恋は暗黒。

pink or blue

Ø1 普通の僕にはありえない（上）

　高良縊（たからい）想星（そうせい）はどこにでもいる普通の高校生になりたかった。

「でも、なんか想星ってさ――」

　想星は手を洗っていた。

　同じクラスの林（はやし）雪定（ゆきさだ）が隣で手を拭いている。

　休み時間に同級生と連れだってトイレに行く。

　用を足したあと並んで手を洗う。

　ごく普通の高校生として、何の変哲もない、ありきたりな行動のはずだ。

「変だよね」

　雪定は言いながらくすくす笑っている。

　想星は首をひねった。

「……そうかな」

「え？」

　雪定は手洗い器の蛇口を閉めた。

　不思議そうな顔をしている。

「え？　自覚ないの？」

「ううん……」

　想星はとっさに答えを濁した。

（自覚――はある、けど。心外っていうか……）

　少なくとも学校では、想星なりにずいぶん注意して生活してきた。

　そのつもりだった。

「変って、たとえばどこが？」

　想星が訊くと、雪定は即答した。

「手」

「――て？」

「想星、やたらと長いよね。手を洗う時間が」

　そんなふうに指摘された想星は、石鹸の泡を指と指の間に行き渡らせているところだった。

「……長い？　かな？　長い？　そんなに……？」

「長い、長い」

　雪定は、ふふ、と含み笑いをした。

「そんなに丁寧に手を洗う人って、ちょっとめずらしくない？　なんだか、お医者さんみたいだよ。手術する前の、外科医とか」

「いや、外科医って……」

　違うし、とか何とか呟きながら、想星は手洗いをそこそこで切り上げ、ハンカチを出して手を拭きはじめた。

（そういえば、あれか。みんな、けっこう早いもんな。手洗い。雑っていうか。僕の感覚だと、雑すぎる。あれじゃ、洗ったことにならなくない？　落ちる？　汚れ。落ちなくない？　なかなか落ちないと思うんだけど。でも、むしろあれくらいが普通なのか。そっか。気をつけなきゃ……）

　雪定が喉を鳴らすような笑い声を立てた。

「拭くのも、入念だよね」

「……そぉ？　かなぁ……」

　想星は満足度六割五分程度の拭きでとどめ、ハンカチをしまった。

（うっわ。拭きが甘い。気になる……）

　けれども、普通の高校生はそんなに手を拭きまくらないというのなら、やむをえない。

（我慢しよ……）

　想星の口からため息がこぼれると、雪定がまた笑った。

　友人と言ってもいいだろうこの同級生は、大笑いすることはまずないが、よく笑う。

　それも、色々な笑い方を使いこなす。

「ところでさ、想星」

「うん」

「今、彼女、いる？」

「何て？」

　想星が思わず訊き返すと、雪定は「や、だから――」と繰り返した。

「彼女。いる？」

「……イル？」

　想星には、その単語が耳慣れない外国語のように聞こえた。

「クァノジョゥ……？」

　もちろん、彼女、というのは一般的な日本語だ。

　とくに文章の中には頻出する。

　ある女性を指す。

　三人称の代名詞だ。

　しかしながら、雪定が言った「彼女」は違う。

　彼氏と彼女の彼女、すなわち、恋人のような特別な関係にある女性、というか、恋人のことだ。

　想星と雪定は高校一年二年と同じクラスなのだが、これまでそうした事柄が話題に上がったことはほぼない。

　いや、ほぼ、どころか、一度もなかった。

　それなのに、なぜ雪定はいきなり想星に恋人の有無を確認するような真似をしたのか。

　想星と雪定が所属する二年二組に、白森（しらもり）明日美（あすみ）という女子がいる。

　白森は女子の中では背が高いほうで、百七十センチ近くある。

　すらっとしていて、こぢんまりとした頭部の持ち主だ。

　頭身で表すなら七頭身から八頭身、ファッションモデルのような体形をしている。

　聞いたところによると、祖父か祖母のどちらかが外国人らしい。

　そのせいもあってか、肌や毛髪、瞳などの色素が薄い。

　ちなみに、想星の身長は百七十センチ前後で、おおよそ平均的だ。

　目や鼻や口が大きいとか小さいとか、えらがやけに張っているとか、その逆とか、そうした特徴らしい特徴はない。

　成績も平凡で、見るからに凡庸な、どこにでもいる普通の高校生・高良縊想星にとって、白森明日美は遠い存在だった。

　かなり遠い。

　違う惑星に住んでいるのではないか。

　そんなふうにすら思えるほど遠すぎる存在なのだが、実を言うと想星は、白森のことが気になっていた。

　ただなんとなく、気になっていた。

　違う。

　なんとなく、ではない。

　白森の見た目が特異だから、ようするに容姿が秀でているから、というのでもなかった。

　想星は明確な理由があって白森のことが気になっていた。

　視線だ。

　白森とは二年で同じクラスになったのだが、いつの頃からか、どうも想星をちらちら見ている。

（――ような、気がするだけか？　勘違いかな。気のせい――だよね……？）

　最初はそう思った。

　しかし、やはり白森に見られていると判断せざるをえない状況が続いた。

　明らかに白森は、不自然なまでに高い頻度で、想星に視線を向けてくる。

（ひょっとして――）

　次第に想星は、こう考えるようになった。

（人は見かけによらない……ことも、たまにあったりするわけだし。白森さんは、もしかして――あっち側の人なんじゃ……？　あっち側……ていうか、むしろ、こっち側か――）

　学校にいる間、もっと言うと、せめて学校にいる間だけは、想星はどこにでもいる普通の高校生でありたかった。

　大勢ではないにしろ、林雪定のような友だちがいる。

　毎日授業を受ける。

　ときには学校行事を楽しむ。

　想星にとって、それはかけがえのない日々だった。

　従って、正確に言えば、白森のことが気になっていた、という表現は必ずしも適当ではない。

　想星は白森を怪しんでいたのだ。

　警戒していた。

　その白森と、雪定はこの間、帰りの地下鉄で偶然、一緒になったのだという。

「――おれも白森さんも、一人で。おれ、イヤホンして音楽聴いてたんだけど。あ、どうでもいいか。それは」

　たしかにそれはどうでもいい。

「白森さんが『林って、高良縊と仲いいよね』って言ってきて。まあ友だちだよって返したんだけど」

（まあ友だち――）

　想星はかすかに胸が締めつけられた。

（まあ……まあ、か。まあ友だち、くらいか。そうだよな……）

　雪定とは学校でしか会わない。ラインは交換した。

　やりとりは一度か二度、これでも想星としては最大級の親しさだ。

　それ以上、たとえば普通の友だち同士のように、放課後、遊んだりするとなると、なかなかハードルが高い。

「それでさ」

　雪定はさらりと言った。

「白森さん、『高良縊って、彼女いる？』って訊いてきて」

「へえ……」

　想星はまばたきを二回した。

　それから、目を瞠った。

「……ぇえ？」

「そういえば、想星、彼女いるのかなって。考えてみたら、おれも知らないし」

「あぁ……」

　想星は噴きだしそうになった。べつに面白くも可笑しくもないのだが、何か笑えた。

「いないよ？　彼女？　僕に？　いやいやいや……ないって。ないでしょ。いるわけないし。そんな、僕に彼女とか」

「なんで？」

「え？　なんで？　いや、なんでも何も、僕だよ？　彼女とか、いるわけなくない？」

「いるわけないってことはないんじゃない？　あ――」

　雪定は目を細めて微笑した。

「想星、自分のこと『僕』って言うよね。それもわりと少ないよね」

「そ……ぉ、かな？　まあ、比較的……少数派なのかも？　ね、うん……」

　想星はどこにでもいる普通の高校生を目指していた。

　それゆえに、中高生の年代ではより一般的な、「俺」という一人称に挑戦してみたことも、当然ある。

（……なんか、違和感がね。拭えないんだよな。俺、はね。自分が自分じゃないような気がするっていうか。しっくりこなくて、恥ずいっていうか……）

「じゃあ、いないってことでいいんだよね」

　雪定に念を押されて、想星はうなずいた。

「うん。いたことないし……」

　彼女が欲しい。

　想星もそんな望みを抱いたことはある。

（――でも、無理だろ、みたいな。だいたい、誰かを好きになったこともないし。たぶん、これからも……一生、ないだろうし。僕に彼女とか、ありえない――）

　そのあと雪定は、高良縊想星に彼女はいない、と白森に報告したようだ。

　すると今度は、伝言を頼まれたらしい。

　雪定曰く、本日の放課後、渡り廊下に一人で来い、というのがその内容だった。

（……決闘、とか？　果たし合い的な……？）

　想星の脳裏に、剣客とガンマンが一騎討ちに臨もうとしている光景が浮かんだ。

（渡り廊下で？　校内の……？）

　場所がおかしい。

　剣客とガンマンが戦うのも変だ。

　というか、どこから剣客とガンマンが出てきたのか。

（――罠、か？）