第8話 どうしたら、この好きを止められますか
定時になったので、帰り支度をする。この会社は時間がきっちりしているのもワタシにとっては嬉しい。
もちろん、たまに残業はあるけれど、ある程度残業が起きそうな時期というのは決まっているし、急に残業ということはほとんど無い。
そのおかげで平日の生活はかなり規則正しくて、それは工場の機械のようなものかもしれないけれど、ワタシにとってはそのひんやりとした冷たさが、返ってやりやすいし、生きやすい。
この会社ではタイムカード的なものは存在していなくて、勤怠管理システムにワタシが自分で入力して、社内チャットで出社、退社を宣言するだけ。ワタシ以外の社員は残業という概念がないし、常に働いていて勤怠管理はワタシだけなのだ。とても特殊な会社だと思う。
今日は病院に行く日でもないし、特に予定も無いから、いつも通りの電車に乗って帰る。
いろいろなことを頭から追い出すために仕事に集中していたせいか、少し疲れを感じた。早く帰ってチョコミントアイスを食べたい。
帰りの電車は出勤の電車よりも人が少なくて、運が良ければ座ることもできる。今日は運が良かった。少し疲れているからありがたい。
帰りの電車では本を読むようにしている。本を持ってくることもあれば、スマートフォン読むこともある。謎探偵が途中だったけれど昨日のこともあって、朝持ってくるのを諦めた。思い出してしまうのが怖くて。
今日は小説サイトのWeb小説を読むことにしよう。
お気に入りの作家さんは、続きがアップされていなかったようなので、ザッピング的にいろいろな小説を開いてみる。ただ・・・、文章が、言葉が、頭に入ってこない。
理由はシンプル。
彼がワタシの頭の中でぐるぐると回っていたから。考えてはいけないのに、そう考えれば考えるほど、彼のことを考えてしまう。
それは仕事で追い出した反動だったのかもしれない。
そして、半笑いガン見と転びそうなところを助けてくれたことが頭の中で反芻される。
ぐるぐるぐると。
頭を振りスマートフォンの文字に集中しようとする。
文字は認識できている。でも、言葉が頭に入ってこない。記号の羅列を追っているだけ。
ああ、どうしてだろう。
名前も知らないし、何をしている人なのかも知らない。話してもいないし、どうして、気になってしまうのだろう。
どうして、どうして、どうして。
スマートフォンの文字がぼやけてくる。心の中の何かと一緒に目から涙が溢れそうになる。電車のドアが開く。ワタシは慌てるように電車から降り、ホームのベンチに座った。
もうダメかもしれない。
もう止められないのかもしれない。
ワタシは人を好きになってはいけないのだ。そう考えるたびに、ああ、やっぱりワタシは、彼のことを好きになっているのだろうと実感する。
そう思った瞬間に心の中で、何かがムクッと起き上がり、心の中を歩きはじめる。ああ好きという怪獣が起きてしまう。怪獣がのそのそと歩くたび、心の中で好きが溢れてきて、そして涙が溢れ止まらなくなってしまった。
もう過去と同じ過ちはしないと決めたのだ。ワタシのような人間が人を好きになるなんて、許されないことなのだ。だから人を好きにならないと決めたのに。
世の中ではルッキズムとか平等とか、権利とか、昔は差別だったのものが、今は変わりつつある。それは認識している。
でも、本音と建前が得意な日本では、そんな差別を無くそうなんて言葉は建前でしかない。女性差別に反対する人々が平気で男性の見た目を揶揄し、侮蔑する。そう差別は無くなってなんていない。それをみんな口に出すことを避けているだけ。
みんな綺麗な人が好きなのだ。綺麗な人だから好きになれるのだ。ましてや・・・。
10年くらい前、ワタシは大きな失恋をした。それが原因で、学校で居場所を無くしてしまった。でも、心を無くすことでワタシは何とか高校を卒業できた。大学でも人とはあまり関わらないように生きてきたし、そもそもワタシのような人に近づいてくる人はほとんどいなかった。
残酷だけれど、それが現実。みんな差別は良くないと口にしながら、関わらないことで、境界線を作っている。見えない線がそこにはある。
愛想よくすれば良い?
それで一体何が得られるというのか。愛想をよくしたら、ワタシは認められるのだろうか。きっとコミュニケーションは取れるだろう。でもそれは表層だけの、上っ面だけのやりとり。ただ情報という無機質なデータがやりとりされるだけ。そこにはワタシという人間は存在していない。彩川理央という記録としての、データとしての文字の羅列だけ。
大学では鉄面皮と呼ばれていたことは知っている。けれど、それはそれで良いと思った。ワタシと出会うことで何か悲しいことが起きてしまうなら、最初から出会わなければ良い。
期待しなければがっかりもしない。そういうこと。
だから、ワタシは決めた。人を好きにならないと。
そう、決めたのに。
なぜ、ワタシの心は、どうしてワタシの心は、言うことを聞いてくれないのだろう。
ずっと理性という鉄の蓋で心を押さえていたのに、もうその鉄の蓋は意味をなさず、本能という性が、好きという怪獣がワタシの心を蹂躙する。
もう止められそうにない。
10年分の好きが心の奥底から湧いて湧いて湧いて、溢れて溢れて溢れて、止まらなくなる。
好きが溢れてくるたびに涙も溢れる。
好きという感情が怖い。ワタシは怖くて怖くて仕方ない。
誰かを好きになるのが怖い。
それはきっと上手く行かないという結末を知っているからだ。どうやってもハッピーエンドは無いのだ、ワタシには。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうして、彼のことを好きになってしまったのだろう。彼の何が良かったのだろう。
わからない、わからない、わからない。
何もわからない。
でも、心の底には彼のことを好きという感情がある。
何が起きてしまったのだろう、ワタシの心に。もう恋愛なんて他人事だとずっと思っていたし、人を好きになることもないと思っていたし、もう28歳だ。
いい大人が駅のホームのベンチで泣いている。周りの人達からすれば奇っ怪この上ないけれど、人々はただ通り過ぎていく。今のはその都会のソリッドな冷たさが逆に有り難かった。あまにもワタシは滑稽すぎる。
ずっと恋愛を避けていたことで、ワタシの恋愛偏差値はかなり低くなってしまったし、大きなブランクがあったのもあるかもしれない。
些細なことでこんなになってしまうのは、きっとそのせいだろう。普通の人にしてみれば些末なこと。そう好きという感情すら起きないだろう、こんなことで。
うう、もうダメすぎる。ダメすぎて死にたい。
神様、どうしたら、この好きを止められますか、教えて・・・。
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