第6話 災難
自分の置かれている状況に、まんざらでもなさそうに頷いた。その鳥谷の得意気な顔に薄笑いが浮かび、同時に慇懃な咳を一つした。
「うっぐへん!」抑え気味に、拳を口元に添えた。
その仕草は、まさしく己の思惑どおりになったことに、満足していることを表していた。さもあろう、本人にとっては、当然と心得て喰らいついて来たわけだからだ。だがすぐに憮然とし、腹内で愚痴り始める。
くだらん正義感を振りかざし、鬼の首でも取ったように騒ぎおって。だからどうだというんだ。今に始まったわけじゃない、神代の昔から続いているんだ。それをご時世と騒ぎだてるとは、ちゃんちゃらおかしいわ。それを社会悪だとか、税金の無駄遣いだのと騒ぎおるマスコミもマスコミだ。
自分たちの卑劣な行状を棚に上げ、おもしろおかしく取り上げれば、貧者どもが騒ぐに決まってら。そういう輩どもを煽って踊らせれば、雑誌も売れるだろうし、テレビ局も視聴率改善のカンフルにもなろう。そんなまやかしの情報発信そのものが世の中を狂わせる。そんな火に油を注ぐ低俗な雑誌や番組がもてはやされる社会そのものが問題なんだ。そこのところをきちんと捉えておかんと。まともに付き合っていては、こちらの身がもたん。
俺もこれしきの攻撃に怖気づくことなく、これからも長く渡りを続けていかにゃならんからな。まあ、図々しいぐらいがちょうどいい。
こんな騒ぎも、毎日報道、放映されれば新鮮味も薄れる。しおらしく振る舞っておれば、そのうち飽きがきて、芸能人のスキャンダルに趣向を移す。愛人問題や、くっついたの離れたなどのエログロが最適だろう。そうなりゃもってこいだ。粛々と賢く振舞い、甘い汁を吸い続けられるってなもんだ。まあ、こんなことは初心でもあるまいがな。
さらに、己に都合よく思考を巡らせる。
それと、景気がよくなれば税収が増える。企業が儲かれば、給料やボーナスに跳ね返り、皆の懐が肥える。しょせん、貧者らは自分がよければ人を妬まないし、他人様の懐など気にせん。そうなれば、我らのことは蚊帳の外になるというわけだ。
いつの間にか、鳥谷のほくそ笑む姿があった。そして、にたり顔でぽつりと漏らす。
「さあさあ、真っ正直に付き合っていたんでは、精神的に疲れるわい。ここは気分転換といくか。こんな時は、理子の色香を楽しむのが一番だ。とすれば、こいつらのくだらん雑言など、そよ風のように聞こえてくるわ」
受話器を取り、おもむろに内線番号を押す。
どうしているかのう……。久し振りだし、思い出すと興奮してくるわい。下半身の疼きを感じながら発信音を聞き、浮つく気持ちを抑え、出るのを待つ。その間妄想にはまり、心はすでに理子の柔肌に飛んでいた。
じきに繋がった。唐突に喋り出す。
「おお、富田君か。わしだ、鳥谷だ」
周りを気にしているのか、彼女がしおらしく敬語で返してくる。
「は、はい。富田でございますが、どのようなご用件でしょうか?」
「ああ、例の件だ……」
「あ、はい……」
鳥谷の思惑がわかるのか、それとも他に言いたいことがあるのか、中途半端な返事をして黙った。
「うむ、そうか。君も忙しそうだな」
「ええ……、はい」
「そうか、それじゃ直ぐでなくてよい。あとで連絡する」
「はい、わかりました」
存分に可愛がるつもりで、鳥谷が電話を切った。
「これで解わっただろう。夕方にでも、待ち合わせ場所を伝えるか」
そう思案しつつ、未決裁箱から書類を取り出し決裁に取りかかる。
その後、時間が遅々と過ぎるが、まだ午後四時半だというのに早々と退社し、車内で携帯電話を取り出し、おもむろに発信ボタンを押した。そして期待に浮き足立ち理子が出るのを待つが、なかなか出ない。先ほどかけた時から職務中も妄想の世界にはまっていたせいか、呼び出し音を数回聞いているうちに甘い夢が萎み、少々苛立ち始めた。
「何やってんだ、さっきの電話でわかっているだろ。早よう出んか……」
携帯電話を握る手が震え出したところへ、理子の声が飛び込んできた。発信者が誰であるかわかっているのか、のっけから刺々しい声である。
「何よ、内線電話なんか寄こして。どうなっているの、こんなことになるなんて。私、嫌よ!」
まったく予想せぬ泣きに、面食らう。
「な、なんだ、いきなり、落ちつけ、どうした。筋道をきちんと立てて話したらどうだ。誘ったのは俺だぞ」
「そんなこと、どうでもいいわ。それより、どうしてくれるのよ。こんなことになっちゃって、困っちゃうわ!」
「だから、どうしたと聞いているだろ。せっかく気分よく、お前を抱いてやろうと思っているのに、この様だ」
「何を言っているの。あなたに抱かれる気分じゃないわ。それどころか、私、脅かされているのよ。そんなことになったのは、あなたのせいでしょ。なんとかしてよ!」
「脅かされている? いったい、どういうことだ!」
「だから、今言ったでしょ。あなたのせいで、もう勤められなくなっちゃうわ。あの陰険な記者。私たちの関係を記事にするって脅すの。そんなことされたら、会社の皆にばれて、いられなくなっちゃう。ねえ、あの記者、どうにかしてよ‼」
「どういうことだ?」
「どういうことって、嗅ぎつかれているのよ」
「嗅ぎつかれているって、俺たちのことがばれているのか?」
「そうよ、どうしてわかったのか知らないけど、証拠写真まで撮ったって言ってたわ」
「なんだと、写真に撮られている……?」
「そうよ、どうするの。あなただって、暴露されたら困るでしょ」
「当たり前だ、そんなことされたら、どうにもならん……」
またもや己に災難が降りかかる状況になり言葉に詰まるが、理子は構わず懇願する。
「もう付きまとわないように、あなたの力で抑えて。そうしないと、ああ、私、限界だわ。朝から晩まで毎日よ。もう、頭がおかしくなりそう。だから、これ以上あなたと会えないわ。私、死にたい!」
必死な頼みに、島谷は虚勢をはった。
「何を弱気になっている。そんなの突っ張れ、のらりくらりと応対すれば記事にならず、そのうち諦めるだろうから。な、そうしろ」と、意味不明な励ましをした。
「そんなことできないわ。助けて、お願い……」
語尾が途切れ、電話が切れた。
「ううん、なんだ。切りやがって」
まったく、これじゃ下半身も意気消沈だ。それにしても、しばらく息を潜めていたが、理子に喰らいついて追い込んでいたとは。くそっ、汚ない奴らだ。
しかし、困った。奴とのことが公になれば、静かになった大衆がまた騒ぎ出すだろう。理子がどうなろうとかまわんが、こっちに火の粉が飛んで来ちゃかなわんぞ。なんとかせねば……」
傲慢な好色の笑みが消え、一抹の不安が忍び寄るのだった。
それから一か月が経って、夜の銀座で腕組むミニスカートの若き愛人と腕を組み、ふらつきながら立ち止まっては、熱く抱擁する鳥谷が連写され、週刊誌ペケポンに暴露されたのだ。
すると各テレビ局が一斉に取り上げ始め、モーニングニュースで芸能記者が得意気に語り、さらにイブニング番組の夕焼けタイムでも、『血税に巣喰う天下り官僚と肉欲相まみれるエロスの世界。相手は二十歳の小娘?』と誇張して報道された。
まさに最悪である。それからというもの、ことあるごとにテレビ局の担当アナや週刊誌の記者に付きまとわれ、マイクを向けられては辛辣な質問が飛んでくる事態となった。彼はその都度、ほうほうの体で逃れた。こんな報道が続けば、理事長としての立場が危うくなる。
やがて、沈静化していた天下りとわたりの実態解明へと飛び火して行ったのである。
鳥谷は、窮地に追い込まれていった。
「くそっ、なんてことだ!」臍を噛むが、狡賢く腹の内で嘯く。
迂闊にも理子と抱擁しているところをスクープされるなんて、思いもよらなかった。つい気が緩み、大胆に振る舞っていたのがまずかったか。この際、体調不良を理由に病院に逃げ込み、勤め先の方はしばらく休むとするか。それなら、奴らも追って来られないだろう。こんな時、頼みの安城先生さえいてくれれば、うまく火消しが出来るものを。今じゃ、それも叶わない。どうしたらいい……」
顔に落胆の皺が刻まれた。
どうしたものか。このままだんまりを決め込んでも、この勢いだし、二度目だ。そううまく終息できないだろう。
鳥谷は暗い淵に落とされてゆく思いでいた。そして、病気を理由に出社しなくなってから、一か月ほど過ぎても一向に収まる気配がなく、彼に対する弾圧が激しくなっていた。もちろん、理子に対する取材攻撃も激しさを増し、結局、職場に居られず、逃げるように退職した。だが、それで彼女に対する攻撃が収まったわけではない。連日、自宅や外出先へテレビ局や週刊誌が追いかけまわす事態となった。終いには精神的に追い込まれ、逃げ場を失い、自らの命を絶つ道を選んだのである。
その間、鳥谷は彼女を救う手立てはなにもとらなかった。だんまりを決め込んだのである。そんな責任回避の行為にも、テレビ報道は彼を攻め、彼女の自殺の原因を『高級官僚の天下り利権と権力による餌食となった、哀れな女の結末』と報じ、『使い捨ての愛人自殺』として弾圧されるに至ったのだ。
鳥谷は、いよいよ八方塞りとなった。
報道は日々悩む彼を、真綿で締めるように追い詰める。当然ながら、引き籠る自宅へも昼夜問わず記者たちが押しかけていた。困惑し、閉口したのは家族である。本来ならば鳥谷自身の問題で、妻や子供には関係のないことである。だが、世間の目は一蓮托生と捉え、追及の矛先を家族に向けた。最初に悲鳴を上げたのは、一人娘の育代である。彼女は独身だったので、結婚しないのは「鳥谷が血税の甘い汁を吸い、そのお裾分けがあるからだ」と、因果の如く記事にした。まさしく嫌がらせ以外のなにものでもない。やがて育代は精神的に追い詰められ、情緒不安定になり寝込んでしまっだ。それに輪をかけて叩かれたのが、妻の幸子に対する誹謗中傷であった。
「キャリア官僚の妻で、なに不自由なくのほほんと甘い汁を吸って贅沢しているから、貧乏人に疎まれ、恨みを買うんだ。そんな輩は渡りの極悪人と同罪だ。天誅を下してやる。思い知れ、この恥じ知らずの売女が!」
こんな嫌がらせの手紙が、自宅のポストに投げ込まれた。それも一度ではない。執拗に続けられた。
確かに、幸子は彼の妻であり、それなりに収入があり、上品な身なりをしているが、質素な生活を心がけていた。だが、妬む世間から見れば、高級住宅に住み贅沢な生活をしているように映った。けれど、それは家族にしてみれば、とんだ誤解であり、普通の生活をしていたにすぎない。
鳥谷は、不正をして金を得たわけではない。誰でもがなれるわけではないキャリア官僚になり、至難な道程でライバルを蹴落とし、這い上がってきた。凡人にできることではない。その行いの善し悪しは別として、彼にしてみれば、努力して勝ち得たという思いが強い。その虚栄心を、マスコミは潰そうとした。
鳥谷に対する誹謗中傷は今に始まったものでない。その経験から、いわば打たれ強さがあったが、彼女たちにはあまりにも強烈すぎた。妻と娘は立ち直れなかった。まず、娘が精神的なストレスから現実と夢が重なるようになり、その怯えから発作的に梁に吊るした帯に首を架け、自ら命を絶った。妻の幸子は、育代が狂ってゆく様を目の当たりにしていたことで、自身も不安定さを抱えながら、身を削って看病してきた矢先の出来事に大きなショックを受け、娘の首を吊る姿を見た瞬間、絶叫し卒倒した。
雨降る朝のことである。
つんざく悲鳴に、鳥谷は思わずコーヒーカップを落としそうになった。変わりゆく家族に不安視していたことが、それが現実となった悲鳴だった。震える手でカップを置き、おどおどしながら育代の部屋に入ると、ぶら下がる娘と泡を吹いて倒れている妻がいた。それを見て、鳥谷は足が硬直し、全身を大きく震わせた。
「ううう、なんてこった。育代、幸子……」
あとは言葉にならない。腰がなえ、立っていられなかった。
「なんてことだ……」その場に、へたり込んでいた。
翌々朝、各紙朝刊トップに、育代の記事が載った。
「甘い汁を吸う元キャリア官僚、家族の崩壊か?」
鳥谷の家の写真と鳥谷自身の顔写真が掲載され、育代の自殺に関して、お悔みの決まり文句に続けて原因がなんであったか記され、遠因として現代社会におけるマスコミの過度の取材と報道を批判し、さらに公益法人に天下りする官僚組織の在り方に問題提起するありさまだった。
この一件で、鳥谷らに対する攻撃が収まったわけではない。娘の四十九日法要がすみ、三か月が過ぎても、ちくりちくりと執拗に攻めた。それでなくても娘を失い、悲しみのどん底から這い出せず、食も細り、生きる望みすら失いかけている時にである。
幸子は耐えられなかった。世間の視線がすべて自分に向けられていると思うようになり、自室に引き籠り、テレビも点けず電気も消して、一人怯えきっていた。
その怯えが、弾ける事件が起きた。
見知らぬ発送者から宅急便で幸子宛に小包が送られてきたのだ。もちろん、幸子が応対したわけではない。その頃になると家事一切しなくなり、仕方なく鳥谷は人材派遣会社からホームヘルパーを派遣してもらい、日常生活を支えていた。ヘルパーの名前は福井智子、年は二十七歳である。受け取った小包を幸子に渡そうとしたが拒否された。
「智子さん、なんだか気持ち悪いから、あなたが開けてくださる?」
そう促され、躊躇せず小包を開け中身を見た。一瞬目が点になり、その小包を放り投げ、絶叫と共に尻餅をついた時、中から鼠の生首が飛び出して幸子の方へと転がった。
智子は「ぎゃっ!」と奇声を発し、目が空を舞い、泡を吹き倒れた。
鳥谷は、その顛末を妻の幸子から連絡を受けた。
「なんてこった!」
理事長室で執務中に、緊急連絡で事務職の女性職員が取り次ぎ、鳥谷に回した。聡子の要領得ない説明に戸惑いながらも、ことの重大さを認識した鳥谷は、震える手で受話器を戻し、秘書に事情を説明し早々に帰宅した。家に着いた時には、智子も意識が戻っていた。だが、妻を見て驚いた。幸子の様子がおかしいのである。本来であれば、彼を見れば大泣きするか、すがりついてくるはずである。ところが、鳥谷を見て笑っていたのだ。
そして、発した一言に異常さを感じた。
「あら、あなた。今日は早いのね。そうそう、今日は私の誕生日ね。それで早く帰ってきたの?ありがとう。それじゃ、早速パーティーを始めましょ」
尋常ではなかった。へらへらと微笑む妻を見て愕然とした。そんな様子を見て、戸惑いつつ智子が幸子の手を取った。
「奥様、どうなされました?お疲れのご様子ですので、少しお休みになられたらどうですか?」
すると、幸子は毅然と、
「何を言っているの、まだ五時よ。夕焼けチャイムが鳴ったばかりじゃない。さあさあ支度してちょうだい。パーティーの準備をして。早く!」
だが、すぐに視点の定まらぬ顔となり、口元から一筋の涎が糸を引いた。鳥谷は、妻が精神に異常をきたしたことを悟った。
「おお、わかった。さあパーティーだ。福井君、準備してくれ」
「は、はい……」
躊躇していると、鳥谷が妻に促す。
「少々時間が係るだろうから、それまで寝室で休んでいなさい。わかったね」
「ええ。なんだか疲れちゃった……」
そう生返事をし、智子に支えられて居間を出て行った。
鳥谷はそれ以来、まともな妻の笑顔を見ることはなかった。寝込んでしまったのだ。
それから一か月が経ち、二か月が過ぎると、鳥谷の好色の光が宿りだす。下半身がむず痒くなり、妻を献身的に看病する智子の後姿が生々しく眼に映った。豊満な尻が揺れるたびに、欲情が頭をもたげてくる。ついに我慢が限界を超え、頭に血が上り、気がつくと、台所で食事の支度をする彼女を背後から抱き締め、豊満な胸を鷲掴みにしていた。
驚いたのは智子である。
「きゃっ!」
悲鳴を上げ逃れようと、両手で鳥谷を突き放そうとしたが、無理やり抱かれ唇を奪われていた。なおも抵抗するが、鳥谷の強引さに負け、驚きが情欲へと変わる。そして、居間に連れて行かれ、情事が始まった。
鳥谷は、愛人を奪われ、娘を亡くし、さらに病状の妻を抱えるという状況で、心に鬱積が溜まっていた。その鬱積が爆発したのだ。
それ故、一度手を出せば垣根が崩れ歯止めが利かなくなる。一度交われば、あとは互いに求め合うようになる。鳥谷が事前に彼女の携帯にメールを入れ、帰宅してから情事に励んだ。智子も数度交われば後ろめたさも消え、幸子の目など気にならなくなった。それは幸子の振る舞いが常軌を逸し、正常に見えなかったからでもある。二人は、さらに溺れ、大胆になっていた。
そんなある日の夜こと、二人が大胆にも居間で絡んでいる時に、幸子がぬっと入ってきた。じつは、彼女が強い恐怖心に陥れられていただけで、まともだったのだ。
在ってはならぬ二人の行為を目の当たりにして、絶叫を上げ、泡を吹いて倒れた。それ以来、幸子は完全に狂った。
一週間もすると、どういうわけか、その悍ましい関係が三流週刊誌に漏れ、紙面を飾ることとなり、居たたまれず智子は鳥谷家から姿を消した。スキャンダルが公になると、鳥谷は強烈に叩かれ始める。
『国民の血税がこんな輩に注ぎ込まれているとは。恥を知れ、この渡り歩く助平元キャリア官僚が!』
論調は、手厳しかった。
一時は沈静化したかに見えた新聞やテレビ、さらに雑誌社がまたもや取り扱い始めたのである。特に講集舎の攻撃は凄まじかった。
河西は執念を持ってペンを走らせていた。あれから、何年追っかけてきたか。奴の由々しき振舞い。ことここに至っては、もう勘弁ならない。徹底的に暴いてやる! 天井を睨んだ目は怒りで燃えていた。
こんな醜態を晒す輩を放っておけるか。誰かがやらずしてどうする。このまま弱者が抵抗も出来ず、見過ごしていいのか。こんな不条理がまかり通る世の中で、誰かが鉄拳を加えなければならぬではないか。その役目、俺がこのペンでやってやる!
たぎる思いで、指が震えていた。
そして、数日後に発売されたウィークリーマガジンには、にやつく鳥谷の顔が表紙を飾った。見出しは『天下り元助平官僚、血税をがぶ飲みで色事に熱を上げる』となっていた。懲りぬ鳥谷のスキャンダラスな愛人問題を取り上げると同時に、キャリアとノンキャリア官僚の各省庁における組織実態とわたりを図表化し、その弊害を克明に記していた。
その具体的な天下り先として、各省庁所管の財団や社団法人の実態が掲載される。あまりにも多い公益法人の数。さらに、都道府県所管の公益法人が一覧表になっていた。合わせて三万五千ほどの法人である。これらの公益法人運営を賄う資金が、特別会計予算を担う血税だと指摘し、その額は年度で三百七十兆円の規模になると記す。
そして、これらの実態を、どのように調べられるかも解説していた。各省庁のホームページに載せられる資料の共通公開情報である。その一例を見ると、経産省や国交省の特例民法法人一覧。さらに厚労省の特例民法法人に対する立ち入り検査の実態についてなど、所管するすべての公益法人がわかる。
実態は似たり寄ったりの法人に驚くほどだ。例を示すと、国交省所管局等牽引として三十局があり、そこになんとか連合会、なんとか協会、連盟、財団、センター、なんとか機構と名の付く公益法人が雑草の如くあり、すべてに会長もしくは理事長がいて、その下に役員以下職員が連なる。さらに「役員の報酬及び退職慰労金規程」などが公開されている。
これらを整理引用して、官僚の天下りやわたりの実態を暴いていた。これが彼のいう第二弾である。もちろん、これですべてではない。限られた紙面に現状を示したまでだが、あまりにも知られていない法人実態を少しでも公にすることで、読者の関心を高めようと試みた。
鳥谷の悪行暴露もさることながら、これが反響を呼んだ。すると、意外な関心の高さに民法テレビの報道特番が挙って取り上げるに至り、熱を帯びていった。その矛先が、助平面で載った鳥谷へと向いたのである。再び彼はテレビ局や新聞社の記者に、昼夜を問わず追い回される羽目となった。
これには鳥谷も閉口した。夜の行動が制限されるのである。性に貪欲な彼にとって、これはこたえた。天下りやわたりを追及されても、のらりくらりとかわせる自信はあるが、こと愛人問題になると別である。極秘裏でも、比較的今まで自由に成し得たものが制限されるのだ。鬱積し、情緒不安になってくる。そこを、「あの女性とはどういう関係ですか、愛人ですか? いつからお付き合いしているのですか?」などと執拗に攻められ、鳥谷は参った。
辛辣な質問など受け流せばいいものを、ついかっとなり怒鳴っていた。
「いい加減にしろ。愛人を囲おうと、いつから付き合おうと、俺の勝手だ。お前らに追及される筋合いはない。いい加減にしろ!」
そう罵声を浴びせ、思わず向けられたマイクを手で払った。本来、どのようなことがあっても、手を出してはいけないのだ。おまけに、払ったマイクが相手の頬に当たってしまった。
マイクの平手打ちを受ける格好となって、記者が驚き問い質す。
「何をするんですか、鳥谷さん。今、暴力を振るいましたね‼」と、またマイクを向けられ、さらに頭に血が上り暴言を吐く。
「何を言うか。お前のマイクが邪魔だから払おうとして当たっただけで、暴力なんか振るっちゃいない!」
「いいえ、確かに振るいましたよね?」
「今、言っただろ。お前の顔にマイクが当たっただけだ。この馬鹿野郎!」
自ら墓穴を掘っていた。怒鳴る前に偶然を強調し詫びればいいものを、日頃の執拗な追いかけに辟易していたせいか、つい暴言を浴びせてしまったのだ。この状況を他の記者が見逃すわけがない。一斉にフラッシュが輝き、現場を捉えていた。
鳥谷はどうにもならなかった。誘い言葉に釣られたとはいえ、証拠写真まで撮られた。どうにもならなくなり、なお迫る記者らの質問を無視し、逃れるように車に乗り込み、その場を去った。もちろん、テレビ局もワイドショーで翌朝から彼の取った行動が由々しき問題と放映すると、世間の注目が鳥谷に集まり、愛人との関係や官僚の天下りの実態などが、赤裸々にヒートアップし報道されていった。
それから二週間後、ウィークリーマガジンに第三弾が特集で組まれた。そこで、さらなる財団、社団の公益法人実態が暴かれるに至った。その中心人物が、さも鳥谷であるかのような論調に、彼に対する誹謗中傷が書かれたものが勤務先や自宅に投げられた。もちろん、SNSやTwITTERでも拡散していった。
そして、ついに彼は外出すらできなくなり、自宅に引き籠ることとなり、ますます鬱積してゆき、食欲や性欲まで減退していった。
そんな彼に対する攻撃も、二か月も過ぎれば飽きがくる。そんな折、話題性のある芸能人の酒井法美が、覚醒剤所持容疑の事件を引き起こした。一斉に世間の目がそちらに向いた。危うく精神に異常をきたす寸前で鳥谷は救われた。安堵の相が顔に出る。
「ああ、助かった、やれやれ。一時はどうなることかと肝を冷したが、これで大丈夫だ。奴らや世間も、わしのことなど放ったらかすだろう。馬鹿な旦那に唆された酒井さんよ、ありがとうな。まあ、せいぜい世間を騒がしてちょうだい……」
不敵な笑いが戻っていた。そして、二週間が経ち一か月が過ぎると、報道は完全に報道は雲隠れする酒井法美を追いかけていた。すると、鳥谷の情欲がまたぞろ頭をもたげてきた。かといって、すぐに満たせるわけではない。今まで付き合った愛人は逃げ、智子は鳥谷家から姿を消していた。
智子のことがどうしても諦められぬ鳥谷は、秘書を通じて彼女の所属する派遣会社に連絡を取り、連絡先を調べた。以前の携帯電話番号は変えられ、不通となっていたからだ。早速、彼女に連絡すると、最初は驚き、けんもほろろに断ったが、そのうちあまりのしつこさに根負けしたのか、二人で食事をするに至った。その際は一、二度は手を出さず、非礼を詫び、情欲を押さえひたすら耐えた。
男女の仲は、一度機会を得ると垣根がなくなる。それからというもの、回を重ねるにつれ、存在する溝も埋まっていった。もとろん、鳥谷がそう仕向け、彼女の心が緩むのを待っていたのだ。
ある晩のこと、ホテル太谷の最上階ラウンジに誘い、高級ワインを勧め酔わせる。智子は、居酒屋や小料理屋とは異なる、優雅な雰囲気に呑まれ、酔った。鳥谷は予約しておいた部屋に、ふらつく彼女を導いた。強引に抱き締め、唇を奪う。上気した智子も応じ、その勢いでベッドへとなだれ込んだ。
「ああん、あん……」智子が悶え喘ぐ。
薄暗い部屋で、絡む鳥谷の脂ぎった額に汗が滲む。
「どうだ、気持ちがいいだろ。そろそろいいかい?」
「ええ……」
この反応に、鳥谷は完全に陥ちたと思った。おもむろに身体を離し、手を添え一つになろうとした時である。智子の喘ぎが止まった。
「ううん?」
鳥谷は、一瞬不可解に思い手を止めた。その時、脇腹に生温かいものを感じた。そして次に激痛が走った。最初はなぜそうなったのか理解できなかった。だが、彼女の手元を見た時、果物ナイフが己の腹に食い込んでいたのである。
智子の目が光り、両手で握ったナイフに力が入った。
「ぎええっ!」
鳥谷は絶叫を上げ、彼女の手を掴もうとした瞬間、智子は両手で鳥谷を押しのけた。その弾みで、腹を押さえベッドから転げ落ちた。
「ぐえっ、痛ててっ!」
激痛を堪え、ひん曲がる顔で吠える。
「とも、智子。どうしてだ、なぜこんなことをする……⁉」
床で海老のように身体を丸め、意識が薄らいでいく。彼女の顔がぼやけてきた。そこに追い打ちをかける一言が発せられた。
「あなたも馬鹿な人ね。いい年こいて女狂いしているんだから。私が忘れたとでも思っているの。あんなことがあって婚約解消になり、私の人生めちゃくちゃよ。その恨みを晴らしたまでよ……」
「な、何を言う。お前だって、その気になっていたじゃないか」
朦朧としながら反論し、毛布に包まる智子を捕まえようとした。
「ずうずうしい人ね、この助平じじいが。たとえあんたが死んでも、理事長の椅子は次のキャリア官僚が座るんでしょ。あんたなんか公益法人に巣喰って、私たちの血税を吸い、寄生虫のように生きているだけじゃない。特にあんたは、一度の天下りでは飽き足らず、わたりを繰り返してさ。ずるいったらありゃしない。早く、くたばりな!」
必死に掴もうとする鳥谷の背中を、ポンと蹴った。
「痛てて、うううっ……。なんだ、この売・女・が……」
そう呻きつつ、伸ばす手がだらりと床に落ちた。
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