第四章 ゲルデの話
「そういうわけで、〈魔族領〉における領土の概念は単純だ」
ジャンヌ様はそう言って、長机の上の地図へ視線を戻した。
「そこに居を構える魔族の魔力が及ぶ範囲。つまり、私の魔力の届く範囲がそのまま我がアスタルテ家の領土だ」
そう言ってジャンヌ様が示したのは〈魔族領〉のある半島の付け根の一角をくるりと指で囲ってみせた。
「ここに住まう者達は多かれ少なかれ私の魔力の影響を受ける。特に魔力の影響を受けやすい種族は土地ごとにかなり様子も違うはずだ」
〈
「こいつを見ていれば分かると思うがな……」
「そんな事、知りもしませんでした」
私は神殿にこもりきりだったこれまでの生活を恥じ入って呟いた。
「私なりに、神殿の外を見て世の中のことを知ろうとしてたけど、でもそれもガルディノのほんのわずかな土地のことで……」
「そいつが、お前の役目だったんだ」
そんな私を、特に励ましたり慰めるような口調でなくジャンヌ様が言う。
「ただそこにある事が意味のある存在だって、この世界にはたくさんある。……私だって似たようなもんだ」
そう言ってジャンヌ様はふうと一つため息をついた。
「ま……今、説明してやれるのはこの程度だろうな、今、一度に説明しても呑み込みきれんだろう」
そうして、ジャンヌ様は──この土地の主はゲルデさんを振り返った。
「おい、客室、用意してあるだろ。案内してやってくれ」
〇
確かに私の頭の中は、これまで起きた事、聞かされた話でいっぱいだった。
一度、気を落ち着けて感情を整理する時間が必要だ。
あてがわれた部屋に腰を落ち着け、我が身の状況を顧みる。
私は、ガルディノに隣り合う〈魔族領〉の領主、ジャンヌ様に囚われた。
囚われた──といっても、ジャンヌ様に私を害する意志はなさそうだ。
むしろ、ガルディノ領から、悪しき古の信仰の象徴『巫女ラクシャラ』として追放され、秘密裏に処分されかけた所を救われた。
無論、ジャンヌ様が私をここに留め置く意図が見えない以上、楽観もできない。
魔族は故なく恐れられているわけではない。
先の異種間戦争で、暴虐と殺戮の限りを尽くした、この大陸で最も危険な種族だ。
でも──
「ジャンヌ様……」
彼女のぶっきらぼうではあるけど、こちらを気遣うような態度に心揺れる。
彼女の眼差しを見るとどこか懐かしさが胸に込み上げる。
私はきっと、彼女を信じたい。
でも、傷ついた私の心は未だ、その勇気を取り戻せていない。
〇
「ラクシャラ様、失礼いたします」
遠慮がちなノックの音と、気づかわしげな声に、私ははっとなる。
扉を開くと、銀の茶器を手に〈小鬼〉──ジャンヌ様の執事らしいゲルデさんが控えていた。
私の腰丈しかない小柄な彼は、私を見上げると穏やかな微笑みを浮かべた。
「お茶をお持ちしました。お客様への心遣いですので、どうぞ遠慮なく」
「ジャンヌ様が手ずから栽培されたハーブを使っております」
「そうなの、ですか」
「意外にまめな方でございまして、普段はわたくしのような使用人に世話を任せておりますが、荒れ放題だった城の周りに庭園を少しずつ広げております」
そう説明されて注がれたお茶からは、爽やかな果実のような香りがする。
飲むと、頭の奥にすっと香りが抜けて、知らず強張っていた首筋がほぐれた。
「……ありがとう、少しだけ、落ち着いた気が、します」
「それはようございました」
満足げに微笑むゲルデさんの表情はどこまでも穏やかだった。
「お茶を飲んでいるだけでは手持無沙汰でございましょう?」
カップを手に持っていると、おもむろにゲルデさんが口を開く。
「お耳汚しではありますが、わたくしのお話させていただきとうございます」
「あなたの、ですか?」
「ええ。ラクシャラ様も興味をお持ちのように見受けられましたので」
「えっと、それは……その……はい……」
私がうなずくと、ゲルデさんは優しく笑う。
大陸の別の土地では、野蛮な種族と恐れられている〈小鬼〉とは思えない。
「さぞ驚かれていることでしょうね。大陸の別の土地では、わたくしの同胞はほとんど野の獣と変わらぬ野卑な存在と恐れられている」
「いえ……」
「いいのです。私もそのような同胞のことは、彼らなりの世の理で生きていると尊重はしても、理解はできませんから」
そうして、ゲルデさんは客室の窓の外へ眼を向ける。
「父親の代からアスタルテ家の所領で過ごして参りましたから、わたくしはわたくし以外の『在りよう』を知りません。アスタルテ家の魔力の影響下にあるこの土地を万一でも離れればどうなるか、そのような自分を想像できません」
「少しだけ……分かる気がします」
私はゲルデさんの言葉に俯いた。
「巫女ラクシャラでなくなった自分のこと、私もまだ何も分からないから」
「そうですね……」
俯く私を、ゲルデさんが勇気づけるように見上げた。
「わたくしは、今のわたくし自身を『悪くない』と、そう思えます」
彼の骨ばった手が、そっと私の手の上に重ねられた。
「ラクシャラ様も、そのような自分自身の『在りよう」を見つけられるよう祈っておりますよ」
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