Ø8 [farewell](上)
羊本くちなはほとんど何もしなくてよかった。
元町の商店街を歩いているくちなを尾行しているのが、刺客だということはすぐにわかった。
相手も隠し立てしようとはしていない様子だった。
くちなが振り返ると、刺客はわざと立ち止まって、隠れようともしなかった。
まるで、おまえのあとをつけているぞ、と教えているかのようだった。
刺客は男性で、身長は百七十五センチ程度、レンズが丸いサングラスをかけていて、唇がきわめて薄く、顎がややしゃくれている。
ぺったりした肩まである長い髪の毛を横分けにしており、堅気には見えない。
服装は濃いグレーのステンカラーコート、黒いシャツに、黒いスラックス、焦茶色のブーツを履いている。
かなり極端な撫で肩だ。
コートのせいでわかりづらいが、おそらくかなり脚が短い。
体形を変えるレベルの変装をしているのでなければ、そうとう特徴的な外見の持ち主だ。
彼は目立つことを厭っていない。
彼の目的は、くちなの尾行、行動観察ではない。
くちなが夜の商店街を抜けると、刺客は距離を狭めてきた。
さっきまでは十五メートル近く離れていたが、十メートル足らずまで迫っている。
山の手の高級住宅街は人通りがない。
車も走っていない。
刺客がさらに足どりを速めた。
あえてくちなに足音を聞かせている。
くちなに宣言しているのだ。
自分はこれからおまえを始末する、と。
おそらく、それが彼のやり方なのだろう。
殺し専門。
たぶん、殺しにしか興味がない。
組織に飼われて、命じられた人殺しをする。
それだけが彼の人生なのだろう。
彼が何歳なのか、くちなはもちろん知らない。
外灯ではっきりと照らされた彼の顔を見たが、サングラスをかけているせいもあって、年の頃は判然としなかった。
そう若くはない。
年寄りではないだろうが、三十歳かもしれない。
四十歳かもしれない。
五十歳かもしれない。
ひょっとしたら、六十歳かもしれない。
くちなが思うに、彼はまともな社会生活を送っていない。
きっと、殺しという仕事しかしてこなかった。
その手の人間が、年相応の見た目であることは稀だ。
老人のような青年。
子供のような目をした高齢者。
そういった人殺しを、くちなは何人も手にかけてきた。
彼は腕に自信がある。
箸で米粒を掴むより簡単に、人を殺せる。
行く手に元町の家が見えてきた。
くちなは立ち止まった。
彼は止まらない。
歩いてくる。
そのままくちなを襲うつもりのようだ。
唐突に足音が消えた。
今の今まで彼はくちなの後ろにいた。
背後からくちなに肉薄しようとしていた。
それなのに、いなくなった。
足音だけではない。
彼の気配が消え失せた。
何事かと、振り向いてしまう。
くちなが羊本くちなでなければ、とっさにそうしていたに違いない。
意識的な行動というよりは、ほぼ無意識の反応、反射だ。
しかし、くちなは羊本くちなだった。
突っ立ったままでいた。
もしかしたら、戦場やそれ以外の場所で命のやりとりをしてきた者、人を傷つけ、殺してきた者、その手の経験がある者ほど、難しいかもしれない。
この状況でただ立っていることが、くちなにはできた。
刺客が倒れかかってくる。
体で受け止めてやる気にはなれず、くちなは右方向に移動した。
刺客は一瞬前までくちながいた場所に倒れこんだ。
右手に何か嵌めている。
握りこむと、人差し指と中指の間から針のようなものが飛びだす器具だ。
それを標的に突き刺して、動きを止めるか、命を奪うかする、人殺しの道具だろう。
刺客はぴくりともしない。
当然だ。
彼はもう死んでいる。
たぶん、自分がなぜ死のうとしているのか、彼には理解できなかっただろう。
それどころか、迫りくる死、自分自身の生命の終わりを、予感することもなかったはずだ。
くちなは歩きだした。
いずれ彼は、通りがかりに発見される。
発見者は、彼が物言わぬ骸だと、すぐに悟るだろう。
あるいは、彼の同僚、仲間、そのような者がいればの話だが、彼が属している組織の誰かが、連絡がとれないことを不審に思い、彼を捜して、死体を見つけるかもしれない。
司法解剖されるにせよ、組織が調べるにせよ、彼の死因は判明しないだろう。
死体検案書に記すとしたら、心停止だ。
心臓が止まった。
それで、死んだ。
他に書きようがない。
彼は羊本くちなを殺そうとした。
ふれてはいない。
近づいた。
くちなに接近した結果、ただ心臓が停止し、死亡した。
元町の家に辿りつくと、くちなは靴を脱がずに上がって、明かりもつけずにまっすぐ地下室へと向かった。
地下室はいつもどおりだった。
羊本夫妻が並んでソファーに腰かけいた。
テーブルの上には、一冊のノートが置いてあった。
くちなは羊本夫妻の前にひざまずいた。
「お父さん。お母さん。ごめんなさい」
二人は答えない。
返事などしてくれるはずもない。
二人とも死んでいる。
生き返りはしない。
二人と過ごした日々は二度と戻らない。
くちなは立ち上がって、テーブルの上のノートを手に取ろうとした。
手袋を外して、ノートの表紙に指先を這わせたが、開くのはやめた。
くちなにそのノートを読み返す資格がないのは明らかだった。
本当は、こうして手許に置いておくことさえ、許されるものではない。
くちなは手袋をつけ直し、一度、地下室を出た。
地下室の扉は閉めなかった。
地下室を冷凍庫として機能させる装置を停止する方法は知っていた。
もともとはウォークインクローゼットだったスペースの奥に、各種コンソールがある。
くちなはそれを操作して、装置を切った。
キッチンに行って明かりをつけ、提げていた鞄からペットボトルを三つ出した。
そのうち二つの中身は液体で、もう一つは白っぽい粉だ。
くちなは調理台の上にペットボトルを並べた。
黒電話が鳴りそうな気がした。
鳴っていないのに、着信音が聞こえた。
電話は鳴らない。
鳴ってもいい。
かまわない。
くちなは電話線を引き抜いた。
ペットボトルを抱えて地下室に戻ると、体感で明確にわかるほど室温が上がっていた。
くちなはペットボトルの液体を部屋の中に撒いた。
羊本夫妻にはかからないように気をつけた。
白い粉が入っているペットボトルは、地下室の真ん中あたりに置いた。
あのノートが目に入った。
胸が苦しくなった。
この心臓も止まってしまえばいいのにと、くちなは思った。
迷ったが、ノートはそのままにしておいた。
地下室をあとにする前に、くちなはもう一度、羊本夫妻に挨拶をしようとした。
けれども、すでに別れはすませた。
そもそも、ソファーに座っている物体は、羊本夫妻ではない。
羊本夫妻だったものだ。
だとしたら、こんなことをする意味がどこにあるのだろうか。
くちなは思いとどまろうとした。
思いとどまろうとしている自分に気づいた。
ようするに、単に躊躇しているだけだ。
くちなは地下室を出て、鞄から出したマッチを擦った。
火のついたマッチを、開いた扉の向こう、室内に放ると、すぐに撒いたガソリンに引火した。
炎が回りはじめた。
くちなは早足で階段を上がった。
玄関から外に出たところで、爆発音が轟いた。
白い粉は、高性能爆薬の材料として用いられる結晶性の粉末だ。
くちなは元町の家を離れた。
一度も振り返らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます