Ø2 ZERO-SUM GAME
高良縊想星はどこにでもいる普通の高校生になりたかった。
『用意はいい、想星?』
イヤホンから聞こえる声に、想星は短く答えた。
「はい、姉さん」
想星はとある高層ビルの屋上にいた。
着ている服は上下とも黒だ。特別なものではない。
履いているスニーカーも同様だ。
どれもこれも、最寄りのショッピングセンターで購入した。高価ではなく、かといってひどく安価でもない。仕事に使える程度に丈夫で、手頃な値段のものを選んだ。
ただ、想星が手にしている拳銃は、そのへんには売っていない。
黒い服の上に着ているベストも、拳銃や予備の弾丸、弾倉などを収めるためのポケットがたくさんついていて、ショッピングセンターではまず見かけない商品だ。
背負っている登山用のリュックサックは、スポーツ用品店で買い求めた。
軽量で、背負いやすく、わりと気に入っている。
『標的の車が地下の駐車場に入ったわよ、想星』
想星は返事をせずに、屋上の縁まで足を進めた。
このビルは十八階建てで、二車線の道路を挟んだ向かいのビルは十階建てだ。
標的は、向かいのビルの九階まで、地下駐車場からエレベーターで上がる。
今回の標的は、年に一度か二度しか自宅から出ない。
自宅はあまりにも警備が厳重すぎて、内部の構造を探ることすらできなかった。
標的は一人で暮らしているのか。
同居人がいるのか。
警備の人員がどの程度いるのかさえ、突き止められなかった。
結局、機会は数少ない外出の際しかない。
姉がそう判断した。
(……そこについては、僕も異論はないんだけどさ)
姉が立てた計画はこうだ。
想星が今いるこのビルの屋上から跳んで、向かいのビルの九階に突入する。
そして、護衛ごと標的を始末する。
あらかじめビルに潜入しておくなどの方法も、姉は検討したようだ。
しかし、どうも標的が訪ねる前に、徹底的な安全確認が実施されるらしいので、隠れていても見つかってしまう確率が高い。
きわめて用心深い標的だ。
不審者がいれば、当然、外出を中止する。
待ち伏せは通用しない。
すなわち、奇襲しかない、ということになる。
(それにしたって、もうちょっとやり方ってものがあるんじゃないかな……)
『想星?』
「はい、姉さん」
『そろそろよ』
「わかってます」
『生意気な言い種ね』
姉の声音は咎めるような調子ではなく、むしろやわらかだった。
だからといって、姉が怒っていないとは限らない。
想星は胸が詰まるような感覚に襲われた。
「……ごめんなさい、姉さん」
『いいのよ、想星』
姉は本当に、弟の謝罪を受け容れたのか。
想星には判断がつかなかった。
(……姉さんが何を考えているのかなんて、僕にはわからない。――わからないって言ったら、あれだな、白森さんも……)
突然、付き合ってください、と言われた。
不意討ちだった。
思わず、はい、と返事をしてしまった。
(……いまだにわかってないんだけど、付き合う……って? つまり、僕が白森さんの彼氏ってこと? え? それってようするに、白森さんが、僕の彼女? えっ……?)
想星は胸を押さえて唇を舐めた。
(……変だよ。そんなのおかしいって。だって……僕だよ? 僕と白森さんって――あっ、そっか、明日美って呼ばなきゃならないんだっけ。……あ、明日美ぃ……? いやいやいやいや、無理でしょ、無理。ありえないって。だいたい、なんでよりにもよって、僕なのかっていう……え? てことはもしかして、白森さん、僕のことが――好き……だとか? えええええ? いや……おかしくない? おかしいよね? 絶対、おかしい……)
『想星?』
「はいっ?」
『今、ぼんやりしていなかった?』
「……ぃぃいいえ?」
『そう』
姉は小さく息をついてから、やけに低い声を出した。
『本当に?』
想星は答えることができなかった。
YESにしろ、NOにしろ、姉の逆鱗に触れるだろう。
だとしたら、黙っているしかない。
『集中なさい。突入用意』
「了解」
想星は向かいのビルの九階を確認してから、後退した。
走り幅跳びは、最低四十メートルの助走路を確保しないといけない規定になっている。
この屋上では、二十メートル助走するのがやっとだ。
「いけます」
姉が号令を下す。
『突入して』
想星は走りだした。
恐怖というほどの恐怖は感じないが、楽しくはない。
どちらかと言えば、嫌だ。
かなり嫌だ。
(どれだけ慣れても、嫌じゃなかったことなんか、ない……)
想星は屋上の縁で踏み切って、思いきり跳躍した。
(僕に、彼女なんて――)
向かいのビルがどんどん迫ってくる。
(空中で考えることじゃないか……)
十階。
高度が下がって、九階の窓。
姉の計算に従って事前にシミュレートしたとおり、どんぴしゃだった。
想星は両腕で頭を庇った。
ビルの分厚い窓に激突した。
ものすごい衝撃だった。
音もひどかった。
窓硝子の破片もろとも、九階のぴかぴかに磨き抜かれた床に転がりこむと、想星は全身血まみれになっていた。
体がまるで言うことを聞いてくれない。
『入ったの?』
「……はい」
か細い声しか出なかった。
もう意識が遠のきかけている。
起き上がることはできそうにない。
仕方なく、想星は這って進んだ。
硝子の破片があちこちに刺さっても、一向に痛みを感じない。
(……これ、かなり……死にかけてる……)
このビルの九階と十階は、特別な施設だ。
通常のエレベーターでは八階までしか上がれず、地階と九階を結ぶ専用エレベーターが別にある。
九階の半分は特別施設のエントランスホールで、そこからまた別のエレベーター、もしくは階段で十階に上がることができる。
美しい植物や高価な彫刻、立派な鎧兜といった美術品が収納されている硝子ケースの間を進むと、通路に出る。
通路の向かって左に専用エレベーターの出入口が、右には十階と行き来できる階段とエレベーターがある。
姉の推測どおりなら、専用エレベーターで九階に上がってきた標的が、今まさにその通路を経由して十階に向かおうとしているはずだ。
(あぁ……)
想星はその通路まで辿りつけなかった。
(――無理か……)
足音がする。
視界は霞むどころか真っ暗に近い。
何も見えない。
「何だ、こいつ!」
誰かが怒鳴った。標的の護衛だろう。
その直後、想星は撃たれた。自動拳銃による射撃だった。
自動拳銃は護身用、護衛用によく使われる。
しかし、訓練を積んだ射撃手でも、実戦ではなかなか当たるものではない。
想星が重傷を負っており、一見して虫の息だったことから、護衛は三メートル程度まで接近して発砲した。
至近距離だ。
さすがに何があろうと、絶対に外すことはない。
実際、護衛の拳銃から放たれた銃弾は想星の頭に命中した。
護衛は一発だけでなく、念を入れて三発の弾を想星の頭部に撃ちこんだ。
ほぼ即死だった。
(――……死は、覚めない眠りみたいなものだって、誰かが言ってたけど――)
息を吹き返しても、想星はじっとしていた。
(違うんだよな。僕だけかもしれないけど……いきなりどこかものすごく狭い場所に閉じこめられて、何もできなくなる、みたいな。あ、死んだなって、なんかわかるし……)
「もう大丈夫です、
護衛の男が言った。
坂柳、というのは標的の名だ。
護衛の男は想星から離れて、坂柳のもとへ戻ろうとしている。
専用エレベーターから十階へのエレベーターに至る通路は、全長約十五メートル。護衛に守られた坂柳がエレベーターを降りて、五メートルほど歩いたところに、想星が突入した。
スーツ姿の護衛は四人。
そのうちの一人、護衛Aが想星を撃った。
護衛Bが護衛Aのサポートについて、あとの二人、護衛CとDは坂柳をガードしていた。
(最悪なのは……)
想星はタクティカルベストのポケットに、そっと右手を忍ばせた。
拳銃を握る。
ルガーのLC9という自動拳銃だ。
軽くて扱いやすいから、愛用している。
(死んでる間は、時間の感覚がないんだ。どうやら僕は、死んだらすぐ蘇生するみたいだけど――なんだかずっと、死んでたみたいな感じがする……)
「どうしましょう、坂柳さん。やり口が無謀すぎてよくわかりませんが、刺客だと思います。今日は中止されますか」
護衛Aが坂柳に尋ねている。
「始末したんだろう?」
坂柳が返す。かなり不機嫌そうだ。
「せっかくの準備が無駄になる。それより、俺がここに来たことがなぜ漏れた?」
「それは……」
護衛Aが言い淀むと、坂柳は腹立たしげにため息をついた。
「早急に原因を突き止めろ。……そうだな。予定はキャンセルだ。帰るぞ」
「かしこまりました」
護衛Aが腰を折ってそう答える姿を、想星は目視していた。
硝子ケースと硝子ケースの間を静かに匍匐前進し、音もなく立ち上がって、銃を構えていたのだ。
距離はおよそ五メートル。
頭を下げている護衛Aの向こうに、標的の坂柳がいる。
坂柳謙信。
六十四歳だというが、せいぜい五十代にしか見えない。テレビドラマで父親役を演じる俳優のような風貌だ。
四十年以上前から無数の犯罪行為に手を染めてきたのに、坂柳はただの一度も逮捕されたことがない。
暴力団にも海外のマフィアにも所属せず、違法薬物の密売や人身売買を行うRosa rugosaとかいう名の組織を一代で築き上げた。
ちなみに、坂柳の兄は元警察官で、警視総監にまで上り詰めた名士だ。
想星は両手でしっかりとルガーLC9を保持し、引き金を引き絞った。
初弾が坂柳の鼻柱の右横あたりに命中した。
坂柳は、うげっ、と呻いてよろめいた。
「あぁ!?」
護衛たちが振り向きながら自動拳銃を抜いている間に、想星はさらに引き金を引いた。
二射目は坂柳の眉間に、続く三射目は鼻柱のど真ん中に当たった。
(――
誰かの命を奪うと、想星にはそれがわかる。
体の中心あたりで、とくん……という、独特の音が響くような感覚があるのだ。
奪ったぶん、想星の命は増える。
さっき一度死んだので一つ減ってしまったが、これで差し引きゼロだ。
いや――
「っ……」
護衛たちが発砲してきた。彼らは腕がいい。想星の頭部や胸にたちまち七、八発の銃弾が撃ちこまれた。ほぼ即死だった。
(――……まったく、どうなってるんだ、これ)
想星は血まみれで床に寝ていた。
死んで、倒れたらしい。
(今さらだけどさ……)
そのへんに転がっていたルガーを拾って、身を起こそうとしたら、また銃声が轟いて弾が飛んできた。
坂柳の護衛たちは全員、本当に射撃がうまいようだ。
「おっ……――」
ほぼ即死だった。
(――……二連続で殺された。これでマイナス1か……)
想星は起き上がらずに、寝たままルガーを握って撃った。
護衛たちが駆け寄ってこようとしたので、狙わなくても一人の護衛に当たった。
「うあっ……」
護衛AかBかCかDかはわからない。
想星はそのまま銃撃されながら四発撃って、護衛を二人、仕留めた。
(プラス1……ッ――)
しかし、その直後に頭を撃ち抜かれて、想星は死んだ。
蘇生すると、えらく苦しかった。
想星は大の字になっていた。
護衛の一人が、右脛を想星の首に押しつけている。
しかも、額には銃口が突きつけられていた。
せっかく生き返ったのに、今にも殺されてしまいそうだ。
「何なんだ、この野郎! 化け物め……!」
(勘弁して欲しいよ……)
ルガーLC9は手近にない。
護衛が蹴飛ばすか何かして、遠ざけたらしい。
想星は護衛の拳銃を鷲掴みにし、ひねり上げた。
護衛がちょうど引き金を引こうとしていた。
まさにその瞬間だった。
「あっ……!」
護衛はとっさにトリガーガードから人差し指を抜いた。
そのまま引き金を引いてしまうと、自分に向かって発砲することになる。
射撃の訓練をちゃんと受けている者なら、こういう場合、だいたい反射的にそうするものだ。
ただし、護衛は想星の首から右脛を離してしまった。
それは重大で、致命的なミスだった。
想星は呼吸できるようになった。
一気に護衛の拳銃を奪い、すぐさま撃った。
その護衛に三発食らわせて殺したら、もう一人の護衛が撃ってきた。
(こめかみ――)
そう思ったときにはもう、想星は被弾して死んでいた。
(――……こんなに死ぬの、久しぶりなんですけど……)
蘇生すると、生き残った護衛は想星から四メートルほど距離をとって銃を構え、息を乱してがたがた震えていた。
「なんっ……何だっ……こ、この……何なんだよ、くそ……!」
幸いなことに、想星は銃のトリガーガードに人差し指を突っこんだまま死んだらしい。
どうやら、生き残った最後の護衛は、想星に全弾叩きこんだようだ。
今、彼が両手で持っている銃は、おそらく弾が切れている。
「チートだって思う気持ちはわかるけど」
想星は右手でグリップを握り、左手も添えた。
最後の護衛を狙い撃った。
「んがっ……」
護衛は胸に一発食らったあと、踵を返して逃げようとした。
逃がすわけにはいかない。
想星は二発、三発と立て続けに命中させた。
「――っそぉぁ……っ…………」
護衛が床に倒れこんでから、想星は立ち上がった。
「僕だって、好きでこんなふうになったわけじゃないんだよ」
歩みよって、護衛の頭をもう一発撃った。
とくん……というような音を感じて、彼がその瞬間、絶命したことがわかった。
「五人殺したけど、五回死んだから、結局、プラマイゼロか……」
想星は右手で拳銃を握ったまま、左手で両耳をさわった。
イヤホンが外れていた。
「探さなきゃな。なくしたら、姉さんに叱られる……」
ため息をついてから、想星は歩きだした。
「ありえないだろ。こんな僕に、彼女なんて……」
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