Ø6 [light_my_way](5)


「ホーリーシッ」

 ユーリン・グレイが小声でそう吐き捨てた。

 歩いてゆく。

 国際線ターミナル到着ロビーは二階にある。

 一階へ下りられるエスカレーターに向かっているのか。

 さしものNG系創設者も、火に巻かれたら一巻の終わりなのかもしれない。

 普通はそうだ。

 炎に焼かれなくても、煙を大量に吸いこめば、一酸化炭素中毒であっという間に意識を失い、死に至る。

 まさにそれが焔帝、灯ノ浦瑠鸞の典型的なやり口だ。

 標的が屋内にいるとき、建物ごと燃やして殺す。

 ようは、放火魔だ。

 今回の仕事において、焔帝の放火は予定されていなかった。

 焔帝が火をつけるしかなくなる前に、くちなが標的を仕留める手筈になっていた。

 それが不可能だったら、焔帝が放火し、空港の建物ごと標的を葬るか、どさくさに紛れて、くちなが息の根を止める。

 火事だ、と誰かが叫んでいる。

 その声は意外なほど遠くない。

 そこかしこで人びとが駆け回っている。

 その大半は、ただの旅行客や、空港、航空会社のスタッフだ。

「だめ」

 くちなは立ち上がった。

 なぜ、今の今まで考えもしなかったのだろう。

 この仕事は最悪だ。

 相手が悪いだけではない。

 場所があまりにも悪すぎる。

 飛行機が平常通り運航している昼日中の空港だ。

 簡単に標的を殺せればいい。

 けれども、生やさしい相手ではないことは初めからわかっていた。

 うまくいかなければ、周りに被害が及ぶ。

 標的がこちらの手をかいくぐればかいくぐるほど、被害は広がる。

 犠牲が増える。

 どうしてくちなは何も考えず、何も思わなかったのだろう。

 くちなが標的をさっさと殺さなければ、無関係の人が傷つく。

 死んでしまう。

 もう何人かは死んでいるかもしれない。

 きっと死んでいる。

 これはそういう仕事だ。

 少し考えればわかるはずだ。

 わかっていなかったのか。

 どうかしている。

 わからないはずがないのに。

 そうだ。

 どうかしていた。

 羊本くちなは、とっくにどうかしているのだ。

 くちなが一歩目を踏みだしたときにはもう、ユーリン・グレイは振り返っていた。

「ヘイ、ガール」

 八十二歳の老女には見えないユーリン・グレイは、口許に恐るべき微笑を浮かべた。

 たったそれだけで、くちなは進めなくなった。

 老女が掌をこちらに向けたら、くちなは木っ端微塵に砕け散る。

 そんなはずがないとは思う。

 でも、そうなるに違いないとも思う。

 くちなはすっかり気圧されていた。

 蛇に睨まれた蛙でも、ここまで徹底的に圧倒されはしないだろう。

 どうかしている。

 こんな化物を殺そうなんて、馬鹿げている。

 くちなはこのとき理解した。

 これは全人会の作戦、くちなたちの仕事などではなかった。

 ユーリン・グレイの罠だったのだ。

 わざと来日の情報を流した。

 敵を誘いこんだ。

 一網打尽どころか殲滅して、この国の組織に打撃を与え、思い知らせる。

 目には目を、歯に歯を、血には血を。

 我々は売られた喧嘩を買うし、やるからにはどこまでもやる。

 大胆不敵な宣戦布告だ。

 主役はユーリン・グレイで、くちなたちは脇役か、その他大勢でしかない。

 役者が違う。

 相手のほうが一枚も二枚も上だ。

 しかし、そうであったとしても、ユーリン・グレイに接触しそうなほど近づくことさえできれば、くちなには逆転の目がある。

 ユーリン・グレイといえども、この力のことは知るまい。

 だから、可能性はゼロではない。

 火災が起きてしまっているし、被害者が出ているだろうし、今さらユーリン・グレイを仕留めたところで何も変わらないかもしれないが、くちなはやるしかない。

 殺さなければ、殺される。

 死ぬわけにはいかない。

 まだ、死ぬわけには。

 少女を助けないと。

 カリミを救うのだ。

 ここで足を止めるわけにはいかない。

 進もう。

 体は動く。

 動かせる。

 進める。

 くちなは足を前に出そうとした。

 その瞬間、ユーリン・グレイは右手を持ち上げるのではなく、くちなから見て右方向に視線を転じた。

 つられて、くちなもそちらに目をやった。

 ユーリン・グレイが意表を衝くためにあらぬほうを見やったであれば、くちなはまんまと術中に嵌まったことになる。

 だが、そうではなかった。

「高良縊くん――」

 黒っぽい恰好をして、両手でしっかりと拳銃を構えている。

 高良縊想星だ。

 十メートルと離れていないユーリン・グレイに、銃口を向けている。

 今までどこにいたのか。

 どうやってあそこまで近づいたのか。

 彼を侮っていたわけではない。

 間違いなく並の高校生ではないが、抜きんでているとも思っていなかった。

 死んでも、死なない。

 所詮、それだけだ。

 そこが厄介だし、とてつもない強みでもある。

 おそらく、死んでも死なないから、年齢のわりに場数を踏んでいる。

 生きるか死ぬかの瀬戸際でも、妙に落ちつき払っている。

 高良縊想星が引き金を引いた。

 老兵が射撃場で試し撃ちをしているかのような、極端にリラックスした射撃だった。

 高校生には絶対に不可能な芸当だ。

 何度も死ぬことができて、実際、死んできた彼にしかできない。

 ユーリン・グレイも、彼女にしかできないだろうことをやってみせた。

 彼女は両手で空気をかき混ぜているのか。

 もしくは、彼女と高良縊想星の間に存在する空間を。

 そういう動作だった。

 高良縊想星は弾倉が空になるまで連射したのに、ユーリン・グレイは倒れなかった。

 銃弾が当たっていないのだから、あたりまえだ。

 目には見えない、何か渦のようなものが、ユーリン・グレイを守っているのか。

 その渦に、すべての銃弾が絡めとられている。

 高良縊想星は撃ち尽くした拳銃を落として、別の拳銃を抜こうとしたのかもしれない。

返すよThis is in return

 ユーリン・グレイが両手で見えない渦を押しだすと、高良縊想星めがけて銃弾が飛んでいった。

 二、三発は外れたが、それ以外は命中した。

 拳銃で射出される際のような速度ではなかったが、それでも頭部に三発か四発は食らって、高良縊想星は声も上げずに、たぶん、声を発することもできず、後ろに倒れかかりそうになった。

 どうにか持ちこたえ、あらためて銃を抜こうとしたのか。

 ユーリン・グレイが滑空するように跳んで、高良縊想星の顔面に右掌を押しあてた。

 はっきりとは見えなかったが、押しあてる寸前に、高良縊想星は頭部を支点にして、両脚がほぼ直上方向に上がるまで回転し、そこから垂直に落下した。

 高良縊想星は後頭部から床に叩きつけられて、硬い物が破裂する音がした。

 事実、その瞬間、骨や血、脳漿が飛び散った。

 あんなふうになって生きていられる人間はいない。

 高良縊想星は死んだ。

 確実に。

 それなのに、生きている。

 どれだけ損壊されても、元通りになってしまう。

 あれを、生き返る、蘇生する、と言っていいのだろうか。

 何か違う気がする。

 まるで違う。

 あの現象を言い表すことができる言葉が、どうしても見つからない。

 おそらく存在しない。

 あの現象は摂理からはみ出している。

 この世界の枠外にある。

 それゆえに、くちなのようにそうなることを承知していても、認知や思考がエアポケットに入ったかのように、瞬間、頭が働かなくなってしまう。

 ユーリン・グレイほどの者でも同じだったらしい。

 高良縊想星は、生き返って――そう表現するしかない、生き返ってすぐ、床に仰向けになったまま、別の拳銃を抜くなり、ユーリン・グレイを立てつづけに撃った。

 ユーリン・グレイが例の滑空するような動きで五メートルかそこら後退した。

 躱したのか。

 いいや、当たった。

 少なくとも、一発は。

 ユーリン・グレイの右腕がだらりと下がっている。

 右肩か。

 胸と肩の間くらいだろうか。

 青いシャツが黒っぽく染まっている。

「UYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY……!」

 すさまじい金切り声だった。

 ユーリン・グレイが片膝をついて左手を床に押しつけると、高良縊想星の体が二メートルほども上昇した。

 金縛りにでも遭っているかのようだ。

 銃をユーリン・グレイに向けようともしない。

 次の瞬間、ユーリン・グレイは高良縊想星のすぐそばまで、すっと移動した。

 ユーリン・グレイが左手を上げ、振り下ろした。

 それに合わせて、高良縊想星が床に激突した。

 その一度で終わりではなかった。

「KYYYYYYYYYAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHH……!」

 ユーリン・グレイは甲高すぎる奇声を発しながら、左手を上げては下げた。

 高良縊想星は、何回も、何回も、床にぶつかった。

 どこがどう折れたり潰れたり破れたりしているのかも判然としない。

 とにかく高良縊想星は、繰り返し、繰り返し、破壊された。

 一度で死ななくても、二度目、三度目では死ぬ。

 高良縊想星が死んで生き返っても、ユーリン・グレイはやめない。

 高良縊想星は血みどろだし、すぐにユーリン・グレイ自身も血に染まり、彼女がいる一帯は血肉まみれになった。

 そのとき、くちなは無心だった。

 血肉で足を滑らせてはいけないとも思わなかった。

 仕事の際、たまにあることだった。

 気配を消そうとも考えず、ただ背後からユーリン・グレイに近づいていった。

 このやり方が一番うまくいくことを、くちなは知っているけれども、狙ってやれるわけではない。

 くちなが手袋を外して右手をのばしはじめると、ユーリン・グレイが振り向こうとした。

 指先からユーリン・グレイの背中まで、あと三十センチ近くあるし、これは間に合わないかもしれないと、他人事のようにくちなは思った。

 感想はなかった。

 間に合わなかったら間に合わなかったで仕方ない、とも思わない。

 何も感じない。

 間に合わないかもしれない。

 あくまでもただそれだけのことでしかない。

 ユーリン・グレイは左手を振り下ろしながら、右に首をねじった。

 彼女はくちなを見ただろうし、身をひるがえそうとした。

 くちなの右手の指先は、なおも十センチ程度、ユーリン・グレイから離れていた。

 これは、間に合わない。

 間に合うはずがなかったのに。

 ユーリン・グレイは急に体中の骨を抜かれたように脱力して、右方向に倒れた。

 すでに事切れていることは明らかだった。

「十センチ――」

 くちなは思わず呟いた。

「……羊本さん」

 高良縊想星が身を起こした。

 また死んで生き返ったばかりなのかもしれない彼は、自分の血肉でどろどろになっていた。

 まるで人間の形に塗り固めた血肉が身動きし、しゃべったかのようだ。

「あ――」

 彼は何か言おうとしたらしい。

 くちなは聞かなかった。

 背を向けて、駆けだした。

 到着ロビーは燃えている。

 煙で視界が悪い。

 警報が鳴り響いている。

 館内放送で避難が呼びかけられている。

 人びとが絶叫している。

 くちなも叫びたかった。

 叫ぼうとしたら、煙を吸いこんでしまい、噎せた。

 涙が出てきた。

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