第十八章 虚なる者の行進
ガルディノ領内、かつて女神ラクシャラの神殿山頂に鎮座するその山が、夕闇の中、突然鳴動を始めた。麓の村の者たちはその異音に、闇の中浮かび上がる山の姿を見上げた。
突然に雷が轟くような激しい音と共に山頂が神殿ごと弾け飛んだ。
目を疑うその光景に人々は呆然とした後、かつて山頂を形作っていた大岩の塊が麓まで飛んでくるのに、悲鳴を上げて逃げ始めた。山頂から降り注いだ岩は、人々の暮らす家を容赦なくおし潰し、山腹から流れ出た土砂は麓の牧草地を押し流し、逃げ惑う家畜や人々を呑み込んだ。
難を逃れた多くの人が、かつて女神ラクシャラの聖地とされていた山がいびつに崩れ落ちたその姿を呆然と振りあおぐ。
そして、彼らの頭の中に不気味な声が響き渡る。
『其ハ誰ゾ……我ハ誰ゾ……』
顔を泥だらけにした女性が耐えきれないように悲鳴を上げ、頭を抱えて膝からくずれる。潰れた家から逃げ出し、途方に暮れて立ち尽くす母の胸に抱かれる赤子が、火が点いたように泣き始めた。
『我ハ誰ゾ……カツテ我ダッタ者……』
崩れた山腹から這い上がる、赤黒い巨大な蛇のような影を見た者は、夕闇に紛れた幻だと自分に言い聞かせた。
『ソコニイルノカ……何故ハナレタ……何故我デナクナッタ……』
鎌首をもたげた影が夕陽の沈む西の方角へ向かう。
『カエセ……カエセ、カエセカエセ……カエセカエセカエセカエセ、カエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセ‼」
金切り声のようなその声に、麓の村人全員が頭を抱えてうずくまった。
そして、西の方角へ──〈魔族領〉へ向かって、その影はうぞうぞと地虫や蛇のように這いずりながら、しかし馬でも追いつけぬほどの速さで進み始めた。
うずくまる人々の頭の中に、底知れぬ執念の満ちた言葉が残された。
『モウ一度、其ハ我トナレ……!」
**
〈魔族領〉である大陸西部の半島の根元。
両側から断崖が迫る陸橋の上にかつてカール・アスタルテにより建てられた、〈魔族領〉と〈人界領〉の境界を守護する古城。
〈人界領〉の影響の防波堤であるその城の守備隊長、蜥蜴の獣人種であるノートルクアは部下からの報告に顔を引き締めた。
「……〈人界領〉から何かが来る?」
見張り塔の担当であった〈
「なんだその曖昧な報告は。何かが来るというのなら、その何かの正体を見極めるのが見張りの任務だろう」
「それは、おっしゃる通り……なのですが」
「……分かった。私が直接、この目で確かめる」
城壁の上にノートルクアが駆け上がると、断崖からの風が強く吹いていた。
〈小鬼〉の青年から渡された遠眼鏡を目に当て、古城から東の方角──〈人界領〉へ向ける。すると確かに、東の茫漠とした荒野を何かが猛然と接近してくる砂煙が見えた。
「なんだあれは……」
距離感が掴めず、遠眼鏡を外して改めて東の方角へノートルクアは目を凝らした。
人間の軍勢──であれば、あんな風にはならない。巨大な魔獣か何かだろうか。
とにかく──
「東の城壁へ兵を集めろ。あれが何であれ、ここで食い止めるのが我らの任務だ」
ノートルクアは甲冑を鳴らしながら部下へ命じると、自らは城壁に留まり、東の地平線から刻一刻と近づいてくる、その影を真っ向から睨み据えた。
〇
日が沈むと一気に見通しが悪くなり、接近してくる影を視認できなくなった。
「かがり火を焚け。断崖の下は一年を通じて常に荒れ狂う〈船潰しの海〉だ。相手が何であろうと、〈魔族領〉に侵入するならここを通るよりほかない」
ノートルクアは部下の獣人種の男たちが運んできた、極太の投げ槍を傍らに置きながら、居並ぶ兵たちを顧みた。
兵の動揺が気懸かりだった。普段から徒党を組んだ野盗や、大陸の荒々しい〈亜人〉たち、魔獣の群れを追い返してはいるが、今回はそれとはどうも違う。
(結局の所、私たちはジャンヌ様の露払いでしかない……などと考えているつもりはないのだが、やはりな……)
自分たちで抑えられるか分からない強大な相手に腰を据えて戦えるだろうか、この十年、大きな争いもなく過ごしてきた者たちが。
(いや、相手が何であれ……私は己の責務を全うするのみ)
かがり火の焚かれた城壁から、改めて東の月明かりの差さない暗い闇にノートルクアは向き直った。
闇の向こう、姿を捉えることはできないが、次第に巨大な物が地面を這いずり、地面のえぐれる音が近づいてきていた。
「矢をつがえ……構え……まだだ、ぎりぎりまで引きつけろ」
腰の鞘から大剣を抜いてノートルクアはそれを掲げる。かがり火の光を受けて鈍く輝くその切っ先に、配下の兵全員が意識を向けているのを確かめ、ノートルクア自身も闇の向こうに蠢く何者かの気配に注意を研ぎ澄ませた。
そして──闇の向こうから這いずり接近してくる何か巨大な物の気配に向けて、ノートルクアは大剣の切っ先を向けた。
「一斉射!放て!」
ノートルクアの指揮に全員が忠実に従った。
ノートルクア自身も傍らに置かれてあった柱ほどもある投げ槍を片手に持ち上げ、渾身の力を込めて、闇から這い出してきたその巨大な影に投擲した。
地虫や蛇を思わせる、赤黒い巨大な生き物だ。
かがり火の光を受けても輪郭が判然としない。不定形に揺らめいている。
それが、こちらの攻撃を受けて一瞬、ひるむように身をよじった。
「……っ!」
だが次の瞬間、ノートルクアは眉間の辺りに刺すような痛みを覚えた。
『其ハ誰ゾ……我ハ誰ゾ……』
「なんだ、この声は……っ!?」
思わず手を当てて呻くと、周りの部下の兵たちも自分と同様の状態で頭を抱えていた。なんとか彼らを立ち直らせようと、叱咤の声を放とうとした途端、足元の城壁が激しく揺れた。
振り返ると、あの地虫か蛇のような影の魔獣が城壁に取り付いていた。
ノートルクアはなんとかそれを斬り払って撃退しようと大剣を手に取ったが、次の瞬間、足元から轟音を立てて城壁が崩れ落ちていった。
〇
「……隊長!隊長っ!ご無事、ですかっ!?」
部下の兵の声に、ノートルクアは意識を取り戻し、咳き込みながら体を起こした。
「……げほっ、げほ。……酷い、有り様だな」
城壁の崩壊に巻き込まれ、甲冑が壊れているのが分かる。全身も砂埃に覆われ、乾き切った口の中にはざらざらとした感触でみちていた。
だが、自身の状態などささいな問題だった。
膝を突き、ゆっくりと立ち上がると、完全に破られた城壁と、散々に蹂躙された城内の惨状が目に入った。
「……足止めにもならなかったか……」
反対側の城壁も破られ、もう既にあの正体不明の侵入者の影も見えない。
どうにか城壁の機能だけでも復旧しようと、崩れた石を積み上げる部下たちの姿に気を失っていた自分の情けなさが際立ち、ノートルクアは歯噛みする。
横から部下が、ノートルクアの顔を覗き込んだ。
「奴は完全に〈魔族領〉に侵入しました。ジャンヌ様への知らせは……」
「いや、こうなった以上、ジャンヌ様は既に異常を察知しておられるだろう」
ノートルクアは壊れた甲冑の一部を放り投げ、残った鎧の一部を胸に当て、革紐で締め直す。
「あるいは、アレの正体が何であるかも、既に知っておられるやも」
「なら、我々は城の復旧に専念を……」
「いや、今、迅速に動ける者たちはすぐに私の下に集めろ」
ノートルクアは埃だらけの唾をぺっと地面に吐き捨て、傍に落ちていた自分の大剣を改めて腰に差した。
「城壁の復旧と怪我人の手当ては残りの者を回せ。私はあの影を追う」
「しかし……」
怖気づいた様子でうつむく部下に、ノートルクアはきつく拳を握り締めた。
「我らが行ってもジャンヌ様の足手まといになるだけ、などと言うなよ」
ノートルクアは西の、破られた城壁の向こうを見据えて闘志を込めて呟いた。
「力及ばずとも我らの武はジャンヌ様と共にある。それを示すことこそ、我々の忠義だ」
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