第十七章 儀式
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夕闇の迫る中、密やかに神殿につけた馬車から現ガルディノ領主であるロクト・ガルディノとその妹ルクシア・ガルディノが連れ立って降りた。
「お前たちはここまででいい。神殿の中には絶対、俺たち以外の者を通すな」
ロクトが神殿の周囲を固める従者たちに厳命する。
その命に従った者たちは忠実な彼の配下ではあったが、その声がかすかに震えているのに気付いた者は誰もいなかった。
〇
「……本当にいいのか、ルクシア?俺たちは、何も間違ってはいないか?」
部屋の四隅に焚かれたかがり火に浮かびあがる壁画を見ながら、ロクトは落ち着かない様子で妹へ問いかけた。
「お兄様、心配しないで。これは女神ラクシャラを本来の姿に戻す為の儀式なのだから」
巫女と同じ貫頭衣に着替え、ルクシアは兄へ穏やかに微笑みかける。
「豊穣の女神などと都合のいいように歪められたラクシャラ様を解放する儀式なの。二人で偶然見つけた、昔の書物に描かれていたようにラクシャラ様を本来あるべき姿に戻してさしあげるのよ」
「だが、だが……本来のラクシャラというのは……」
「そう、確固たる自我を持たない、ただ強大な力を持つだけの存在……」
軽やかに揺れる袖の上から兄に触れて、ルクシアはその頬をなでる。
「だからこそ、私たちが与えて差しあげるのよ。新たなガルディノの猛き戦神としてのお姿を、ラクシャラ様に、ね」
そう言うなり、ルクシアは神殿の祭壇に供物を並べ、紋様の描かれた床の上で舞を始めた。
〇
妹が一心不乱に舞い続ける姿を、ロクトは呆然と見詰めていた。
これは、自分たち兄妹が長年待ち望んだもののはずだ。
幼い頃、ロクトは大陸西方の小国に過ぎないガルディノを継ぐ者として理想に燃えていた。
ガルディノをもっと大きく、豊かな国に。
臣下や民の期待を感じたからこそ、己の研鑽に励み、統治を学ぼうとした。
だがしかし。
『余計な事はするな。急激な変化や改革は、大陸中央からも〈魔族領〉からも睨まれる』
父に真っ先に言われたのが、それだった。
自分の意欲は、提案は、志は全て否定された。
『我々は民が、今日と同じ明日が変わらず続いていくと、そう信じさせるだけでいいのだ。それでさえ、一筋縄ではいかない難事なのだぞ』
納得がいかなかった。鬱憤だけが溜まった。
才気煥発と言われた少年は、陰にこもった鬱屈した青年になった。
ロクト自身でさえ、自分はそのまま平凡な統治者になるのだろうと思った。
だが──そんな灰色の未来を覆すように、美しい妹、ルクシアが生まれた。
王宮で美しさが評判となった妹だったが、接する時間の多かったロクトは妹の才を見抜くことができた。彼女は、おそらくガルディノが建国されて以来の傑物だ。
この子の──類まれなこの才も、ガルディノの悪弊に埋もれていくのか。
そう考えるとたまらなかった。なにか方法はないかと、書物を漁った。
そして──二人で見つけたのだ。
変化を拒むガルディノを、根底から覆す方法を。
〇
物思いにふけっていたロクトは、いつしか神殿の内の空気が変化しているのに気付いた。かがり火の明かりが激しく揺れて、暗闇が足元に忍び寄ってくる。
壁画がおどろおどろしく歪んで見える。異変に気が付き、祭壇を振り向くと思わず悲鳴を上げそうになって口元を押さえた。
先程妹が供物を捧げた祭壇の上──そこに赤黒い、とぐろを巻く蛇のような影が顕れていた。
『其ハ誰ゾ……』
頭の中でわんわんと響く、不気味な声。……これが、女神ラクシャラ──
──いや、女神ラクシャラの仮面を被ってきた存在。
「女神、ラクシャラ……」
額に大粒の汗を浮かべたルクシアが唖然として祭壇の上の影を見詰める。
だが、すぐに我に返ってその影に向き直る。
「いえ違う。あなたは我々の守護者、猛き戦神ラクシャラ。それが……」
『其ハ誰ゾ……』
祭壇の上でとぐろを巻く影がぞわりと膨れ上がった。
なにかおかしい。
ロクトは反射的に身構えていた。
「わ、私はガルディノ領主の妹、ルクシア・ガルディノ……猛き戦神としてのあなたの巫女」
『……我ハ誰ゾ』
ぞわぞわと揺れながら鎌首をもたげる赤黒い影に、妹が息を呑むのが聞こえた。
「あ、あなたは私たちの守護者。あ、あなたは私……だ、だから……」
『其ハ我ナリ……ナレバ……』
鎌首をもたげた影が、ぶわりと広がり妹に覆いかぶさろうとしていた。
『其ハ我ノモノ!』
影に襲われる、妹の悲鳴が聞こえる。
「ルクシア!」
ロクトは駆けていた。頭の中にはこれまで自分の行ってきた謀略が巡っていた。
そこで踏みつけ犠牲にした者たちの顔が過ぎる。自分が正しいと思い込み、排除してきた者たち。今更、泣こうがわめこうが、彼らが戻ってくるはずもない。
──ラクシャラの巫女。
あのいつでも肩身が狭いような顔をした、陰気な女。
今ここに彼女がいたらこんな結果にはならなかった。
だが、駆けている間にそんな苦い後悔も抜け落ちていた。
悲鳴を上げる妹の体を抱きかかえた時、ただ妹の身だけでも無事であるようにロクト・ガルディノは自らも知らぬ神に祈っていた。
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