいくつか内臓にダメージが入っているのか口からどろりとした赤黒い血を流しているが、そんな重傷を負った当人はまるで気にしていない。


「今ので仕留めるつもりでいたんですけど、やはりそう上手くいかないのですね」

「この程度でくたばるようであれば、私は呪術の頂点になどなれやしない。貴様とて、私がどのような呪いを使うのか知っているだろう、刀崎家の娘よ」

魂奪呪法こんだつじゅほう。あなたが最強に至るために編み出した呪術で、禁呪に認定され封印指定を受けた魂を弄ぶ呪術、ですね。私の呪言で倒れないということは、蓄積している魂を一つ犠牲にしましたね」

「その通りだ。噂通り聡明だな。敵同士でなければ、呪術について語らうこともできただろう」

「呪術師として頂点を目指す道から外れ呪詛師になったあなたなんかと、語り合うつもりなどありません」


 華奈樹は阿頼耶と普通に、とは言い難いが会話をする。悠一は、その会話の内容を全く理解できない。

 呪詛師だとか呪言だとか呪術だとか魂奪呪法だとか、何を入っているのか分からない。

 もしこれがなんてことのない日常の中での会話だったら、不吉なものではあるが健全な男子高校生として心躍るものだったかもしれない。


 だがこれは、非現実的な現実だ。華奈樹が吹っ飛べと口にしたら阿頼耶は実際に吹っ飛んだし、普通の人間なら即死していそうな重傷を負った阿頼耶は何事も無かったように立ち上がっているし、そこからゴキゴキと嫌な音を立てて体を治している。

 昨日の夜のものなんかとは比べ物にならなほど、頭が混乱している。


「と、刀、崎。あ、あれ、いった、い」

「……五十嵐さんは少し『落ち着いて』ください」


 混乱しすぎて途切れ途切れで話すと、華奈樹が呆れたように息を軽く吐いてから、落ち着けと言う。

 そう言われて落ち着けたら苦労しないと言いたかったが、その言葉だけで混乱が嘘のように無くなり、逆に不気味に感じた。


「本来呪言は、下手に使用すれば反動で喉が潰れるというが、貴様は例外のようだな。それを可能にしているのは、刀崎の、いや、始原の退魔家の十六夜の系譜でありながら、膨大な呪力を生まれ持った故か、それともその天与の瞳を持つが故か。どちらにせよ面白い。そこの小僧共々、礎となってもらう」

「五十嵐さん、鞄持っていてください。そしてそこから『動かないで』ください」

「え、えっ!?」


 阿頼耶がゆるりと両腕を上げると同時に、華奈樹が右肩に下げていた学生鞄を悠一に投げ渡してくる。

 両者の間に流れる雰囲気はまさに一触即発。ぴんと張り詰めた空気を肌で感じ、投げ渡された鞄を抱えて体が硬直する。

 何がどうなっているのだと混乱する悠一を差し置いて、華奈樹と阿頼耶は戦闘態勢に入った。

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