Ø8 [farewell](下)
歩いた。
ひたすら歩いた。
歩いているうちに、夜が明けた。
朝になり、通勤通学の時間帯が過ぎてから、電車を乗り継いで目的地を目指した。
電車だけでは行けない場所だ。
やや大袈裟な言い方をすれば、目的地は海の向こうにある。
くちなは前もって船を調達する方法を検討していた。
船だけあっても仕方ない。
その船を動かしてもらう必要がある。
第三者が関与することで、もしかしたら相手に情報が漏れるかもしれないが、そこまで気にしていたら打つ手がなくなってしまう。
くちなは現金を用意できるだけ用意して、船を出してくれる漁師を見つけた。
漁師は七十過ぎの老人だった。
当然、くちなは事情を明かさなかったが、よほどの理由があるのだろうと察してくれたようだった。
くちなは老人が操る小さな漁船で島を目指した。
前回は、指定された港へ行くとクルーザーのような船が停泊していて、それに乗って島に渡った。
クルーザーの立派な船室よりも、漁船の上で潮風に吹かれているほうが気楽でよかった。
クルーザーには女性の接客係がいて、船の設備に関する説明を聞かされたり、何度も飲み物や食べ物をすすめられたりして、閉口した。
老人は無口だったし、くちなには話すことがなかった。
漁船は暗いうちに出発し、夜が明ける前に島の砂浜に乗り上げた。
老人がまず砂浜に下りたった。
老人が離れてから、くちなも続いた。
どうやらずっと我慢していたようで、老人は砂浜に座って煙草を吸いはじめた。
くちなが頭を下げて立ち去ろうとしたら、老人が訊いてきた。
「帰りはどうするんだ」
質問されるまで、くちなの頭の中からそのことがすっぽり抜け落ちていた。
「どうにかする」
くちながそう答えると、老人は煙草をくわえたまま白髪を短く刈った頭をさわって、首を振った。
「どうにもなんねえぞ。ここか、沖のほうか、どこかで待っててやるか」
「そこまでしてもらうのは悪い」
「なんも悪いことねえよ。たんまりもらったしな。帰りはどんくらいになる」
「わからない」
「この島、でけえ屋敷があるよな。今日中に帰るのか」
「たぶん」
「そうか。夕方までは待ってるからよ」
くちながそんなことをする必要はないと言っても、この老人が聞く耳を持つとは思えなかった。
「ありがとう」
「気いつけてな」
「きっと、そんなにはかからない」
くちなは砂浜をあとにして、森に分け入った。
この島のことは調べた。
もともとは少数の漁民などが住んでいたが、何十年も前に無人島になった。
その後、何者かが島の所有権を手に入れた。
しばらく放置されていたようだが、いつの間にか屋敷が建っていた。
前回はクルーザーが旧漁村の港に入って、そこから上陸した。
港まで自動車が迎えにきていた。
旧漁村の道は一部だけ舗装され、整備されていて、その道は丘の上の屋敷へと続いていた。
くちなは今回、島の北側に位置する旧漁村ではなく、その反対の南側の砂浜から上陸した。
島の大半は森林だった。
当然、人の手は入っていないので、林道どころか獣道すら見つけられなかった。
そうはいっても、一周四キロ程度の小さな島だ。
草木だらけの道なき道を進むくちなの行く手に、屋敷の敷地を囲む鉄柵が見えてきた。
くちなは鉄柵をよじ登って越え、敷地内に足を踏み入れた。
整えられた芝生のところどころに鉄柱が立っていて、電灯とカメラが設置されている。
カメラは音もなく動いた。
くちなをとらえている。
くちなはちらりとカメラのほうに目をやっただけで、かまわず芝生を歩いていった。
建物の正面に回って、玄関の前に立つと、ひとりでに戸が開いた。
誰かが開けたのだろう。
戸の先に、あられもない恰好をした女が立っていた。
黒いシースルーの湯帷子のようなものしか着ていない。
金髪のボブカット。
化粧はしていない。
手袋もつけていない。
靴ではなく、革草履を履いている。
寝起きなのかもしれない。
「何のつもり? 静寂」
「わからない」
くちなは、わからないのか、と尋ねたつもりだったが、あいにく抑揚をつける習慣がない。
灯ノ浦瑠鸞は眉をひそめた。
この小娘は何を言っているのか、頭がおかしくなったのではないか、とでも言いたげな仕種だった。
くちなは瑠鸞に向かって歩いた。
瑠鸞から目をそらさなかった。
くちなは瑠鸞の目を見ていた。
瑠鸞もそうだった。
瑠鸞はくちなの視線をまっすぐ受け止めた。
灯ノ浦瑠鸞のことだから、先に目を背けたら負けだと、むきになっているに違いない。
とはいうものの、くちなに過度の接近を許すべきではないと、瑠鸞は考えているはずだ。
くちなの力を、瑠鸞は知っている。
羊本くちなにふれられたら、命がある者はそれを失う。
一瞬、瑠鸞の目線が下がった。
手だ。
くちなの手を見た。
瑠鸞はくちなが素手ではないことを確認した。
そう。
寝起きの瑠鸞と違って、くちなはちゃんと手袋を嵌めている。
くちなは手袋を外すことなく、さらに歩を進めた。
瑠鸞はあとずさろうとした。
さすがに何かおかしい。
これ以上は近づかれたくない。
かといって、灯ノ浦瑠欄、焔帝ともあろう者が、怯えているようなそぶりを、くちなに見せたくもない。
瑠鸞が怖じ気づいた。
くちなにそう思われただけで、瑠鸞の自尊心はいたく傷つくだろう。
だから、思いきり跳びのくような真似は、瑠鸞にはできなかった。
代わりに瑠鸞は、眉を吊り上げ、怒気をみなぎらせた。
くちなに罵声なり何なり浴びせて、下がらせようとしたのだろう。
くちなはもちろん、下がりはしない。
瑠鸞まで二、三十センチの距離に迫った。
二十センチよりは遠く、三十センチよりは近い。
その間だ。
二十数センチ。
瑠鸞は卒倒した。
いや。
卒倒ではない。
灯ノ浦瑠欄はもう死んでいる。
後ろに重心がかかっていたせいで、瑠鸞は後方に倒れてくれた。
おかげでくちなは瑠鸞を避けなくてよかった。
死んだ瑠鸞を置き去りにして、くちなは大理石の廊下を進んだ。
硝子張りの縁側を通り抜け、角を曲がると、両側が障子だった。
左手に階段がある。
くちなは階段を上がった。
二階は洋風で、床には絨毯が敷かれ、高い天井にシャンデリアが吊されている。
くちなはドアのノブを掴んだ。
施錠されていなかった。
ドアは開いた。
部屋の中は暗かった。
分厚カーテンで窓がふさがれている。
くちなはドアを閉めてスイッチを探した。
スイッチを入れると、明かりがついた。
この部屋には檻が設置されている。
大きな檻だ。
檻の中には布団が敷かれ、白い便器が置いてある。
そして、人が。
六歳かそこらの、痩せこけた少女がいるはずだった。
時間帯からして、それに、部屋の中は暗かったから、まだ眠っているかもしれない。
寝ていたとしてもおかしくはない。
違った。
少女ではない。
カリミと呼ばれていた少女ではなく、布団のそばに、男が立っていた。
ピンストライプのスーツを着て、赤いネクタイを締めている。
生え際が後退していて、額が広い。
小柄な男だ。
貧相な体格と言ってもいいだろう。
衣類は上等なものなのだろうが、見栄えはしない。
「静寂」
男が歩いてくる。
くちなも檻に向かって歩きだした。
男は鉄格子の手前で足を止めた。
「静寂」
男はもう一度、くちなをその名で呼んだ。
くちなは鉄格子のしがみついた。
鉄格子の向こうに、あの男がいる。
「大御影宮古彦……!」
鉄格子の間に指を差しこんで、少しでもあの男に近づけようとする。
檻の鉄格子を挟んだ羊本くちなと大御影宮古彦との距離は、三十センチ足らずだった。
あと数センチ、一センチか二センチ縮めるためには、鉄格子の間に指を差しこんで、あの男のほうへ伸ばすだけでいい。
くちなはそうしながら、気づいた。
その男には影があった。
男が鉄格子に倒れかかってきた。
男ではなかった。
それは、白い貫頭衣のような服しか着ていない、おかっぱ頭の痩せた少女だった。
「……え――」
わからない。
くちなにはわからなかった。
自分が何をしたのか。
どうしてあの少女が鉄格子にぶつかって、そのまま崩れ落ちるように倒れたのか。
少女は生きていない。
死んでいる。
そのことはなんとか理解した。
ただ眠っているだけとか、気絶しただけとか、そんなことは考えなかった。
「カリミ……」
少女は死んでいる。
たった今、死んだのだ。
少女はどうして死んでしまったのか。
当然、くちなだ。
くちながやった。
くちなの力で、少女は命を失ったのだ。
くちなが少女を殺した。
それは間違いない。
そんなつもりはなかった。
少女を殺す理由が、くちなにはない。
動機がない。
あるわけがない。
逆だ。
くちなは少女を救いたかった。
この檻から出そうとした。
そのために、くちなはこの島にやってきた。
この屋敷に。
カリミ。
この少女は、かつての羊本くちなだった。
くちなもカリミと同じ境遇に置かれていた。
檻に閉じこめられ、飼育されていた。
そして、調教された。
言われるがまま人を殺すように、躾けられた。
灯ノ浦瑠鸞も、きっと似たようなものだろう。
あの男はそうやって何人もの少女を自分好みに育ててきた。
自分の手を汚すことなく、彼女たちに人を殺させ、利益をえてきた。
カリミにはそうなって欲しくなかった。
あの男の操り人形になってはならない。
カリミを救いたかった。
殺したかったわけではない。
あたりまえだ。
檻の中にいたのは、あの男だった。
くちなはそう思った。
見間違えだったのだろうか。
あの男と、少女を、見間違える。
そんなことがありえるのか。
檻の中の男には影がなかった。
あの男には影がない。
あの男ではなかったのだ。
よく似た別人だった、とでもいうのか。
だとしたら、どうして少女が檻の中で死んでいるのか。
くちなはもう、おおよそ答えを見いだしていた。
認めたくないだけなのだ。
あの男が檻に閉じこめて飼育していた。
カリミはただの少女ではなかった。
何か特殊な力を持っていたに違いない。
檻の中にあの男と瓜二つの何者かがいた。
ただし、影があった。
死んだら、その何者かはカリミだった。
最初からカリミだったのだ。
カリミが何らかの方法であの男に化けていたか、化けているかのように、くちなに錯覚させた。
そうとは知らず、くちなはカリミを殺してしまった。
くちなは部屋を出た。
階段を下りて、両側が障子の廊下を歩いた。
角を曲がると、硝子張りの縁側が続いていた。
縁側には、さっきはなかった安楽椅子が置かれていて、あの男が腰かけていた。
あの男は硝子越しに庭を眺めている。
腹のところで組み合わせた両手の指が、ときどき動いた。
「見ていたよ、静寂」
あの男はくちなのほうを見ずに言った。
「まさか、あの瑠鸞が手も足も出ないとはね。どうやってカリミを殺したんだい。不思議だな。でも、すばらしいね」
「……あなたが」
くちなは立っているのがやっとだった。
体に力が入らない。
座りこんでしまいたかった。
意識して瞼を開けていないと、目が閉じてしまう。
「あなたが、カリミに、あんなことを」
「むろん、私が命じたんだよ」
あの男は安楽椅子の肘掛けに肘をついて、両手を組む位置をだいぶ高くした。
目を細め、微笑んでいるようだった。
「あの子のあれは、催眠術のようなものではない、かなりめずらしいものでね。本当に形態を模写できる。よく知っているものにしか変われないし、長持ちはしないがね。訓練で持続時間は伸ばせそうだったから、期待していた。惜しかったな。もったいないことをした。静寂、一つ――」
「覚えておくといい」
くちなはあの男の口癖を奪った。
体に力が入る。
やるべきことがあるのに、へたりこんでなどいられない。
くちなは終わらせなければならないのだ。
「わたしはあなたを許さない」
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