第六章 二人の妥協点

 「早く戻らないと、お前の領土が掠め取られるぞ」


 ジャンヌ様が漆黒の外套をぱっと翻らせると共に、元のドレス姿に戻り、煩悶を繰り返しているタルレス様を残して城壁へと戻ってくる。


 「ぐおおおっ!ぐうっ、おおおおおおおうっ‼」

 にっちもさっちもいかなくなった雄牛のように頭を抱えるタルレス様を冷ややかに振り返った後、ジャンヌ様は無情に口を開く。

 「あと、お前が迷惑をかけた分なんだから、えぐれまくった地面を戻しておけ。あと、攻城機もちゃんと片付けろよ」

 「ぐっ、おおう!おおっ!今の俺にそんな暇があるとでも……」

 「ここまで連れて来たご自慢の工兵たちにやらせればいいだろ。ほら、はやいとこ帰った帰った」

 それ以上はタルレス様に取り合わず、ジャンヌ様は片手で犬でも追い払うようなぞんざいな仕草で、タルレス様を追い払うのでした。


 「はーやれやれ、馬鹿の相手をしたら汗をかいた。ゲルデ、浴場に湯を張っておいてくれ」

 ジャンヌ様が肩を回しながら戻ってくるのを、ゲルデさんが恭しく出迎える。

 もちろん、私も、本当に彼女が無事か確かめるのに近づく。


 「ジャンヌ様、お怪我は……」

 「見ての通りだ。お前が心配する必要はない」

 そう言って、ジャンヌ様はさっさと足早に、未だタルレス様の煩悶の唸りが響き渡る城門から姿を消した。


 〇


 要らぬ心配ではないか、という自分自身のためらう声が聞こえる。


 でも、ここまで来て後戻りもできない。

 私は湯着の前を会わせて、真っ白な湯気の立つ浴場へと足を踏み入れた。


 豪奢な彫刻から、惜しげもなく湯が流れ出して、立っているだけでじわっと汗の滲むような湯気が浴室を満たしている。


 辺りを見渡すと、お湯の張った湯船の傍でうつぶせにねそべったジャンヌ様を見つけた。


 「ジャンヌ様」

 私が声をかけると、ジャンヌ様が電撃を浴びたように起き上がり、湯気の奥からしなやかな裸身を晒して近づいてきた。

 「おいおい。こんな所に何しに来た?ゲルデの奴は……」

 「ゲルデさんには、予めことわっておきました」

 「はあ?何言って……」

 「これは、私なりに……客である私からの、主であるジャンヌ様への心遣いでやることです」


 上目遣いにジャンヌ様を見上げると、項の上で束ねた髪から雫をしたたらせながら、呆気にとられた様子で目を瞬いていた。

 しかし、ふっと諦めたようにかぶりを振る。

 「分かったよ。その心遣い、むげにするのも礼を失するんだろうな」


 湯船の傍の石造りのベンチの上に寝そべったジャンヌ様の手足を、丁寧にもみほぐしていく。


 「……やっぱり、怪我をされていたんですね」

 彼女の剥き出しの背中には、大小の青痣が痛々しく浮かび上がっていた。

 抜けるような白い肌に容赦なくつけられた傷に、私は顔をしかめる。


 「放っておけば治る。当分、タルレスの奴もちょっかいをかけてはこないだろうし、傷を癒す時間は十分にある」

 「そういう問題では……」


 私が不服そうに呟くと、ジャンヌ様がうつぶせのままちらりとこちらを見上げた。

 「人間の戦とは随分様子が違うから戸惑ったろうが……あれが〈魔族領〉の戦だ。お互い、そう簡単には死なないし、そうこうしている間に攻め入った側に別の魔族が攻め入って、慌てて自分の領土を守るために戻らざるを得なくなる」


 ジャンヌ様は顎の下で組んだ腕に頭をのせて、長い息を吐く。

 「……茶番なんだよ、結局。タルレスの奴だって、口ではああ言っているが本気で私と殺し合いをしたり、領土を手に入れたいわけじゃないだろう。……適当に歯ごたえがあって、挑みがいのある相手だと、そう思われているだけだ」

 「そんな……たったそれだけの事で、戦をしかけてくるなんて……」


 ジャンヌ様の背中についた傷を避けて、強張った脇腹の筋をほぐす。

 そうして身を屈めていると、不意にジャンヌ様がぐるりと体を動かした。

 不意にジャンヌ様の剥き出しの胸や引き締まった腹部が目の前にきて、私ははっと息を呑んで硬直する。


 おそるおそる顔を上げると、ジャンヌ様がしてやったりとばかりに笑っていた。

 「……真面目だな、お前は」

 「えっと、その……」

 「もうちょっと、肩身が狭いと感じるようなことがなければ、きっとラクシャラの巫女の務めだってどっしりと構えてやれただろうにな」


 ジャンヌ様の言葉に、私は言葉を失って俯く。

 それを見て、ジャンヌ様はそっと私の手を取り、湯着に手をかけた。

 「勘違いするな。お前のこと、傷つけたいわけじゃないんだ」

 そう私の耳元で囁くと、ジャンヌ様は私の湯着を脱がして二人で湯船に浸かった。


 湯に浸かっても、ジャンヌ様は私の手を掴んだまま放さない。

 間近で向き合うしかなくて、おそるおそる顔を上げると、ジャンヌ様はどこまでも静かに私を見ていた。


 「私の父親もそうだった。〈魔族領〉の今のあり方にどうしても馴染めなかった」

 「ジャンヌ様の御父上、ですか?」

 「そうだ。異種族同士の戦に明け暮れた……本当の戦というものを知っていた世代だ。彼にとっては、今の〈魔族領〉の戦なんて、子供のままごと遊びを見ているようなものだったろうな」


 ジャンヌ様はふっと、自分の父親を憐れむようなさびしげな笑みを浮かべる。

 「戦乱が終わって、魔族は魔族同士で睨み合い、牽制し合う為に〈魔族領〉へ封じ込められた。〈人界領〉への干渉は厳しく制限されて……結局、魔族のやる事は〈魔族領〉の中で『領主ごっこ』をやるだけになってしまった」

 自嘲の苦い笑みを、ジャンヌ様は頬に深く刻んだ。


 「私たちは、ただそこにいるだけ、を求められている。何かを変化させることも、何かを発展させることもなく、ただ、そこにあるだけを」


 そうして、ジャンヌ様は改めて私の瞳を覗き込む。

 「私の父親は、耐えられなかった。ただそこにあることに倦み疲れた。魔族の長い生を無為に費やすことに、彼自身が耐えられなかったんだ」

 「ジャンヌ様……」

 「こういう事は、人間も魔族も、どうもうまくいかないもんだな」


 深々と息を吐いて、ジャンヌ様はざばりと湯船から立ち上がった。

 「まあ、つまり……何が言いたいかというと、肩の力を抜け、ってことだ」

 ジャンヌ様は脇にあった清潔な布を手に取り、肌の上の汗と湯を拭っていく。

 「〈魔族領〉は変わらない、変わりようがない。もし万が一にも何か変わったとしても、それは〈魔族領〉の中だけに留まる変化だろう。そういう仕組みなんだ」


 そして、無造作にベンチの上に腰かける。

 「だから……ここにいる間はラクシャラも無理に自分を変える必要はない。私の傍にいる限りは、ただ自分の望みのまま自分らしく振る舞えばいい」

 「私らしく、ですか……」


 巫女として、ただそこにあることだけを求められた私──

 魔族として、ただそこにあることだけを求められるジャンヌ様──


 そこにお互いの妥協点を見出して、共に過ごそう。


 ジャンヌ様はどうやら、そのように私を諭しているらしかった。


 「……今言っておくことはそれだけだ」

 そう言い残し、ジャンヌ様は風呂場から離れていく。


 私の望みのまま──私らしく──


 「あの……」

 私は咄嗟に湯船から立ち上がり、ジャンヌ様の手を掴んでいた。

 

 「私……今はジャンヌ様のお役に立ちたいです」

 こちらを振り返り、目を大きく見開いたジャンヌ様が私を見る。

 私は彼女の端整な顔を見ていられずに、俯きながら、それでも訴える。


 「傷の手当てを……させてください。一緒の部屋で、ジャンヌ様さえよければそれで、今朝みたいに一緒に、寝起きして……それでいいですから」

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