Ø7 [alter_ego](3)
生き返ると、まだ想星は濁流の只中にいた。
濁流。
流れている。
路地の出口に向かって、押し流されているようだ。
焼かれている感じと圧搾感が、二度目とは思えないほどきつい。
ああ、姉さん。
やばい。
姉さん。
もしかして、死んだ?
姉さんが?
嘘だろ。
姉さん――
死んで、生き返っても、依然として濁流の中だ。
だめだ。
これはだめだ。
また、死ぬ。
まだだ。
すぐには死ねない。
まだ死ぬな。
死んでしまったほうが楽だという思いが、頭をよぎるどころか、駆け巡っている。
死んでもまた生き返るのだから、同じことだ。
楽にはなれない。
姉は楽になったのか。
苦しかったはずだ。
姉もずっと苦しんでいたに違いない。
その目を見ただけで、相手は自死を選ぶ。
高良縊遠夏も、そんなおどろおどろしい邪眼を持って生まれたかったわけではないだろう。
あの力のせいで、幼い頃から人殺しをさせられ、父を、もしかしたら、世界のすべてを恨むようになった。
姉はいつから父を殺そうと考えていたのか。
姉のことだから、殺意を抱いたそのときから、すぐ実行しようとするのではなく、計画を練りはじめたはずだ。
姉は父に従順だった。
邪眼を持つ操り人形のふりをしていた。
おそらく機をうかがうためで、父を、標的のことを知るためでもあったのだろう。
やがて姉は、父が暗闇に息子たちを閉じこめ、殺しあわせ、命の総取りをさせるという、おぞましい、呪われた獄業を執り行うことを嗅ぎつけた。
その達成者を引きこみ、父を殺す。
姉の企みは成就した。
想星のもう一人の姉、高良縊リヲナ、そして、高良縊遠夏、姉自身の邪眼と引き換えに。
今にして思えば、父の抹殺が姉の終着点だったのかもしれない。
姉が人生を謳歌していたとは、想星には思えない。
姉は人間らしい暮らしをしていなかった。
両眼を失ったとはいえ、いや、人を自死に追いやる邪眼をなくしたからこそ、別の生き方を選ぶことも姉にはできたはずだ。
姉はそうしなかった。
ああ――
姉さん。
すぐに死ぬわけにはいかない。
高良縊想星は、たった一つではないとしても、限りある命を無駄遣いしないために、悪魔の胃袋の吐瀉物だか何だか、とにかくその濁流の中で、意識を失ってしまわないように、こんなことを考えている。
ただそれだけなのだ。
姉さん。
僕ですか?
僕がいたから?
僕のためですか?
僕みたいな者が、一人で生きてゆけるとはとうてい思えないから?
僕は、半分とはいえ血を分けた弟で、父殺しに荷担させてしまったから、それで、姉さんは――
死んで、生き返っても、想星はまだ濁流にのまれていたが、浅かった。
足が、というか、手がつく。
地面だ。
「――っぁああっ……!」
想星は立ち上がった。
目を開けたら、猛烈に痛んだ。
眼球が燃えているかのようだ。
ほとんど何も見えないが、ほとんどであって、まったくではない。
そうはいっても、どうも路地ではなさそうだということくらいしかわからなかった。
どこでもいい。
想星は足を動かした。
今さらのように臭くて、全身が融解しようとしているかのように、ひどく熱くて痛くてたまらない。
融解しようとしている、というか、実際、融解しつつあるのかもしれない。
濁流は吐瀉物というより胃液のたぐいで、酸とか、そういったものなのか。
何かにぶつかった。
えらく硬い物だ。
コンテナか。
そうだ。
想星はコンテナに激突した。
倉庫前の船が貨物の積み卸しをするスペースには、コンテナや木材が置かれていたはずだ。
想星はそこにいる。
コンテナや木材の配置を思いだそうとしたが、無理だった。
そもそも正確に記憶していない。
想星は手探りでコンテナを迂回して進もうとした。
走りたいのだが、体が言うことを聞いてくれない。
コンテナに手をつかないと倒れてしまいそうだ。
目を開けた直後は何か見えたような気もする。
今は何も見えない。
鼻はもちろん、耳も、うううおおおおおううう、というような怪音しか聞こえない。
この音は何だろう。
自分自身の声だろうか。
想星は叫んでいるのか。
呻いているのか。
コンテナを一周しても意味がない。
想星はコンテナから手を離した。
途端に転びそうになった。
また濁流が襲いかかってきた。
見えなくても、臭いを感じなくても、聞こえなくても、それがあの濁流だということはわかった。
濁流は一瞬で想星をまるのみにした。
死ぬ、と思ったときにはもう、意識が途絶えていた。
死んで、生き返ると、想星は何かと一緒に流されていた。
木材か。
丸太だ。
丸太だったもの、かもしれない。
濁流によって溶かされ、だいぶ細くなっている。
浅い。
深くはない。
これなら、起き上がれば、濁流から出られる。
それどころか、想星は濁流の中でうつ伏せの姿勢になっているが、顔面が地面をこすっている。
想星は腕立て伏せの要領で身を起こした。
目はつぶったままだ。
開けたら即、目が潰れてしまう。
よろめきながら、走りたいのに、やはり走れない。
生皮を剥がれて針か何か刺されているような激痛が絶え間なく、全方向から押し寄せる。
濁流の深さは膝下だ。
いいや、足首程度までだろうか。
流れはあまりなさそうだ。
押されている感じも、引き戻される感じもしない。
つんのめっては、なんとか足を前に出して体を支え、またつんのめる。
無様なことこの上ない進み方だった。
前進とはとても言えない。
第一、自分がどこを目指しているのか、想星にはわからない。
目はつぶったままだが、両手で耳のあたりをさわった。
このあたりにこびりついている吐瀉物だか胃液だかをいくらでも取り除けば、何か聞こえないか。
耳介は溶けて原型を留めていないようで、ぞっとした。
耳の穴に突っこんだ指も、溶けはじめている。
「おぉうっ……」
耳の穴をかっぽじったら、これまで感じたことのない種類の痛みを覚えた。
ひょっとして、やってはいけないことをやらかしてしまったのではないか。
耳の穴と脳が繋がって、脳みそが流れ出てくる。
想星は一瞬、そんな有様を想像した。
しかし、何かが聞こえた。
すぐに聞こえなくなったが、波の音ではなかったか。
海だ。
きっと海が近い。
すぐそこだ。
想星は思いきって跳んだ。
「しぶとい! 待て……!」
後ろで誰かが怒鳴った。
はっきりと聞こえたわけではないが、望月葉介の声だろう。
間もなく想星は着水した。
海だった。
案の定だ。
海だから、何だというのか。
冷たい海水は情け容赦がなかった。
想星は悪魔の胃袋の胃液だか胃酸だか何だかで、皮膚がぼろぼろになり、肉が露出している。
塩水は刺激が強い。
強すぎる。
想星は沈んでいるらしい。
もがいて浮上しようとしたが、思い直した。
上には望月葉介がいる。
海中にいたほうがいい。
いいのか。
どうだろう。
想星はえら呼吸ができる水生生物ではない。
海中にいたら、早晩溺死する。
溺死は苦しい。
経験があるから、間違いない。
それが何だ。
今さら死に方にこだわってどうする。
想星はようやく目を開けた。
痛いことは痛いが、胃液だか胃酸だかのせいなのか、はたまた海水のせいか、判然としない。
それに、夜の海中だ。
どうせろくに見えない。
ただ、頭上で何かが海に飛びこんだ。
それが見えたわけではないのかもしれない。
波、水流で、感じたのか。
水をかき分けて、何かが迫ってくる。
それは泳いでいるようだ。
想星に近づいてくる。
望月葉介だろう。
あの男だ。
この場合、他の可能性は排除していい。
声。
望月葉介はさっき、声を出した。
悪魔と胃袋と化した状態で、発声できるものなのか。
泳げるのだろうか。
いずれにせよ、望月葉介はもう至近距離にいる。
想星は逃げなかった。
望月葉介にしがみついた。
それは人の形をしていなかった。
ということは、胃袋か。
想星は海中で巨大な胃袋に抱きついていた。
何をどうしたらいいのか。
考えはなかった。
一つもない。
ひたすら必死にすがりついていると、噴門か幽門にあたる開口部を探りあてたので、そこに手を突っこんだ。
マグマがぐつぐつ煮えたぎっている火口に手を入れたら、こんなふうになるだろうか。
こんなふう、といっても、どうなっているのか、想星にはまるでわからない。
でも、おそらく、ずいぶんひどいことになっている。
手というか、腕全体が――
腕が溶けてなくなったのではないかと思ったら、想星は死んでいたようだ。
生き返ると、想星はまだ海中で巨大な胃袋にしがみつき、開口部に腕をぶちこんだままだった。
開口部から、胃液だか胃酸が溢れでている。
腕が、開口部に近い顔面が、溶けてゆくのがわかる。
紛うことなきリアルなのであたりまえだが、これ以上ないくらいリアルにそれを感じる。
刻一刻と溶かされてゆきながら、想星は胃袋の中へ、中へと、もう存在しないのかもしれない指をのばした。
腕だけではなく、こうなったら、全身、胃袋の中に入りこんでやる。
無理だった。
入りこむ前に、想星は死んだ。
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