Ø9 [over_end_over](1)
何かが振動している。
上着のポケットの中だ。
スマホのバイブレーションだろう。
振動はすぐに止んだ。
高良縊想星はデイパックを枕にして、横向きで寝ていた。
公園の茂みの中だから、少しでも身動きすると、体のどこかに枝葉が当たる。
もう明るい。
夜半どころか、空が白みはじめるまで寝つけなかったが、少しは眠ることができたようだ。
想星はデイパックから頭をずらさずに、上着のポケットからスマホを出した。
ショートメッセージが届いていた。
このスマホは姉が死んだあとで入手したものだ。
誰からも連絡が来たことはない。
想星はショートメッセージを確認してみた。
おはよう、想星。林雪定です。余計なお世話だとは思うけど、機関が想星を狙っているようです。
「……機関?」
思わず呟いてしまった。
機関とは、あの機関のことなのか。
どうして雪定が。
そもそも、雪定はどうやって想星の連絡先を突き止めたのだろう。
想星は返信しようとした。
思いとどまって、ずいぶん迷ったが、電話をかけてみることにした。
ショートメッセージの送り主に音声通話を発信すると、雪定はすぐ出た。
『もしもし、想星?』
「……もしもし。雪定……」
『ごめんね。連絡しちゃって』
「あぁ、うん……いや……」
『みっしーから、想星のこと、聞いて』
「美島くん――みっしーに?」
『すごく心配してたよ』
「……え。雪定、どこまで……みっしー、どんなこと、話してた?」
『詳しいことまでは聞いてない。彼のお父さんはああいう仕事をしてるし』
「ああいうって」
『これも、みっしーが教えてくれたわけじゃないから。みっしーはただ、お父さんの仕事の手伝いをしてたら、偶然、想星に会ったって。何か大変そうだけど、自分にはとくにできることがないし、また会えるといいんだけどって』
「……じゃ、なんで雪定は、みっしーのお父さんの仕事のこと、知ってるの?」
『ちょっとした好奇心だよ』
「もしかして……調べたってこと?」
『調べるのは、得意ってわけでもないんだけど、その気になればある程度はね』
「僕の番号も?」
『これは、ちょっと苦労したかな。でも、みっしーのお父さんがCOAと取引してることはわかってたし、そっちから色々とね』
「……待って。COAって……そんなことまで……え? 僕のことも?」
『深入りしないようにしてたんだ。想星は友だちだから。やっぱり、知らないほうがいいこともあるだろ』
「……僕は何も知らなかったよ。雪定のこと。何も。今もまだ、わからない。何一つ、知らない」
『もし想星がおれを友だちだと思ってくれてたなら、それだけでよかったんだ』
「友だちだよ。……こうなっちゃうと、友だちだなんて……かえって、迷惑かけちゃうかもしれないし、そんなふうに、思わないほうがいいんじゃないかって……」
『おれは大丈夫。だけど、想星はどうかな』
「……機関。書いてたよね。メッセージに。機関って」
『問題はそこなんだ。じつは、そっちが先だったりするんだけど』
「先……? どういう意味?」
『機関が動いてるってわかったから、想星を捜したんだ』
「……雪定は、その――知ってるんだよね。つまり、機関っていうのは……」
『うん。まあ』
「政府とか、旧財閥系とか、そっちの――」
『ろくでもない仕事をたくさんして、上がりを傘下のSがつく企業に分配して、事業収益として計上してるし、納税もしっかりしてる。ぜんぶ合わせると、そうとうな規模だね』
「……ごめん。僕はそこまで詳しくない」
『知らなくていいよ。知ったところで、いいことは一つもないし』
「そっか。え、で……動いてる? 機関が? それ、僕に関係あるの……?」
『とても関係がある』
「どんなふうに?」
『空港の事件』
「……あぁ」
『あれに関わった者を、機関は全員、消すつもりだ。火消しだよ』
「わ……かるような、わかんないような……」
『NG系は創設者のユーリン・グレイを失ったことで、その復讐も兼ねて、この国への進出を本格化させようとしてる。機関はユーリン・グレイ殺しの犯人を処分して、NG系との交渉材料にするつもりなんだと思う』
「……ううん。僕が言うのもなんだけど、相手が交渉に応じるかな……」
『実際には、自分たちが交渉の窓口だってことを示すために、まず犯人を皆殺しにしてみせるっていう感じかな。交渉に応じなければ徹底的にやるし、こっちが本気を出したらどうせ勝てないよって、威嚇する、みたいな』
「どっちにしても、僕は……機関に殺される?」
『たぶん、だけど』
「……うん」
『COAは、いざとなったら想星を機関に売ると思う』
「それは……スケープゴートとかってやつ?」
『残念ながら、組織に助けを求めても、無駄かもしれない。むしろ、想星からはあまり接触しないほうがいいかも』
「そこまで期待してないっていうか……」
『想星』
雪定はそれまで淡々としていた。急にあらたまった口調になった。
『おれが想星に連絡できたってことは、機関にも見つかってる可能がある。居場所を特定されてると考えたほうがいい。刺客はかなりの手練れだよ』
「……だから、教えてくれたんだ?」
『朝早く、悪いとは思ったんだけど、急いだほうがよさそうだったから』
「移動したほうがいいね」
『うん。行くあてはある?』
「あるよ」
想星は即答した。
嘘だった。
行くあてなど、あるわけがない。
「わざわざありがとう。助かったよ。誤解して欲しくないんだけど、僕にはもう連絡しないで。雪定にまで……友だちには、これ以上……」
『手を貸そうか』
「え?」
『友だちだから、助けたいんだ』
「……いや。ごめん。本当に、ありがとう。ちょっと……うん。急ぐよ。雪定。ありがとう。本当に……」
もう同じことしか言えそうにない。
ありがとう。
ごめん。
想星の口から出てくる言葉はその二つだけだ。
通話を終了させてスマホをポケットにしまい、デイパックを背負って茂みから出た。
洗顔や歯磨きはしているが、野宿が続いている。
清潔とは言いがたい状態なのはともかく、体のあちこちが痛む。
想星は肩や首を回しながら歩いた。
この公園は、川のような大きな池を中心に広がっている。
公園内には、複数の広場やキャンプ場、運動場、植物園まである。
まだ早朝だが、池の畔のジョギング・ウォーキングコースには人がいるだろう。
キャンプ場も、週末ではないのに、昨夜、通りかかったら、テントがそれなりに張られていた。
想星は広場からも離れている茂みの中で眠っていたので、このあたりにもひとけはない。
森というほどではないものの、ぽつぽつと木立があって、右手に丘がある。
左に向かえば池だ。
行くあてなどない。
足が止まりそうになった。
「……とりあえず、出ないと。公園から。そうだ。ここから離れて……」
想星は丘を目指した。
丘の上には展望台がある。
展望台といっても、屋根や柱が白く塗られた東屋でしかないが、あの丘を越えれば公園の出入口まですぐだ。
「組織には、今後、仕事は僕に直接、振ってくれって言ってあるのに、音沙汰なしだ。そういうことか……僕を切り捨てようとしてる。組織のことなんて、よく知らないし……姉さんに任せっきりだったから……恨むとか……なんか、な……怒りも湧いてこないし……」
丘の中腹で、独り言を言っていることに気づいた。
何かおかしい。
想星は立ち止まった。
丘の上には、展望台と名づけられた白塗りの東屋があったはずだ。
昨日、想星はその展望台から四方を見渡した。
それどころか、さっき、丘を上がりはじめるまで、展望台はそこに建っていた。
今はない。
展望台があったところに、一本の樹木がそびえ立っている。
立派な木だ。
ゆうに十メートル以上あるだろう。
白い花が上を向いて咲いている。
あの咲き方は木蓮に似ている。
似ているだけだ。
木蓮の花はたしか、赤っぽい紫色だったような気がする。
それに、あそこまで大きく育つ木ではないはずだ。
想星はまた丘を登りはじめた。
こんな木はなかった。
あそこには展望台があった。
白塗りの東屋が。
こんな木があったら覚えている。
忘れられるわけがない。
こんなに大きい木なのだ。
その樹高は、十メートルなんてものではないだろう。
幹がずいぶん太い。
枝がどこまでも広がっている。
白い花が次々と咲いている。
咲き乱れている。
刻々と枝がのびているかのようだ。
枝からは葉が生え、芽が出てきて、白い花が咲く。
想星はその木を見上げていた。
しかし、ものすごい木だ。
もはや想星が反り返っても、枝の端が見えない。
どこまでも、どこまでも、枝が続いている。
幹は一本だとして、枝はいったい何本あるのだろう。
どれだけ枝分かれしているのだろう。
風らしい風を感じないのに、無数の葉がざわざわと蠢いている。
白い花も、生き物のように震えている。
生き物か。
花も生きている。
動物ではないとしても。
植物だろうと、生きていることに変わりはない。
想星は丘を登っている。
かなり歩いているのに、丘の上に辿りつかない。
丘の上にそそり立つ幹まで、行きつくことができない。
この丘はこんなにも急だっただろうか。
だいぶ体を前傾させないと、ひっくり返ってしまいそうだ。
花びらが落ちてきた。
芽吹いては咲く一方だった花が散りはじめている。
あっという間に花吹雪の様相を呈した。
花が一斉に散っている。
花びらで前がほとんど見えない。
前どころか、足許さえよくわからない。
それでも想星は丘を登りつづけた。
これは丘なのか。
体感的には、壁だ。
登るしかない。
登らないと、落ちてしまう。
花吹雪はやがて止んだ。
ようやく視界が開けたと思って振り仰ぐと、葉が色づいていた。
紅葉している。
葉は黄色く、さらには赤く変化してゆく。
赤から茶色に変わると、ひらり、ひらりと舞い落ちてくる。
そうこうしている間も、想星は丘を登らないといけない。
降り積もった花びらはすでに腐りはじめている。
ひどくぬめる。
そこに枯れ葉が落ちる。
何しろ、巨大な木だ。
空を覆うほどの樹木なのだ。
枯れ葉の数量も尋常ではない。
ほとんど滝のようだ。
おかしいとは思っていた。
いくらなんでも、これはおかしい。
ずっと前から気づいていた。
しかし、想星はこの丘を登るしかないのだ。
枯れ葉に埋もれそうになりながら、ひたすら登るしかない。
「高良縊想星」
声がした。
丘の上に誰かいる。
幹のそばだ。
姿はわからない。
ひっきりなしに枯れ葉が降ってきて、ほとんど何も見えない。
「俺は、シノビの者にしては情け深い」
シノビ。
忍、だろうか。
「これは欠点だが、美点だとも思っている。ゆえに、教えてやろう。これから、貴様は死ぬ――」
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