5話

 もう手がかりはチョーカーしか無いと思った。それがどう犯人に繋がるのかはわからないが、私の探偵としての勘がそう告げているみたいだった。

 店の隅の方で、私は前波と一緒にいた。

 私がチョーカーのことを尋ねようと思ったのに、彼女は無視して、私との思い出をずっと話している。

「あのときは笑いましたよねー」

 私の隣の椅子に腰掛けて、くつろぎながら前波は語った。私が呼び出してから、妙なほど上機嫌だった。近くには、あとで話を聞こうと思っていた鶴居と、数名の大人しそうな客が座っている。暇そうにして。

 箭原はまた現場を調べに行った。さっき事情聴取で凶器の話を聞いたから、それを確かめに行くと言った。凶器について証言したふたりが、違う道具を示したことは解せない問題なのだけれど、実物が見つかれば、その問題も炙った固形油みたいに融解するはずだった。

 私に出来ることは、無くなったチョーカーについて聞いてみる。それだけだった。あの天下を轟かせた名探偵(志望)が、惨めなものだった。あとでトイレで泣こう。

「みんな、ありえさんだってわかってたんですけど、私が腕に抱きつくと、ハンカチを噛むような勢いで……」

 ケラケラと、前波は笑っている。

 私と同じ時を過ごしたことは間違いないのに、私の方には、そこまで笑うような気分にはなれなかった。箭原は思い出の質が違うと言ったが、その通りなのかもしれない。

 前波はそうやって、一生懸命に私に対してか、そばの鶴居に対してか、味方をしている客に対してかは知らないが、私の話を自分のことのように演説みたいに、ずっと喋っている。

 黙って聞いていた鶴居が、突然思い立ったように訊いた。

「それで、どうして別れたんですか?」

 拳銃〈ピストル 人を殺せる 対崎は射撃の才能がない〉を突きつけられた気分になる。

 前波は、怒るのかと思ったが、また思い出に浸る遠い目をして答えた。

「あれだけ絶頂だった二人にも終わりは来るんですよね。ありえさんが……私に飽きたんですよ。刺激が無いとか、そんな理由で。私は、捨てるんですかって詰め寄ったんですけど、もともと雲の上みたいな人ですから、現世の刺激に慣れて行くのは当然だったんです。私は、ありえさんの幸せを願って、別れました。今でも、応援しています」

 違う。私が彼女に飽きたことは、端的に言えば事実だろう。すれ違いも続いた。彼女に魅力というものを少しも感じなくなったし、一緒にいてどこか嫌な気分になることもあったが、それは一方的な私のエゴイズムなんじゃないかとどこか諦めていたけれど……。

 でも、彼女は……

「対崎様……?」

 彼女は、私を見せびらかすことしか出来ない人間だった。

 前波を尊重したいのに、どうしてそんな思考になっちゃったんだろう。

「ストーカー女」前波が言う。「あんたがありえさんに近づきたいのはわかるけど、結局、この人は超人よ。あんたが釣り合うとは思えない。それだけの刺激を提供しないといけないの」

「そうですもんね。あの対崎ありえ様ですから」

 あの対崎。〈この街の犯罪の三割を一人で解決するスーパー名探偵、と世間は呼ぶ。本来はただの探偵志望なのだがその扱いは異常 彼女の恋人となればどれほどの羨望を受けるのだろうか〉

 あのありえ。〈探偵学校でもその成績は群を抜いていた。箭原が彼女を盗み見ているだけで優等生扱いされていることがその証左だろう 将来的にはこの街でもっとも有力な探偵の座を、こんな若輩のうちから約束されているという 学長にも期待されている 街の救世主〉

 客が、なら俺と付き合おうとか、私と付き合おうだとか、くだらないことを言い始める。

 私の連絡先を聞き始める。私は探偵としての相談窓口の番号を教えた。

 私を欲している大衆。

「ちょっと」

 騒ぎになっていたのか、気になった舞美が顔を見せ、私の腕を引っ張った。

「ありえ。付き合ってほしいんだけど」



 連れ出された先は、トイレだった。ここには、私達しかいない。個室までは覗いていないが、たぶん、きっと。

「あの人たちも、勝手よね」舞美は窓際で、一息をついてから言う。用事は別にないらしく、私をあの場から連れ出したかっただけのようだった。「ありえは、物じゃないのに」

「……ごめんね」

「何に謝ってるわけ?」

「いろいろと」

 そう言ってから、私は自身を鏡で見つめる。

「舞美、私のチョーカーって知らない? 無くなったのよね」

「朝からしていたわね、確か……」舞美は顎に手を当てて、頭上の方に視線を向けて考え込んだ。「無くなったって、いつからよ」

「多分、殴られた後よ」私は言った。「裏口に行くまでは、してたわよね?」

「ええ……途中で外したとかは無かったと思うけど……何処に行ったのかしら。誰か、ありえのファンが盗んだんじゃ……」

 深刻な顔をして思い詰める舞美。

「ねえ」私。「殴ったって、本当?」

 …………。

「……言ったでしょ。殴ったのは私だって。気に入らなかったの。恋愛が、辛いの」

「ゴシップ雑誌が原因じゃないの?」

「あんな雑誌の取材料なんかどうだって良いわよ」舞美が苛立つ。「読んだことある? あなたのこと、何もわかってない。あなたは……もっと素朴よ。持て囃しすぎなの」

 ふん……、と私は鼻で笑う。

「それでも、私には、勿体無い恋人よ」

 そんなことを舞美が言うので、私は驚く。

「舞美は、私の理想よ」多分。

「そうかしら……」舞美が自嘲する。「殴るような女よ。あなたに、恋愛が辛くて当たるようなクズよ。他にもっと、理想的な恋人はいくらでもいるでしょう」

「恋愛、辛いの?」

「辛いわよ」

 舞美は鏡から目を逸らせて、手を洗った。用を足したわけでもないのに、人を傷つけた罪を洗いたがっている心理的な反射にしか見えなかった。洗ったばかりの両手を合わせて、祈るようなポーズを取ると、水が滴って、排水溝に吸い込まれて行った。

「チョーカー、何処に行ったのかしらね」舞美が両手を解いてから言う。「ありえ、気に入っていたじゃない。殴り倒した時に確認はしなかったけど……着けてたと思うんだけれど」

「まあ……そんな高いもんじゃないわ」

 鶴居からもらった物だと告げようかと考えたが、どうにも頭が痛んで、言葉が喉の奥に下がって行った。

「殴った殴られたの間柄なのに、あなたって冷静なのね。いつも通り会話してくれることに、感謝するわ」

「……私は、舞美が殴ったなんて信じてないわよ」

「恋人を信じないなんて、最低よ」舞美は微笑んだ。「殴ったって言ってるでしょ」

「じゃあ別れたいってこと?」

 …………。

「そうよ」〈数秒の間〉

「そっか」私は首を振る。「舞美が犯人だったら別れるわよ。また殴られたくないもの」

「だから、私だってば……」舞美は諦めたように口をつぐんだ。

 それが本当なのかは、いまだにわからない。

 けれど、裁かれたがっているように、彼女はまた神に祈り始めた。



 舞美と店の方に戻ると、鶴居と前波、そして私に興味を持った客たちに詰め寄られた。

「あんた……」前波が舞美に顔を近づけて、胸ぐらでも掴むような勢いで言った。「ありえさんと何してたの? 独り占めにして」

「独り占めって……」舞美はちらりと私を見てから言う。「会話よ。日常会話。恋人なんだから、独り占めにして当然でしょ」

「だからって……」鶴居が口を挟む。「犯人が、探偵に堂々と接触するのはおかしくないですか……? きっと、なにか働きかけをしてたんでしょ? 自分を、犯人にしてくれだとか……卑怯ですよ。犯人でもないくせに」

「だから、犯人だって言ってるじゃないの」舞美が舌打ちを漏らした。「ありえもなにか言ってよ。こいつら、あんたのことで頭がいっぱいみたいよ」

 私のせいだと言われたら、どうにも否定もできないのが現状だった。

「まあ、とにかく落ち着いてください」私は努めて冷静に諭す。「捜査は順当に行われています。正しい犯人を導くのが、私達の役目ですから」

 それに対して、前波が不満そうに文句を言った。

「じゃあ、なんで犯人候補と二人で会ってるんですか。おかしいですよ、私というものがありながら。それは順当な捜査とは思えないんですけど?」

「いや、事情聴取の一環よ、これは」

「それだったら箭原さんと二人でやってくださいよ」前波は食い下がった。「これは個人的な密会だとしか思えません。誘ったのも海野からでしょ? 海野も正直に言ってよ」

「だから……」舞美は呆れて言う。「ただ話してただけ。それともなに? 妬んでるわけ? 恋人でもない自分は、そんな密会なんて出来ないから?」さらに、舞美はけらけらと笑った。喧嘩を売っている。「哀れね。ありえも、あなたのそんな部分が嫌だったんでしょうね」

「おいお前!」

 前波は舞美の襟をつかんだ。舞美は動じなかった。私は、どうすれば良いかわからなくなって、黙った。

「……殴れば? 本当に犯人になれるわよ」

「なってやろうか、この女」

 そこへ、裏口から箭原が戻ってくると、怒鳴るより先に唖然とした表情を見せた。

「……また?」

 箭原は淡々と義手を使って前波を引き剥がす。さすがの前波も、義手のことを恐れているのか、落ち着きを取り戻した。

「で? 今度は何?」

「海野が、賄賂〈貰えるほどの人間にしか貰えない〉を送ってるんじゃないかという疑いが」

 前波がそんな適当な説明をするので、私は見かねて箭原に説明した。

 すると箭原は、

「じゃあ対崎。出て行って」

「は? お前、私が名探偵なの忘れた?」

「そうじゃなくて、っていうか、それはわかってるけど……」箭原は申し訳無さそうに口にする。「こいつら、対崎のことで頭がおかしくなってる。だから、あなたの存在は刺激になりすぎる。眼前に現れないほうが良いと思うんだけど」

「……わかったわよ」

 箭原は私を裏口に連れ出した。他の客には店内にいるように告げて。

 裏口に出ると、一層空気が重くなるようだったが、あの酸素が薄くなりそうな店内に比べると、幾分かはマシなんじゃないかという気分になった。私が殴られた忌まわしい場所だというのに。

「二人では、これ以上は無理だね」箭原が誰も周りにいないことを確認して、ぼそりと呟いた。「学校に連絡して、応援〈他の探偵志望や協会の正式な探偵を派遣してもらう手続き 当然、報酬からの取り分は減るが、今回の事件は対崎の個人的な痴情のもつれなので報酬は対崎が支払うことになっている〉を呼んでもらうよ」

「ちょっと待ってよ」私は止めた。「応援なんか呼んだら、私の評判が下がるわよ。ダメ」

「対崎、まだそんなこと言ってるの? そんな場合じゃないよね? 推理、まだ出来ないのに」

「あんたにはわからないと思うけど、ゴシップ誌もそうだけど、学校とか探偵協会とかには、私の足をすくおうっていう連中が腐るほどいるのよ。ここで応援なんか呼んだら、何言われるかわからないわ。対崎ありえが解決できなかった事件を、颯爽と解き明かした名探偵! だなんて紹介されて名を上げるための出汁にされるのよ。そうなると、私の地位は崩落するわ」

「…………知らないよ」

「ダメ」私は毅然とした態度を崩さなかった。「私は、探偵として名を挙げないといけないの」

 凄まじい苛立ちを見せた箭原だったが、それでも私の言うことに従った。

「……まったく、めんどくさいなこの女」ため息。「わかったよ。もうしばらく二人でやってみよう。対崎は、現場を調べてて。凶器とか、あると思うし。私は店内を静かにさせる」

「……ありがとう」

「ふん……対崎が失脚すると、困るのも私だし」

 言い残して箭原が店内に消えた後に、鶴居がどこからともなく出てきた。

「鶴居さん、どこから?」私は距離を取りながら話した。現場を調べようとしてから、ものの数分だったので凶器もまだ見つけられていない。

「ああ、えっと……トイレからこっちに出られるんです」慌てているような口調だったが、決して嘘を言っているわけではなく、私を前にしての極度の緊張だった。「対崎様が心配で……箭原のやつになにか小言を言われたんじゃないかと思って……」

「鶴居さんこそ、前波や舞美と変な衝突を起こさないでくださいね」

「まあ……あの人達も嘘を言っていますから、相手にしていませんね。私こそが、犯人ですから……」鶴居は自信ありげに言う。「前波さんなんて、凶器も知りませんもん。あんな顔して……適当に言ってるだけです。対崎様は、鉄パイプ、調べてみました? きっと、何も出てこないと思いますよ。それでも、前波さんは、言い逃れをするんでしょうけど」

 言われたので私は鉄パイプの山の方へ行き、血のついたものがあるかを確認したがそんな物は見当たらなかった。血を拭った、とも口にしていたが、拭き取った跡もない。〈古びているが、長年ここに放置されているもので間違いはない〉

「じゃあ舞美のコンクリート片は?」私は鶴居に訊いた。

「あなたの流れている血を付着させて、その辺りに捨てた。それだけでしょう」

「……鶴居さんは、なにで私を殴ったんですか?」

 鶴居は、緊張しながらもそっと微笑んだ。

「秘密です」

「あ、おい! 鶴居さん!」

 裏口から箭原が急に飛び出してきて、鶴居を「大人しくしてろって言っただろ」などと罵倒しながら、店内へ連れ戻した。

 私は鶴居の話を一人で考えてみたが、何の結論も出なかった。

 残された手がかりは、消えたチョーカー。さっきからそれしか無いと思っている。

 そうしているうちに、私は一人の女の存在を思い出した。急いで現場から離れて表通りに出た。

 違法建築の巨大ビルと巨大ビルの間を通っている、大通りだ。〈無数にある店の汚らしい看板が立ち並んでいて、ある程度の活気があり、人も多い ビルのせいで太陽の光は、この街の何処にいてもほとんど当たらない 人工的なオレンジ色の光がこの街の主要な光源〉

 私は、近くにあったカラオケボックス〈狭い部屋で、音楽を流して歌を歌って暇を潰す店〉に入った。この時間であれば、それほど混んでいるとは思えない。店員に確認するとすぐに使用できるとのことだった。私は二つ返事で了承をして、案内された部屋に向かった。

 狭い空間。安っぽいソファと、カラオケマシーン。別に、歌いに来たわけではなく、この店には他に特徴があった。

 各部屋にネット端末を完備していた。この街独自のネットサービス、ツインガレネットの端末だった。〈継院枯区が独自に導入しているインターネットサービス 掲示板、広告チャンネル、区長からのお知らせなどが利用できる 端末は個人向けに生産されておらず、公共に設置されている端末しか存在しない 表向きには〉

 私は端末を触った。四角い土台に、無骨なディスプレイが乗った、少しも可愛らしくないものだった。それが、カラオケマシーンとは別に、部屋の隅に置いてある。起動させて、区民番号を入力すると画面が動いた。私は掲示板の、最も奥まった場所にある場所を、画面を触って選択していった。

 そこから接触出来るのは、情報屋。あまり頼りたくは無かったけれど、こんな状況だから仕方がない。

 簡素なインターフェースの掲示板に、私が文字を入力して送信すると、しばらく経ってからサードイヤーと名前の書かれた人物が返事をよこした。私が書き込む以前にほとんど使用さえた形跡のない掲示板だったが、このサードイヤーはずっと張り付いて観察しているのだろうか。

『訊きたいことって?』

 サードイヤーはそう訊いている。〈サードイヤーは対崎とかつては交際関係にあった女 年齢は同じぐらいだが情報屋としては有能〉

 私は書き込む。私の方は名前の欄に区民番号が記載されている。サードイヤーみたいに名前を表示させる方法はわからないが、きっと違法だろう。番号でも、サードイヤーには私が誰なのかはわかっている。

『調べて欲しいチョーカーがあって』

 それから返信は遅い。彼女はややコミュニケーション不全なところがあり、私が会話を主導しないと何も返事をしてこないことが多々あった。

 私がチョーカーの特徴を書き込むと、それからしばらくして、返事があった。

『なんでそんなのを?』

『盗まれたの。ひょっとしたら高価なものなんじゃないかって思って。人から貰ったから、よくわからなくて』

『自分でも調べたんでしょ』

『ええ。その時は普通のチョーカーだと思ったんだけど。盗まれたからには価値があるのかなって』

『対崎ありえの私物なんかそれだけで高値で売れるよ』

『そうだけど、気になるの』

『出品されてるかどうかも調べてあげる』続けてサードイヤー。『報酬は?』

『いつもの金額で良い?』

『いらないから、デートして』

 私は無視して、金額を書き込んでから沈黙した。私は了承してから待つ。カラオケにいるんだから歌えば良いんじゃないかと思ったが、興味はなかった。

 それからサードイヤーから返事があったのは、十分後だった。

『あれ、盗聴器が入っている可能性があるよ』

 ……盗聴器?

『どういうこと?』

『このタイプで間違い無いよね』

 件のチョーカーと同じ物の画像を何処から入手したのか、彼女は貼り付けた。疑うまでもなく、これと同じだった。黒くて、細い。

『これと同型のチョーカーに、盗聴器を仕込んだ物が、そういう人達向けに市場に流れたことがあって。誰から貰った?』

『ストーカー女』

『馬鹿かお前は。受け取るな』

『だって、その時は単なるファンだと思ってたし』

 鶴居。まさか、そんな目的で私にプレゼントを。デートにしか装着していかなかったし、仕事での秘密にすべき話は、あまり口でやり取りはしないし、そもそも解決が一瞬だった。プライベートを盗聴したところで、それほど影響は無いはずだが……。

 急に鶴居が恐ろしく見える。

 サードイヤーは、出品もまだされておらず、犯人が持っているか、お金目的ではないと言った。もちろんただ紛失しただけという可能性を否定できないが。

 私は礼を言って、店を後にする。箭原に伝えよう。何にも思い浮かばないから。

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