Ø7 [alter_ego](4)


 こうなったら――と、何度、思ったことだろう。

 死んで、生き返るたびに思った。

 一回の死で進める距離はわずかだった。

 しかし、まったく進めないということはない。

 それどころか、こうなったら、と十回も思う頃には、頭まで胃袋の中に入っていた。

 意外と進めている。

 十七回目で、上半身がすっぽり胃袋の中に収まっていた。

 想星の右手が何かを掴んだ。

 それは脈打っていた。

 胃袋全体が何やら動いてはいたが、それの脈動はまた別のものだと感じた。

 直後、想星は死んだ。

 生き返っても、想星の右手はまだそれを掴んだままだった。

 悪魔の胃袋の中は過酷な環境だ。

 想星の上半身は刻々と溶けてゆく。

 急ぐべきだ。

 急げるものなら。

 急げなくても、急がないといけない。

 そうしないと――




 死んで、生き返ったと実感する間もなく、想星は脈打つ物体を力いっぱい握った。

 渾身の力をこめて握り潰した。

 生き返った瞬間でなければ、そこまで手に力が入らなかっただろう。

 想星の胸の中心あたりで、とくん……と、音が鳴るような感覚があった。

 吸い出される。

 外へ。

 あるいは、押し出されているのか。

 胃袋自体が狭まるというか収縮して、想星の上半身が収まりそうにない、そもそも、何かに何か入るような構造ではないものに変化しつつあるのか、ともあれ、自分がここには、悪魔の胃袋の中にはいられないのだということは、想星にもなんとなくわかった。

 外に排出される寸前か、その直後、想星は死んだ。




 生き返ると、想星は海中にいた。

 というか、海の底だ。

 暗くて見えないが、泥のような砂に足がついた。

 想星は一人ではなかった。

 誰かを抱きかかえていた。

 いや、抱いているわけでは決してないが、抱えるような恰好になっている。

 人間だということはわかった。

 動かない。

 生きていない。

 死体だ。

 望月葉介か。

 絶命して、あの忌々しい胃袋ではなくなった。

 元の姿に戻ったのか。

 死体を抱えたままでは浮き上がれない。

 想星は望月葉介の死体を左方向に押しやって、泳いだ。

 海面を目指して、ひたむきに手足で海水を掻いた。

 浮上して、すぐには息を吸わなかった。

 顔を上に向け、体を楽にした。

 鼻と口がちゃんと水の上に出ていることを確認してから、なるべくゆったりと呼吸をした。

 この埠頭は防波堤に守られているし、今夜は天候が荒れてもいないから、波がほとんどない。

 これならいつまでも浮いていられる。

 むろん、いつまでも浮いている必要はない。

 想星は泳いで埠頭に上がった。

 最寄りの点灯している外灯は、埠頭の出口あたりにあるものだ。

 このあたりはだいぶ暗いが、それでも、木材も、コンテナも、めちゃくちゃになっていて、倉庫にまで被害が及んでいる惨状は、おおよそ見てとれていた。

 姉の亡骸はどこかにあるのだろうか。

 悪魔の胃袋が、胃液だか胃酸だかで溶かしてしまったのか。

 たとえそれらしきものが残っているとしても、おそらく姉だと判別できる状態ではないだろう。

 埠頭の出口のほうから低いエンジン音が聞こえてきた。

 自分が素裸だということに想星が気づいたのは、そのときだった。

 どうでもよかった。

 今は、どうでもいい。

 何も考えられない。

 考えたくない。

 車がやってきた。

 シルバーのピックアップトラックだ。

 ヘッドライトが眩しかったが、想星は目をそらさなかった。

 ピックアップトラックは想星の三メートルほど手前で停車した。

 運転席と助手席に一人ずつ乗っているようだ。

 助手席のドアが開いて、誰か降りた。

 えらく慌てているような降り方だった。

 オレンジ色の作業着姿だった。

「そーちゃん……!」

 呼びかけられて、想星は完全にぽかんとしてしまった。

 ただでさえ何も考えたくない。

 ろくに物を考えられないのに、頭の中が真っ白になった。

 作業着姿の同級生はぱたぱたと駆けてきて、「あっ!」と想星を指さした。

「そーちゃんんー! すっぽんぽーん……!」

「……美島くん」

 想星はどうにかそれだけ言った。

「みっしー!」

 すぐさま作業姿の美島曜に訂正され、抗う気にもなれず、言い直した。

「みっしー……どうして」

「お仕事だよー?」

 美島は厚そうなゴム手か何かを嵌めた両手をパーにして、首を傾げてみせた。

「あのねー、えっとねー、詳しくは……あー、正しくは? お父さんの仕事の手伝いだよー」

「仕事の、手伝い……」

 そういえば、美島の父は自営業だとか。

 家業を手伝っていて、夜遅くなったりする、といったようなことを、以前、美島が話していたような覚えがある。

 運転席から、美島が着ているものと同じ、オレンジ色の作業を身にまとった男が降りてきた。

 ヘッドライトは点いたままだし、エンジンも切っていない。

 逆光で見づらいが、タオルを頭に巻いて、短くはなさそうな髪を押さえつけている。

 髭もぼうぼうだ。

 美島とは似ても似つかない。

 かなりの大男だ。

「いつもお世話になってます」

 見た目を裏切らず、声が野太い。

 大男はゴム手をつけていなかった。

 ポケットからそれを出して、両手に嵌めながら、軽く頭を下げてみせた。

「高良縊さんっすよね。MCCの美島っす。お姉さんからお話はかねがね。現場ここに弟さんがいるとは思わなかったっすけど。お姉さんはどこ行かれたんすか」

「お父さんー」

 美島が大男に駆けよって、逞しいその胸板をどしどしと叩いた。

「そーちゃん、すっぽんぽんだよー。落ちついてるばーいじゃないってばー。もー」

「……それもそうか」

 美島の父親らしい大男は、ゴム手をつけた手で髭面をごしごしとこすった。

「すいません。俺、あんま気が利かないもんで。息子にはよく叱られるんすけど。なんかあったんすよね。お姉さん、無事っすか」

「……ああ」

 想星は首を横に振った。

「いえ。無事じゃないです。姉は、死にました」

「そっすか」

 即座に応じた大男の体中を、美島がばしばしと殴った。

「お父さんんんー。そっすかじゃないよー。そーちゃんのお姉ちゃん、死んじゃったんだよー。お父さん、清掃のお仕事で、いっぱい付き合いあったんでしょー。そこは、しんみりしたりとか、わーってなったりとか、ふわぁーって泣いちゃったりとか、するところだよー。そっすかなんて、まともな人間の反応じゃないんだからねー」

「……そうか。そうだよな。ごめん、曜。俺、まともな人間じゃねえんだわ。まともな人間なら、こういう仕事してねえし。息子に手伝わせたりとか、たぶんできねえし」

「お仕事はぁー。やりたいって、ぼくが自分で言って、やってるでしょー。手伝わされてるわけじゃないしー」

「まあ、そうだけど。そっか。高良縊さんのお姉さん、死んじゃったんすね」

 大男はあたりを見回した。

 ちなみに、美島はまだ大男をぽかすか叩いている。

 大男はびくともしない。

「ひでえな。これ、うちだけじゃ無理かも。追加料金になっちゃいますけど、助っ人呼ばなきゃ終わんないっすね。お姉さん死んじゃったんなら、請求とか支払いとか、どうなるんだろうな。そっちの、その、組織に訊いたほうがいいっすかね」

「……そうですね。できたら、そうしてもらえればと。僕はそのへん、まったくタッチしてなかったんで。組織に連絡とるくらいは、できますけど」

「そーちゃんんんん……」

 美島はようやく大男を叩くのをやめ、助手席に引き返したと思ったら、作業着を持ってきた。

 予備のものらしい。

「着て、着て。そーちゃん。これ。ぼくのだけど、サイズはまー、大丈夫なはずー? ずーっとすっぽんぽんだと、風邪ひいちゃうかもだしー」

「……ありがとう」

 想星は好意に甘えることにした。

 どうしてか欠片も恥ずかしくないが、いつまでも裸でいたら見苦しいだろう。

 作業着を着ていると、大男に訊かれた。

「高良縊さんのお姉さん、どっかにいますか?」

「……はい。どこかには」

「そっすか。ついでに捜しときますね。あと何かありますかね?」

「……海に死体が」

「海の中っすか。うわ。めんどくせえな。それも追加料金っすね。ダイバー頼まなきゃなんないと思うんで」

「……お手間をとらせてしまって、申し訳ありません。お願いします」

「あ、いっすよ。ぜんぜん。仕事なんで」

 大男は片手を上げてみせると、想星に背を向け、スマホでどこかに連絡しはじめた。

 ようやく作業着を着終えた。

「そーくん」

 美島が何かを差しだしてきた。

 五百ミリリットルのペットボトルだ。

 ミネラルウォーターらしい。

「ありがとう」

 想星は受けとってキャップを外し、ペットボトルに口をつけた。

 やはり水だった。

 常温よりはいくらか冷えていて、ただの水ではあるものの、えらくうまかった。

 一気に飲み干したくなったが、百ミリリットルほどで飲むのをやめ、キャップを填め直した。

「そーくん、大丈夫かーい……?」

「うん」

 想星は嘘をついたわけではなかった。

「僕は平気だよ」

「そっかー……」

 美島は眉を寄せて、あからさまに気遣わしげだった。

「もう、平気なんだ」

 想星はそう言って、うなずいた。

「何があっても、平気だよ」

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