4話

 ストーカ女、鶴居を呼び出した。私は、彼女にじろじろと見られるのが嫌で、箭原の後ろに姿を隠した。箭原は迷惑そうに、わざと長い髪を私の顔の方に払った。鼻に当って、くしゃみが出そうになった。

 私が箭原の後ろから質問をする。

「で、あんたが殴ったわけ? 動機は? ゴシップ?」

「そ、そんな……低俗な理由じゃありません」鶴居は行儀よく、ステンレス台に座っていた。いや、行儀は良くない。だが佇まいが綺麗だった。「対崎様が一向に説明しませんけど……私と対崎様は、実はこっそりと付き合っていて……」

「おいコラ待て。付き合ってない」

「え、忘れたのですか……?」鶴居は、首を振って涙を流した。「酷いです……あれだけ愛し合ったっていうのに」

 聞いた箭原が、汚物でも見るように私に視線を向ける。「あなたって、最低なの?」

「こんなストーカー女の言う事を信じる気?」私は鶴居に言う。「嘘言ってないで、本当のことだけ話して」

「はい……それで、対崎様と交際しているのは私なんですけど」

「だから嘘を言うなってば」

「はい、わかりました。えっと、じゃあ対崎様と私は恋人関係にあったんですけど」

 もうダメだ、この女。私は口を挟むことを諦めて、鶴居の話を聞くことにした。

「知らない女と対崎様が、街を歩いているのを見かけて……浮気だ、と思ったんです。それで後を着けて……この店に入るのを確認しました。私はバレないようにこっそり裏口から手紙を置きに侵入して、それから路地で待ちました。暗くて、心細かったんですが、対崎様の姿を確認した時に、気分が明るくなりました。けれど、浮気を許すことは出来ません。私に対する裏切りに対して、制裁を加えない手はありませんでした。私は……対崎様の頭を殴って、その場を後にしました。殺すつもりでした。そのまま逃げても良かったんですけど、対崎様の傍を離れるのが嫌でした。第一発見者になる、という選択肢もありましたが、用事もないのに裏路地にいる方が怪しいと思って、離れたところから見ていました。それから、店内の要素に聞き耳を立てていると、不届きな容疑者たちが二人も名乗りを上げているじゃありませんか。これは許せないと思っているうちに、おふたりに見つかってしまいました」

 お恥ずかしい、おほほ、なんて鶴居は赤くした顔を片手で隠した。

「凶器は?」私は特に言うべきこともなく、淡々と尋ねる。

「それは、言えません」

 何?

「黙秘します」

 微笑む鶴居と目が合った箭原が、不満そうな顔をした。

「ふざけたことを言わないでよ。じゃあ犯人じゃないね。帰っていいよ」

「ですけど、私はストーカーなので、帰るわけには」

「じゃあ答えてよ。なにで殴ったわけ?」

「言いません」

 鶴居は黙り込んだ。柔和な印象だった彼女が、急に角張った岩みたいに触れたくなくなった。

 箭原は首を振って質問を変えた。諦めるらしい。私でもそうする。

「……いつから、ストーカーを?」

「えっと、半年ほど前ですかね。交際をしているはずなのに……どうしてか無視されるようになって。それで、仕方なく、こんな方法を……」

「やっぱり対崎のせいじゃないか」

 私は箭原の背中を殴った。箭原は目玉を飛び出す勢いで、前にのけぞって咳き込んだ。

「違うってば。記憶にないもの」だんだん自分の思い出が、疑わしいものになってきた。もしかしたら、鶴居は正常で、本当に私のせいなのだろうか。違う違う、受け入れるな。それがこのストーカー女の戦略だ。

「……えっと、じゃあ……普段はなにしてるの」箭原が訊いた。「もしかして、職業がストーカー?」

「いえ……普段は、事務職〈一般企業に於いてはそう珍しくない職種〉をやってます。それなりに勤務日数があります。ストーカーの方は、それまで一度もやったことがなくて、まだ新人ですね」

 新人もクソもあってたまるか。

 鶴居が顔に両手を当てた。頬を染めていた。

「ここまで人を好きになったことも、今まで無いんです。だから、心配だったんです。不安だったんです。捨てられちゃったら、生きていける気がしないんです。ストーカーなんて、他人事だと思っていましたけど」そこでこの女は、涙を流し始めた。自在に出るらしい。「でも、他に方法がないからやるんだって、やりたい人なんていないんだって、実感しました。こんなに苦しいのに、好き好んで誰も、やるわけないじゃないですか。愛の暴走とかじゃないんですよ。これは、強迫なんです……」

 また箭原が私を見る。「付き合ってあげたら? 対崎のせいだし」私は彼女の頭を殴った。失え、私みたいに推理能力を。「痛いってばやめろ対崎」箭原が義手を振り上げたので、私は怖くなって謝った。この女は暴力で他人を萎縮させるクズだと私は理解した。

 鶴居には不可解な点しか無かったが、これ以上話を聞くのも無駄だと判断して、厨房を追い出した。



 その後は、事件には関係ないであろう客の中に目撃者がいないかを、聞き込みをして確かめたが、有用な話は何もなかった。裏口が変に見えづらい場所にあるというのがその原因の一端だろう。その隣に座っていた、箭原の存在を覚えているという人間も少なかった。

 その点から言えば、この箭原は十分に怪しかったが、前述の通りそんな動機も証拠も見当たらない。こいつがゴシップ誌の取材料を目当てに私を殴るとは思えないし、それなら率先して捜査をしている意味はない。

 箭原は勝手に冷蔵庫を物色している。腹が空いたのだろうか。あとで店長に密告するとして、私は一人で考え込む。

 あのストーカー女、鶴居きさらにはどこか見覚えがある。それは間違いない。けれど喉元まで出かかっているというのに、そこから先の肺活量が足りないみたいだった。私の頭は、推理能力だけでなく、基礎的な性能も劣ってしまったのだろうか。

 私はステンレス台をちらりと見た。身繕いをしたくなったし、自分の美しい顔を確認して正気を保ちたくなった。

 包帯が少しだけ歪んでいる。私は名探偵。志望だけど。包帯すら似合うようないい女でなくてはならない。〈チョーカーがなくなっている〉

 ……。

 なんで気づかなかったんだろう。

 朝はしていたはずのチョーカーがなくなっていることに、今更意識が向いた。思い出す。黒くて、細くて、先端に丸い飾りがついている、私に妙に似合うアクセサリー。

 どうして無くなっているのだろう。現場を確かめた時に、そんな物は見当たらなかった。足跡を探していたというのだから、落ちていれば見逃すはずはない。

 そこで頭の記憶が一致していく。

 あのチョーカー……。

「箭原……」

 私が呼び止めると彼女は冷蔵庫を閉じて、こちらを向いた。とくに食べ物を盗んでいるわけではないらしく、両手には何も持っていない。

 私は、していたはずのチョーカーが無くなっていることと、もう一つ重要なことを彼女に告げた。

「そのチョーカー、鶴居がくれたものなのよ」

「え、やっぱり付き合ってたってこと? 殴られて忘れたの?」

「そうじゃなくて……」私は目を閉じて、記憶を探った。「えっと……そう。道端で、突然くれたの。ファンです! って。だからありがとうって言って、受け取ったわ。黒いチョーカーだった。今日付けたのは、偶然だけど、気に入ってたの。プレゼントをくれるファンって、結構多くて、忘れちゃってたわ。でもはっきり思い出した」

 それがどうして消えるのだろう。別に、希少というわけではない。少々高値だろうが、街でも売っているのを見かけるし、プレゼントとしてはおかしなものでもない。

 私物が欲しいファンはいるが、そういう層が盗んだ? 今の時点では、見当もつかなかった。



 店の方に戻ると、騒ぎになっていた。

 前波が客と口論を繰り広げていた。内容は聞くまでもなかった。私の話だった。

「お前なんか、ありえさんのことわかってない」前波が声を荒らげていた。椅子の上にも立っていた。「いい? あの人は、あんたが思うよりもずっとすごいんだから。ここに留まらせているのも、意味があるんだよ。文句を言うな。従えよ」

「と言っても」客が反論する。若い男〈三十歳 青春時代を適当な暇つぶしで浪費してきた可愛そうな人間〉だった。「ずっとこの状態じゃん。そろそろ飽きてきたんだけど。いつになったら帰らせてもらえるんだよ。噂通りなら、対崎ありえは人差し指でなぞるように事件を解決するんだろ? 自分が殴られた途端にそれがこんなに難航するってのは、どういうことだよ。実際は、噂の足元にも及ばない人間だったと、思われたって反論できないだろ」

「このバカ野郎……!」前波が拳を握る。「私はね、ありえさんの事をずっと見てきた! グッズ〈対崎公式グッズは学校が販売しており、その売上は、学校全体の年間収益の一割ほどにもなる〉だって全部揃えている! このエプロンにだって、バッジがついてるのが見えないわけ? あんたよりも、私のほうがありえさんのことを理解している。彼女が、この程度の事件を解決できないはずがない! すぐに私が犯人だって言ってくれる!」

「お前が犯人じゃないから難航してるんじゃないのか」男は笑う。「お前本当に殴ったのかよ」

「黙れ! 殴ったって言ってるだろうが!」

 暴走しそうな前波を取り押さえたのは箭原だった。義手で手首をつかめば、前波はぎょっとしたように大人しくなった。

「箭原さん……」彼女は睨む。「なんですか」

「やめてよ、騒ぎは。ややこしくなるから」箭原が諭すように言った。「今、対崎も頑張ってるから。犯人は見つかるよ」

 その言葉を聞いて、男はテーブルの上に足を乗せて、ため息を吐き始めた。何だこの男。店長に頼んで出禁にしてもらおうと私は決意する。

「いい加減さ」男が上を向いて、ひとりでぼやくように言う。「飽きてきたんだよね。いつまでこんな事に巻き込まれるんだよ。俺たちは、無関係なんだから、もう留めておく意味は無いだろう。あーあ、対崎って奴も、実際はこの程度だったのか」

「お前……!」前波が牙を剥いた。箭原はさらに左手も使って止めた。

 男の意見に、周りの客も同調し始めた。

 私は大したことがない。私は事件を解決する気がない。私は応援が来るのを待っている。私は八百長だ。私は探偵能力なんかない。私は嘘つきだ。私の栄光は虚構だ。私は犯人とグルだ。私は大したことはない。私に入れ込むなんて馬鹿だ。と言ったような意見が、風邪でも広がるみたいにして、客が次々に口にし始めた。

 これは、不味い。

 本当に、私が今推理が出来ないという部分に於いては曲げようもない事実なのだから、それが皮切りになって、私の悪評が広まったら、夢が、暮らしが壊されてしまう。

 封じないと。私が解決しないと。対崎ありえの名前の持つブランドを、こんなところで潰えさせるわけでにはいかなかった。

 ここへ客たちを留めてから、すでに二時間近くが経過していた。不満が出るのはわかる。けれど糸口も掴めていない。

 客が、舞美と鶴居にも文句を言い始めた。

「こんなに長引いてるのは、お前たちが便乗してるからだろ?」別の男だった。〈前波と親しく、前波を目的にこの店に通う四十代の男性 妻との折り合いが悪い〉「前波ちゃんが殴ったって言ってるんだよ。最初に見つけたのも、前波ちゃんだし、動機も一番通ってるだろ? 海野ちゃん、あんたは悔しいだけなんだよ。恋人が取られそうで。そこの鶴居ちゃんも同じだよ」

「同じって……」舞美が歯ぎしりをした。「別に、取られるなんて思ってないわよ。それに私は本当に殴ったんだから。前波が殴ったって証拠もないでしょ」

「そうだけど、もう真実なんて、この際どうでもいいでしょ」男が身もふたもないことを口にした。「だって、裁かれる犯人がいないのがダメで、捜査ってのをやるんでしょ? でも今回はそれが三人もいる。誰かを裁ければそれで区民の俺たちも、対崎ちゃんも溜飲が下がるでしょ? その方が大事なんじゃないの?」

「真実を明らかにしないとダメよ」

「その理由は?」

「そう学校で教わるから。誰でもいいなら、冤罪が横行するもの」

 舞美が舞美らしいことを、自信ありげに言う。私としては、真実を明らかにする理由は、その方が私の見栄えが良いからという邪心にほかならないのだけれど、それを舞美に言うと怒られそうだった。

「でも冤罪でいいでしょ?」男はまだ食い下がる。「だって、犯人になりたいって言ってるんだし。海野ちゃんも、じゃあ自分が本当は殴ってないけど犯人だとして嘘をついてるとして、対崎ちゃんに犯人にしてもらったら、嬉しいでしょ? そのために犯人だって言ってるんだから。冤罪は、されたくない人が罪を被るからダメなんでしょ? 罪を被りたい人を犯人にするんだから、良いでしょ?」

「連続殺人犯だったらどうすんのよ。それの狂信者は捕まえてもらって喜ぶかもしれないけど、連続殺人は止まらないわよ」

「でもこれは連続殺人とかじゃないでしょ?」

「そういう上辺の話をしてるんじゃなくて」

 そこでついに箭原がキレる。

「いい加減にしろよ!」叫んだ。

 義手で机を殴る。机はふたつになって崩壊した。店長が、どこかで声を漏らした。

 静かになる。

「…………とにかく、みなさんも、捜査には協力してもらいます」箭原が深呼吸をして言う。「店長には後で弁償します。すみませんでした」

 彼女は後悔したように、ぼそりと頭を下げた。

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