第9話 不意打ち

月曜日にホームでひとしきり泣いたためか、かなり心が落ち着くことができて、残りの平日はそれほど取り乱すこと無く過ごすことができた。


それでも彼はずっとワタシの頭の片隅を占拠していて、ワタシの理性ではもうどうしようもない状態ということが認識できたけれど、それがわかっただけでも少し気分は楽になったように思える。


ワタシはこの週末ですべてに決着をつけようと心に決めた。また大きな失恋になってしまうけれど、今のままでは感情の振れ幅が大きすぎて、平穏に過ごすことはできないと思った。


失恋は過去にも経験しているし、きっと泣いて泣いて泣いて、泣き続けて、涙が枯れてしまえば、また思い出になるはずだ。良い思い出にしたいけれど、きっとそれは難しいだろうし、期待すればその分、落胆も大きくなる。


少なくとも、彼にはしっかり謝ろうと思うし、ちゃんとお礼も言わないとダメな気がする。ダメな人間になってしまう気がする。


ちゃんと会って話すべきだし、また会ったら印象が違って、もしかしたら、気が動転していただけってことかもしれないし、もしそうならば、また平穏な生活に戻れる。


リプカフェだってタダじゃない。もうお金を払ってしまっているのだから、行かないのはもったいない。


全然、彼に会いたいというわけではないのだ。会いたいから行くわけではない。そう、ちゃんと人間として、正しい生き方をするために行くのであって、お金がもったいないから行くのであって、これは必然の行動。


なんだか言い訳が激しい気もしたけど、それでもやっぱりケリはつけておかないと、悶々とした気持ちで再び怪獣が暴れ出したら、仕事にも影響が出かねない。


いざ、決戦の土曜日。


いつものようにメイクをして、いつもと違うワタシを作り上げていく。しっかり泣いたことで気分的な整理ができたのか、今週は意外と眠れたような気もするし、それが理由なのかはわからなかったけれど、今日も化粧のノリが良い気がした。たまに彼が夢に出てきたけど、それでも結構眠れたと思う。ワタシ、意外と順応性が高いかも。


今日はベースがネイビーで白い花柄のワンピース。ワタシ的に結構お気に入りで、派手すぎない大人っぽい感じ落ち着いた感じで、勝負。


勝負?


ワタシは何でやる気を出してしまっているのか・・・。でも、人を好きになるなんて、すごく久しぶりすぎて、ワタシにもこんな気持ちがまだ残っているんだなあって感じがして、その好きという気持ちを大切にしたいなとは思っていた。


このままリプカフェにも行かずに全スルーしても良いのだ。自分の心にまた蓋をしたって良いのだ。記憶を封印したって良い。でも、それは何だか、ワタシ自身の心を心の中から壊してしまいそうで、ワタシ自身の心が本当に死んでしまいそうで、嫌な気がした。


これまでも少し気になる人がいたことは否定できない。ただ、その思いをちゃんと伝えられずにいて、ずっと檻に閉じ込めていた。けれど結局それは、ワタシ自身に嘘をついていた、ワタシが自分自身を見ないようにしてただけだったと思う。


だから、すべて吐き出してしまおうと思ったし、すべて吐き出すことで、ちゃんとお別れできるような気もした。


靴はアイボリー系で靴紐の部分がリボンになっているシンプルだけど、ワタシ的に結構好きなのもの。


好きなものを身につけると、それだけでちょっとパワーを貰える感じがするから不思議。


さあ、戦じゃ戦じゃ!


気分的な高揚感から意気揚々とリプカフェまで来たものの、あれほど勢いのあったワタシの中の心の兵士たちは、すでに尻込みし始めていた。


外から見た感じでは誰もいないように見えるけれど、前みたいな不意打ちもあるかもしれないと思うと、かなり弱気になってしまった。


このままでは負けてしまう。負けるなワタシ。


よし、ここはイッチョ、例のアレをやろうかな。そうだよ、前はそれをしなかったから、慌てすぎてしまったのだ。


おばあちゃんに教えてもらったおまじない。


ワタシはぐっと左手を開き、左手の手のひらに、右手の人差し指で人という字を書き、そしてそれをぐっと飲みこんだ。


・・・。


・・・。


・・・。


あまり変わった感じはしなかったけれど、でもおばあちゃんのことを思い出して、少し心が落ち着いた気がする。


親と連絡をあまり取らなくなってから、実家に戻ることもなくなったせいで、おばあちゃんと会うこともなくなってしまった。おばあちゃんは、すごくワタシに優しくしてくれて、お年玉もくれたし、お小遣いもくれたし、欲しい!って言うとだいたい買ってくれた、とてもとても優しい人。


そんなおばあちゃんとの思い出で一番覚えているのは、おばあちゃんの口癖。ご飯の時によく「こわいに」って言ってて、小さい頃は何が怖いのかなあって思ったけど、それは方言で「かたい」って意味ということを大人になってから知った。


顎が弱くなっていたから、固いものが食べにくいから、ご飯がこわいって言ってたんだなあって。そのことを今でもふと思い出すことがある。笑顔がかわいいおばあちゃん。今頃何してるのだろう。


さて・・・いざ、リプカフェに参る!


リプカフェに入る時にこんな気合を入れたことは今までなかった。というか、よくよく人生を振り返ってみても、こんなに気合を入れたことは無かったかもしれない。


さあ、掛かってこい!


という気合は、サラッとかわされてしまった。外からちょっと確認して、人がいなそうだなあとは思ったけれど本当に誰もいなくて、ワタシが今日の最初の来店者だった。


そりゃそうよね。まだリプカフェが開店して10分しか経ってないからね。てへっ、と古い時代のギャグを心の中でやってみる。表情に出したら、それこそ通報されかねないから。


「今日は何にしますか?」


あいも変わらず良い声マスター。先週のスペシャルブレンドでも良い気がしたけれど、


「紅茶にしようかなあ。」


「では、バラとリンゴのフレーバーのマリーアントワネットはどうですか?」


「それで、お願いします♪」


と即答してみたけれど、バラとリンゴは良いとして、マリーアントワネットって、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」って言って、よくわからないけど、処刑されちゃった人だった気がする・・・。


ちょっと不吉な感じもしたけれど、後でスマートフォンで調べてみたら、紅茶はニナス・マリーアントワネットというブランドの紅茶で、紅茶好きの人には結構有名みたい。あと、パンが無ければって言葉もどうやらマリーアントワネットの言葉じゃないみたいです。Wikipediaありがとう。


お客がまだ誰もいないカフェってすごく開放的で、なんだか自分がすべてが自分の空間みたいで、すごく嬉しいっていうか、ワクワクしちゃう感じがある。ワタシだけかもしれないけど。


ふと、お気に入り棚に視線をやるとワタシのおすすめ本が目に入った。そして、彼のことを思い出す。優しそうな目をしていた爽やかな彼。彼はなんでワタシのおすすめ本を選んでくれたのだろう。ずっと誰も手にとってくれなかった本。


そうか、ワタシは気づく。そういうことなのか。ワタシは、きっとあの本にワタシ自身を重ねてしまっていたのかもしれない。誰にも選ばれない本。誰も興味を持たない本。でも、それに興味を持ってくれた、選んでくれたことが、なんとなくワタシ自身が選ばれたように錯覚していたのだ。


それをたぶん、ワタシの心が勘違いしてしまったように思う。そうだよ、ワタシが選ばれたんじゃない、選ばれたのは本。ワタシに興味を持ってもらったんじゃない、本に興味を持ってもらったんだ。


そう認識したら、また落ち着きを取り戻せた気がした。冷静レベルが少し上がった気がする。これで心のコントロールをまたちょっとだけ取り戻せたと思う。


マスターが淹れてくれた紅茶のティーカップを持って移動する。いつもの場所に座ろうかなあって思ったのだけれど、今日はポジションチェンジ。


中央のテーブルで、お気に入り棚を背にして入り口が見えるところに座る。そう、今日はちゃんと決着をつけに来たのだ。心も冷静さを取り戻してきているし、ササッと謝って、後はいつもの、これまでと一緒の平常運転に戻るだけ。何事もない日常に平穏な日々に戻るだけだ。


先週から読み進められていなかった謎探偵を読み始める。家で読んでしまっても良かったのだけれど、何となくリプカフェで読むことで、起きてしまった様々な出来事を無かったことにはできないけれど、あの時に時間が戻りもしないけれど、前の生活に戻るためには必要なことのように思えたから。


でも、謎探偵のページは一向に進むことは無かった。どうしても入り口が気になってしまって、チラチラと見てしまう。入り口のドアが開くとドキッとしてしまって、全神経が入り口に集中してしまう。


意識しすぎてはダメだと思えば思うほど、意識してしまい、本を読むような状態にもなれなかった。


気づけば紅茶のカップは空になっていて、無駄に時間を過ごしてしまった。リプカフェの店内は結構混んで来た、といっても6人程度で何人か入れ替わったものの、彼は一向に現れなかった。


もうお昼は過ぎていて、少しだけお腹が空いたなあって感じもあったので、持ってきたピュアグミを食べる。ザラッとした表面のサラメとグミの柔らかい触感、そして酸味が心地よくて、ついつい4つほど連続で食べてしまった。ピュレグミはほんとうに罪な美味しさ。ついつい食べすぎてしまう。


朝、あれだけ気合を入れてきたのに、ちょっと拍子抜けしてしまった。変に集中していたから、少し頭がぼーっとしてしまって少し熱がある気もする。


もう、どういうことよ。先週はあれだけタイミングが良かったのに、今日は全然。もしかすると、もう二度と会うことはないのかもしれない。


それはそれでモヤモヤが残ったままで、ちょっと嫌かなって気もしたけど、時間が経てば思いが薄れる気もするし、そもそもきっとワタシの勘違いから起きたことのようにも思えたし、結構冷静になっている自分がいて、なんとかなるような気もした。


先週のあのドタバタは一体何だったのだろう。本当に情けない。ダメすぎた。


そんなことを思いながら、ヨロボールームに移動する。ヨロボーは小さなビーズが詰まったクッションのようなもの。家にもあるのだけれど小さめのもので、リプカフェには大きなサイズのヨロボーがあって、これがかなり快適なのだ。


ずずっと身体をヨロボーに沈めていく。目を閉じると、この一週間のことが走馬灯のように流れていく。本当に慌ただしいというか、ワタシの人生の中で、これほど感情の振れ幅が大きくて、ジェットコースターのようにいろいろなことが起きるのはかなり久しぶりだった。高校の時以来だろうか。あのときもこれほど激しくは無かった気がする。


あれから、ずっとワタシは、ワタシ自身に嘘を付き、正しいと思われる事柄を、ただ返答することに集中し、まるでロボットのような人生を送ってきた。


親が求めている姿を演じ、親を騙して大学を卒業し、その頃からほとんど連絡をしていない。親もきっといろいろと気づいてはいるだろうが、何も言わなくなってしまったというのが正しいように思う。


たまに連絡はするけれど、最近はアプリのメッセージサービスがあるから、直接話すことも、電話で話すことも、顔を合わせる必要もない。生存確認の定期連絡のようなものをするだけ。


親には申し訳ないという気持ちもある。けれど、あの時、両親には味方について欲しかった、せめてワタシの話を聞いて欲しかったという気持ちが強くて、連絡こそ少しは取っているけれど、それは表面上のことでしかなく、実際には決別してしまっている状態に近い。


あの時、どうすれば良かったのだろうと今でも思う。学校に行けなくなった時、ワタシはどうすれば良かったのだろうと。


やはりワタシが悪いのだ。ワタシが淡い期待、それは期待なのかどうかわからないけれど、少なくと自分の感情を抑えられなくて、彼に想いを伝えてしまったのが、良く無かったのだ。


特に田舎では都会に比べてそういうのに、より敏感だし、そもそも上手くいく告白ではないことはわかっていたし、学校中の噂になって村八分のようになることはわかっていたはずだ。そんなことを想像できないほど、頭が回っていないわけではない。


でも、想いが止められなかった。


好きは怪獣だ。


ワタシの中には理性や知性を司るヒーローがいる。ちょっとした問題ならヒーローが片付けてくれる。でも、好きという怪獣は別だった。


ヒーローものの物語であれば、怪獣だってヒーローが倒してくれる。ヒーローはいつだって最強なのだ。でも、ワタシの中の怪獣はヒーローでも倒せなかった。怪獣が大暴れすると、もう手がつけられない。


だから、ワタシは怪獣をずっと呼びおこさないように平穏に暮らすことを選んだ。


その怪獣が再び暴れてしまった。けれど、大人になったからもしれないし、単純に歳を取っただけかもしれないけれど、今はなんとか怪獣を抑えることができている。月曜日に心の中でひとしきり暴れさせたことが良かったのかもしれない。


もっと現実を見るべきなのだ。


世の中を見れば、それは一目瞭然。美男は美女と、美女は美男と、芸能人は芸能人と、政治家は家柄の良い家の人と、ワタシとは住む世界の違う人達が存在して、そういう人たちでのみ、恋愛というのは成立するのだ。


誰が好き好んで、底辺の醜い、お金も地位も、名誉も、能力も何もない人間を好きになるのか。


世の中には、そんなことは無いという人もいる。


でも、それは建前。


だって、見た目は関係ないって言う人が、美男美女を選ぶし、お金持ちを選ぶのを何回も見せられてきた。


目に見えない、言葉として発していないだけで、やっていることはこれまでの差別と変わらない。


表向きだけの方便。そう、まさに嘘も方便。


だって、ワタシだってイケメンが好きだし。みんなだってそうでしょう。


結局、そういう嘘で塗り固められた社会でワタシは生きていて、ありのままの自分でいることが大切とか、見た目なんて関係ないとか、そういう言葉を信じて、ワタシは騙されてきた。


みんな上っ面だけで、実際に自分がそういう事態に直面すると逃げ出す。何だかんだ良くわからない言い訳を並べ立てて美しい人を選ぶのだ。


ああ、無駄な思考をしてしまった。わかりきっていることを、何で改めて考える必要があったのか。同じ内容、同じ結論の繰り返し。人間がすぐに変わることができないように、社会だってすぐに変わることは難しい。つい数年前まで当たり前だったことが、今では非常識になる社会。変化についていくのは本当に大変。


冷静に、そう平穏に、波風立てずに、目立たず生きるのが一番良い。期待しなければ、がっかりすることも無いし、傷つくことも無いのだから。


ふと、気づき目を薄っすらと開けると、世界が少し暗くなっていて、微かにオレンジ混じりになっている。リプカフェはかなり採光が良くて、外の明かりの影響が大きい。


ヨロボーに今日も負けてしまった。


気づけば2時間以上、眠ってしまっていたようだ。スマートフォンを見ると、リプカフェの閉店の時間が近づいていた。


慌てて起き上がり、出る準備をする。


ふと見渡すと、誰も居なくなっていた。ワタシが最後か。彼に会えなかったのは、良かったのか、悪かったのか。まあ明日も来れば良いし、今日はめぐり合わせが悪かったのだろうと思う。心の平穏を保つことはできたし、また冷静レベルがアップしたような気もするし、明日会ったとしても、心を平静に保って入れられそうな気もした。


リプカフェを出て背伸びをする。ヨロボーは気持ち良いのだけれど、体制が良くなかったのか、少し身体が固くなっている感じがある。


「こんばんは」


!?


こ、こ、こ、こ、こ、この声は・・・。


声の方にちょっとずつ顔を向ける。ギギギギギギと音はしなかったけれど、油の切れた機械のように首が重かった。そこには優しい笑みをした彼が立っている・・・。


ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、不意打ち!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る