恋は暗黒。

Ø1 普通の僕にはありえない（下）

　　　　　　　　　　†

　放課後になるとすぐ、想星は渡り廊下へと向かった。

　誰もいなかった。

　授業が終わって間もないので、あたりまえと言えば、あたりまえだ。想星が素早く教室を出た際、白森はまだ席を立っていなかった。

　想星は渡り廊下の半ばあたりで、白森を待つことにした。

　やがて運動部の生徒たちなどが渡り廊下を行き交いはじめた。

　白森は現れない。

（……これは？）

　体育館や外のグラウンドのほうから、健やかな男女の声が聞こえてくる。

　すでに部活動タイム真っ只中だ。

　今や想星は、渡り廊下を独り占めしていた。

（やっぱり、ハメられた……？　具体的にどんな罠なのかとか、さっぱりなんだけど。実際、白森さんは来てないわけだし。こんなの罠としか……）

　想星はうつむいた。

　一瞬で顔が熱くなった。

（……恥ずっ。だめだ。だめだ。だめだ、だめだ、だめだ、これ。何がだめなのか、よくわからないけど、だめだってことだけはわかる。もう帰ろっかな。そうだよ。帰ろう。帰ったほうがいい。帰らなきゃ。そうだ。帰ろ……）

　想星は駆けだそうとした。まさにその瞬間だった。

　渡り廊下の向こうに、白森明日美が姿を現した。

「あっ――」

　想星は思わず声をもらした。

　白森も想星を見た。何か言おうとしたようだ。けれども結局、彼女は無言で近づいてきた。

（ていうか――脚、長っ……）

　想星は白森の顔を直視しつづけることができなかった。それでいつの間にか、彼女の脚を見つめていた。

（……あれ？）

　不意に想星は思った。

（違うんじゃ？）

　白森の脚はただ長いだけではない。

　きれいだ。

　やけにきれいすぎる。

　きれいにも程があるその美しさの種類に、想星は引っかかるものを感じた。

　彼女の脚は明らかによく手入れされているが、それはあくまでも美容的な手入れのようだ。

　果たしてあれは、しっかりと鍛えられている脚だろうか。

　あの脚で速く走れるか。

　高く跳べるものだろうか。

　容赦なく敵を蹴り倒せるのか。

　まず無理だろう。

　いわば、彼女の脚は、機能性を度外視して、見てくれだけやたらと上等な、見かけ倒しだ。

　とてもきれいではあっても、ただきれいなだけの脚でしかない。

　白森は想星の前で立ち止まった。

「ごめん」

　ずいぶんと小さな声だった。

「……でも、人いっぱいいたし。高良縊、来るの早すぎ」

「あぁ……人が――」

　事実、さっきまでは生徒や教師たちの行き来がそれなりにあった。

（だから……遅れた？　様子を見つつ、ひとけがなくなってから、現れた……？　そういうことか……）

　想星は小首を傾げた。

（……やっぱり、決闘？）

「彼女、いないんだ、高良縊」

　白森は承知しているはずの情報を口にして、渡り廊下の胸壁に背を預けた。

「か、彼女――は……」

　想星は白森の横顔に目をやった。

　白森の唇はずいぶんとふっくらしていた。

　ありていに言えば、とてもやわらかそうだった。

　それから、妙に艶があった。

　ただのリップクリームではない、何か光沢感を与える種類のものが塗られているのだろうと思われた。

「い、いません……けど」

「敬語って」

　白森は少し笑って、明るい色の頭髪をかきあげた。

　想星は胸を押さえた。香水か何かの甘い香りが漂った。そのせいなのか。心臓のあたりが、くっ、となったのだ。

（……心拍数が……）

「あのさ」

　白森はそう言ってから、右足の靴の踵で床を何度か軽く蹴った。

　下を向いている。

「いやだったら、断っていいから」

「こ？」

　想星は立ちくらみがした。

「……断る？　な、何を……？」

　白森は上目遣いで、ちらりと想星を見た。

「あたしと」

　校則で一応禁止されているのだが、白森は化粧をしていた。

　そこまで濃くはないものの、薄化粧とは表現しがたい度合いのメイクだ。

　想星が記憶している限り、教室での白森はノーメイク、すなわち、すっぴんだった。さすがに色々と気になって観察していたので、これは間違いない。

　ということは、授業が終わり、この渡り廊下に現れるまでの間に、白森はわざわざ化粧をしたのだ。

　そのメイクでも隠しきれないほど、白森の顔は紅潮していた。

「付き合ってください」

　彼女が発言してから七秒、いや、八秒か、十秒間ほど、想星はただ呆然と立ち尽くしていた。

（――いや……なんで敬語？）

　そんな疑問が湧き上がった。

　やけに苦しい。

　想星はいつの間にか、息を止めていたのだ。

　このままでは、窒息してしまう。

　だから想星は、吸った。

　吐いて、また吸った。

　さらにゆっくりと吐いてから、想星は返事をした。

「はい」

　　　　　　　　　　†

　想星は渡り廊下をあとにした。下校するにあたって、鞄を取りに行かなければならないので、教室へと向かった。

（……ぜんぶ夢だったんじゃ？）

　インスタやってないんだ、と白森に言われた。

　求められるまま、ラインを交換した。

　加えて、互いの電話番号を登録しあった。

（そうだ）

　おぼろげにではあるものの、想星はそれらの出来事を記憶している。

（うん。そうだよ……覚えてる。てことは、現実？　なのかな……）

　想星はポケットの中からスマホを出そうとした。

（確かめれば、わかるんだけど。なんか逆に、確かめたくないような……）

　迷ったあげく、スマホは出さなかった。

　想星は教室の自分の机に掛けてあったバッグを手に取った。その直後だった。

　放課後の教室はがらんとしていた。

　てっきり無人だと想星は思いこんでいたのだが、そうではなかった。

　誰かいる。

　窓際の一番後ろの席だ。

　女子が座っている。

「――っ！」

　想星は仰天して跳びのいた。体が机にぶつかって、やかましい音を立てた。

　窓際の女子が想星のほうに顔を向けた。

　頬杖をついている。

　その眼光が鋭い。

　鋭すぎる。

　むやみやたらと鋭い。

　まさしく眼光、さながらナイフだ。

　それも、ダガーのような、殺傷目的でしか使われない両刃のナイフを思わせる。

　想星はあたふたと机の位置を直した。それから、急いで鞄を肩に掛けた。

（……羊本（ひつじもと）さんか）

　掃除当番でなければ、帰りのホームルームが終わった途端、誰よりも早く教室をあとにする。それが普段の想星だった。おかげで、放課後の教室がどんな様子なのか、よくは知らない。

　ただ、戻ってきたら静かだった。話し声などは一切聞こえなかった。

　従って、教室には誰もいない。

　無人だと決めつけていた。

（……なんとなく、羊本さんって僕と同じくらい、早く帰っちゃいそうな人だけど……）

　人は羊本くちなを、羊本さん、と呼ぶ。

　名字にさん付けなので、とくに変わった呼び名ではない。

　もっとも、同級生たちが彼女を、羊本さん、と呼ぶ際のニュアンスはやや特殊だ。

　羊本さん、というより、ヒツジモトサン、と表記したほうが、あるいは適切かもしれない。

　付け加えられた、さん、の部分には、軽い敬意や親しみ以外の意味がこめられている。

　いつだったか、同級生たちが羊本のことを次のように評していた。

　――あれ、絶対、人殺したあとの目でしょ。

　羊本は三白眼気味だ。

　シンプルに目つきが悪い。

　おまけに黒目の虹彩の色が暗く、なんだか恐ろしいほど黒々として見える。

　だいたい、羊本は異様だ。

　冬ならまだしも、夏でも黒いストッキングを穿いている。

　どういうわけか、手袋まで嵌めていて、かたくなに外そうとしない。

　何らかの事情で、肌を露出させるわけにはいかないのか。

　不明だ。

　理由を訊いたところで、教えてはもらえないだろう。

　なぜなら、羊本は誰とも話さない。

　声を発するのは授業中、先生に指名されたときだけだ。

　皆、羊本を不気味な人だと思っている。

　過去には、興味本位で近づこうとする者もいたが、全員撃沈した。

　うっかり羊本の進路を妨害しただけで、睨まれてしまう。

　あの怖い目、ダガーナイフの眼光で、斬りつけられる。

　触らぬ神に祟りなし、というやつだ。

（しかし、目力やばい……）

　想星はあとずさりした。

　羊本から目を離すことができない。

　後ろ向きに進んでいたせいで、また誰かの机に体が衝突しそうになった。

　その拍子に、想星は羊本に背を向けた。

（……部活とかやってるのかな、羊本さん。ないか。ないだろうな……）

　想星は教室を出る前に、もう一度、羊本の様子をうかがった。

（相手が羊本さんじゃなかったら、どうしたの、とか訊いたりするのが、普通なんだろうけど。無視するのも、あれだし。声くらいかけるよな、たぶん……）

　想星はどこにでもいる普通の高校生を目指していた。

　普通の高校生らしい暮らしを大事にしている。

　いわゆる普通の高校生とは、どのような存在なのか。知り抜いているわけではない。それでも精一杯、普通の高校生であろうとしている。

「あの」

　想星が勇気を振りしぼって言った。

　その瞬間、羊本の肩がわずかに震えた。

　反応があった。

　意外だった。

「さ、さよなら」

　想星は別れの言葉を絞りだした。そして、教室を出ようとした。

　その間際だった。

　想星の耳に、低い声がひっそりと届いた。

「さようなら」

「――……え？」

　思わず想星は訊き返した。

　羊本は頬杖をついて、窓の外に顔を向けている。

　想星はそのまま、五秒ほど待った。

　けれども、羊本は微動だにしない。

（……空耳？　だった……とは、思えないけど。だって、聞こえたし。おそらく、羊本さんの声だったし。でも、なぁ……）

　想星はなんとなく会釈をして教室をあとにした。階段を下りていたら、突如としてスマホが鳴動した。

（――い、いやいや。し、仕事でしょ？　そうだよ。仕事だ……）

　想星は深呼吸をした。

　それから、スマホを取りだした。

　スマホのディスプレーには、ラインの通知アイコンが表示されていた。

「ゆ、雪定かな……」

　想星はスリープを解除してラインを開いた。

　危うく階段から転げ落ちるところだった。

　雪定ではなかった。

「あすみ――って……」

　もちろん、白森明日美だ。

　それ以外にありえない。

　ラインの「友だち」の数は「２」で、その内訳は「林」と「あすみ」、すなわち林雪定と白森明日美なのだ。

　想星は震える指でトーク画面を開いた。

＃　今　電話していい？　＃

「――いぇええええぇぇぁあっ!?」

　想星は階段の手すりに掴まった。

　さもないと、転げ落ちてしまう。

（ななな、何かっ、返信しないと……？　で、ででっ、でも、どう返信したら……？）

　そうこうしているうちに、というか想星は何もしていなかったわけだが、再びスマホが鳴動した。

　今度はトークではない。

　音声着信だった。

「しし白森さんからっ……!?」

　想星は反射的に応答してしまった。

『もしもし』

（……くっそ……ほんとに白森さんの声じゃないかっ……）

　何が、くっそ、なのだろう。

　自分が誰に、あるいは何に対して悪態をついているのか。

　想星には判然としなかった。

　いずれにしても、応答してしまった以上、話さなければならない。

　出ておいて、いきなり切断するというわけにはいかないのだ。

　普通の高校生として。

　というよりも、一人の人間として。

「……も……も、もしもし……」

『高良縊？』

「……う、うん」

『電話しちゃった』

「……うん」

『今、どこ？』

「……ど、どこ？　え？　あぁ……が、がががっ、が、学校……」

『まだ学校なんだ』

「……うん」

『ふーん……』

「……」

『…………』

「………………」

『あのね』

「は、はい」

『はいって』

「……う、うん」

『高良縊のこと、下の名前で呼んでもいい？』

「……え？」

『想星って』

「……あ……えぇっと……そ、それは……」

『だめだった？』

「い、いやぁ、そっ、そ、そっ、そんな……そんな、ことは……」

『あたしのことも、下の名前で呼んでくれたらなぁって』

「……ししし、下っ……で……？」

『あたし、あすみっくとか、あすみんとか、呼ばれること多いんだけど。友だちには』

「……あああぁぁぁぁあすみっく……」

『明日美がいいかな』

「あああぁぁあああぁぁぁああぁぁぁあああすみ……？」

『あが長すぎ』

「……ごっ、ごごごごご、ごごっ、ごめん……」

『普通に、明日美がいいかなって』

「………………」

　いつしか想星は階段の半ばでしゃがみこんでいた。

　呼吸が乱れきっている。

　ものすごい乱れ方だった。

　想星は全力を尽くして息を整えた。

（……その間に、すごい時間経ってる。僕、ずっと黙っちゃってる……）

　このままではまずい。

　想星は一念発起した。

「あ、明日美」

『……ぅわ』

「え？」

『……どきどきする』

（それ――）

　想星は一瞬で汗だくになっていた。

（こっちの台詞ですから……）