第3話 好色
それから二か月が経ったある日、鳥谷はいつものように朝遅く出勤した。理事長室の椅子に座り、苦々しい顔で吠える。
「くそっ、なんてこった。よりにもよって安城先生が沖縄米軍基地移転問題でつまずき、突然辞任するなんて。それも就任時の施政方針演説で、偉そうに能書き垂れおって。それを見越して、多額の軍資金と女を献上し揉み消しをはかったのに、収まるどころかますます騒ぎが大きくなっているじゃねえか!」
さらに顔が曇り、腹内で喋り出す。
おまけに、愛人も露見してしまった。まさか三流週刊誌の記者にフライディ―されるとはな。ちょっとした気の緩みか、先生に頼めばなんとかなると高を括っていたせいかもしれんな。それで夜のほうも盛んになった。やはり迂闊だったかもな。あの夜、寺島が後部座席の窓を閉め、止まらず走っていれば振り切れたのに。まあ、しつこく記者に立ち塞がれては致し方なかったが……。
そして、運転手寺島への愚痴と移る。
それより寺島の奴ときたら、民子の次をすぐに差し出さん。挙句の果てにもったいぶりの言いわけをしおって、それでもってこれだ。何をぐずぐずしておる、寺島も付き合いが長いんだ。わしの性格を知らぬわけでもあるまい。それをじらすようなことをするから、ついかっとなって首にしてしまった。奴も素直にまともなのを差し出せばいいものを、繋ぎだとか言って間延びした年増女なんかを寄こして。長く運転手を任せていたせいか、図に乗っていたのかも知れん。週刊誌の暴露内容のもみ消しを急がなけりゃならん。長引かせれば、二段三段と何が出て来るか知れたものではない。とにかく、ここは早急に小池先生に相談するしかあるまい。
寺島を辞めさせた経緯を思い起こしていたが、電話をとってアポをとると、直ぐに席を立って車の用意をさせ出かけた。
渋滞する状況に、鳥谷は腕時計を見て新たな運転手にせっつくように言った。
「おい、吉田君。まだ着かんのか!」
「はっ、はい。少々混んでおりますので。今しばらくかかりそうですが……」
「時間がないんだ、なんとかしろ。抜け道ぐらいあるだろ」
「すっ、すいません。不慣れなもんで、申しわけございません……」
「しょうがねえな。こんな時に遅れるわけにはいかんのだ。約束時間までに着けるように、どうにかしろ!」
急く鳥谷は後部座席で青筋を立てていた。吉田は気難しい蒼白い顔で前方を直視しハンドルを握っていた。
車内が重い空気に包まれ、沈黙が続く。のろのろ動いては止まり、そしてまた走り出す。歩道を歩く人波が、嘲り笑うように追い越してゆく。そんな情景を車窓から苦々しく窺い、イライラが頂点に達っした時、思わず下腹に力が入り、勢いよく屁が出た。
ぶぴっ!
途端に悪臭が充満した。吉田の顔が歪になるが、無言で堪える。
「すまん。昨夜食ったものが腹にこたえたかもしれん。どうも調子が悪いんだ。勘弁してくれ」
鳥谷は、バツが悪そうに謝った。
「い、いいえ。どういたしまして……」
吉田は苦し気な返事を返した。すると鳥谷は何気ない顔で窓を開け、悪臭を逃がし始める。新鮮な空気が入り、大きく息を吸って告げる。
「吉田君、君に運転を任せているのは、言うまでもないが、どうだね、あっちの方の手配は上手くいっているかね?」
吉田が好色そうな顔をして小指を立てる。
「は、はい。手配しておりますので、いつでもよろしゅうございますが…?」
鳥谷はさらに助平顔になり皺が緩む。
「そうかね、それならそうと早く教えてくれんか。気になっていたんだ」
「それは申し訳ございません。理事長さんもお忙しそうで、つい言いそびれておりました。それと、世間を賑わしておいででいらっしゃいますから……」
ためらいがちに答えた。すると、にわかに鳥谷の口元が引き締まった。
「そうなんだ。その火消しを頼むのに、民民党の小池先生に合わなきゃならんので、急いでいるんだ。どうだ、まだ着かんか?」
「はい、もう直きです……」
「分かった」頷くと、携帯電話を取り出し電話をかける。
「松嶋君か、 わしだ。今、議員会館に向かっておるが、渋滞に捕まってどうにもならん。先方に着くのが遅れそうだ。すまんが君のほうから小池先生に連絡しておいてくれんか。そうだ、用件は分かっているな。こんな状態だ。了解をとっておいてくれ。
何、直接先生に電話していいかだと。馬鹿なこと言うんじゃない。先生にではない、秘書の宇田川君に連絡するんだ。そんなの常識だろ。わしならともかく、ただの総務部長の君が連絡するんだぞ。よく考えろ!」
いらつくように、言葉が尖っていた。
「ああ、そうだ。ううん、頼むぞ。丁重にな」
電話を切ると、おもむろに煙草に火を点け、深く吸い込んだ。そして、運転手に声をかける。
「吉田君、さっきの話だが。先生にお願いすればカタが付くだろうから、ぼちぼち次の女を準備しておいてくれんか」
バックミラー越しに窺っていた吉田が、急に振り返り似たり顔で返事をした。
「はい、わかりましたです!」
「おい、君。危ないじゃないか。わざわざ振り向かんでもいい!」
「あっ、すみません」
吉田は正面に向き直り、恐縮して詫びた。
「あの……、段取りはすでに整っておりますので、いつでもお声がけくだされば」
「そうかね、で、どんな娘かな?」
好色そうな声が吉田の後頭部に煙と共に飛んできた。
「は、はい。年は二十でございます……」
「何っ、そんなに若いのか。まさか騙しているんじゃなかろうな?」
声に少々の驚きが含まれる。
「いいえ、とんでもございません。理事長様を騙すなど滅相もございません。決してそのようなことは……」
「いやいや、わしではない。その娘の方だ。なんとか言い繕い、そそのかしているんじゃないかと思ってな。小娘とはいえ、成人していれば法的には問題ないだろうが、道義的なトラブルは避けにゃならん。後で騒がれたら困るからな」
「その辺は、充分言い含めておりますので、ご心配なく」
「そうか、それならいいが。まあ、今日明日というわけじゃない。よく躾けておいてくれ。頼んだぞ」
「かしこまりました」
色事を妄想していたのか、約束時間の遅れなどどこかへ飛んでしまったようだ。そうこうするうちに、議員会館前に到着した。
「理事長、着きました。大変遅くなり申しわけございませんでした」
吉田は運転席を降り、後部ドアを開けて深々と頭を下げた。仏頂面した鳥谷が、「うん」と頷いて降り、表玄関に向かって歩き出した。吉田は頭を下げ、遠のく足音を聞きながら思った。
しかし、ないをすっととか。こんな時に、よくも平気であっちのことば考えよる。社会保険料不突合問題で頭を叩かれ、女のこつで週刊誌にすっぱ抜かれより、火消しをせにゃならん時に。まっこて大したもんせ。ほんのこつ、情事どころじゃなか。やっぱり大物ちゅうか、キャリア官僚で天下りを何度も繰り返しっちゃ、図太てえっちゅうか、妙なところで肝っ玉が据わっちょるばい。
つい気が緩み、お国言葉になっていた。
そして二週間もすると、鳥谷は吉田の段取りで二十歳の理子に熱を入れ始めた。好色の成せる技で、高級ホテルに連れ込み溺れた。理子は連合会の総務部に籍を置く事務員であるが、若さ故、抱かれる度に貢がれる小遣いと、買い与えられる高級品に目が眩み、これまたのめり込んでいた。
ある夜、契りを終えたベッドで、その余韻と共に理子の尻をまさぐっている時、不意に現実が甦り、己を陥れた犯人の追及に意識が向かった。
しかし、誰がチクったんだ。それも実名入りで、あることないこと誇張し、わしを売った奴は。まさか、うちの職員じゃないだろうな。いや、わからんぞ……。すると、さらなる疑念が膨らんできた。
この社団法人も天下り受け入れ専門法人だから、職員らにとってはおもしろくない。特に若い連中や中間管理職は、役員への道が完全にないからな。昇進してもせいぜい部長職止まりだ。それもごく一部の者しかなれない。となれば、落ち零れた職員はどうする。さらに中間管理職は、責務に見合う給料を貰ってはいないだろう。しかも、不満だからといって他の公益法人に移ることはできない。となれば諦めが先に立ち、それが憤慨へと成長する。それがさらに増幅すれば被害者意識すら生じよう。となれば、チクリの犯人は……。よもや我が社の不満分子ではあるまいか。
さらに、悪しき方へと膨らむ。
これだけ世間の関心が高まり騒がれていれば、報道番記者らが放っておくまい。視聴率稼ぎや購読数拡大に躍起となって、大衆受けするネタを探し廻るだろう。その標的としてわしが目に留まれば、三流週刊誌記者が、あの手この手で取り込んでくるだろう。そうか、うちの誰かが奴らの餌食になって情報を漏らしているんだ。そうでなければ、こんな詳しくリークされるはずがない。
疑念が邪推へと進み、真顔に戻ると苦々しげについ口に出てしまう。
「くそっ、それにしてもいまいましい。いったいどいつだ。誰がチクったんだ。この際、人事部長に調べさせるか。だが、わかったところで首にするか左遷ぐらいがオチだ。それより、人事担当役員を脅すほうが面白いかもな。そうすれば、奴も他へ渡れなくなり一巻の終わりだ。見せしめにはちょうどいい」
そこまで邪推し、気色悪いニタリ顔へと表情が変わった。
わしに逆らえば将来が無くなると思えば、危機感を募らせ、部下を強力に締めつけるだろう。そうなれば不平不満も身の内にしまい込み、巧妙に聞き出そうとする記者連中に、硬く口を閉ざす。わしもこれ以上付き纏われ、詮索されるのも難儀だからな……。
思いは己の都合のいいほうへと及び、止めていた指を理子の身体にそわせ再び動かし始めた。すると催してきたのか、理子が鼻を鳴らす。
「ねえ、焦らさないで。もう駄目、また感じてきちゃったわ。あん……」
「そうかい、お前も好きだな……」
脂ぎる頬が緩んでいた。
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