第2話 甘い汁
揺れる後部座席で、腹を突き出し背もたれに首をかけ深々と座る、ずんぐりむっくりの鳥谷鉄平が、掛けている眼鏡越しに、にたりと薄笑いを浮かべた。日日経済新聞の最終ページ下段に載る、ダイエット広告のビキニ姿の女性にではない。昨夜の情事を思い出してのことである。
鳥谷は迎えの専用車で、厚労省所管の社団法人「全国社会保険協会連合会」に通う小一時間余りの間、一面から目を通し、最終ページの『私の経歴書』と、連載ものの高山長治作『己が命捧げ報いよ』を読みふける。しばらくして風当たりの強い世論の目を避けるように、首都高速の渋谷出口から降り、連合会事務所のある二十五階建てビルの地下駐車場に、少々遅れ気味に到着することになる。
日常の職務遂行の中で、彼にとっての関心事、すなわち頭を悩ませているのが、元いた社会保険協会への風評であり、輪をかけキャリア官僚へのわたりすなわち天下りに対する執拗な追及であった。
『ここまで巣食う厚労省との癒着』、『天下りによる渡り利権か?』、『甘い汁を吸うキャリア官僚の醜態』と、ここ二か月ほど彼の顔写真入りで批判記事が出る始末となった、その中で、本省年金局長退官以降の天下り経歴が暴かれたことで、にわかに脚光を浴びるに至ったからだ。
不景気で新卒者の就職内定率が過去最低となる中、国民の目がこの癒着記事に向いているが、天下りは今に始まったことでない。
「それこそ、昔から続いていることだ」
「それに、わしの所管省以外にも、他省の公益法人幹部職は、ほとんどがキャリアの受け皿先になっている。そのために、公益法人が存在しているようなものだ」鳥谷は自分本位の御託を苦々しく口走る。それも被害者のごとくである。さらに収まらぬのか、
「それなのに、無駄遣いだのなんだのと社会的批判の高まりに絡んで、野党の連中が特別委員会質疑で、よりにもよってわしを遣り玉に挙げ、これ見よがしに追及する始末になった。まったくもっていい迷惑だ。それにしても、講集舎の河西というのはどんな奴だ。三流雑誌記者が調子づき、痛くもない腹を探るとは、忌々しい」
さらに被害妄想となり、「そういえば、テレビ局も汚い手を使いやがって。わしが晒し者にされたことで世間の目が向き、ここぞとばかり視聴率稼ぎに飛びついた。巧妙な取材攻勢で、迂闊にも口車に乗せられ、オフレコのはずが放映されてしまうとは……」
昨夜の情事の余韻でひと時にせよ頭から消えていたが、再び悩みの種が呼び戻されると苦々しい顔となり、つい舌打ちした。「なんでわしばかりが責められにゃならんのだ。まったくもって忌々しい限りだ」
そんな世間の騒ぎの中、悶々と数日を過ごしてきたが、以前にも増して車中で臍を噛む鳥谷がいた。
「わし一人が、悪者になるなんてとんでもない。まだ批判の的になっているようではかなわん。これじゃ、ほとぼりが冷めるまで次の余禄先へとわたるのは無理だな。それに、これ以上拡大しては、わしとてただではすまん。所管省へ飛び火すれば政争の具にされ、最悪トカゲの尻尾切りになりかねないぞ」。
唇を噛み邪推するが、直ぐに脂ぎった顔が緩む。
確かに、スクープされた時は勤務先にクレームが殺到したが、なんとか凌いだ。広報担当役員を盾に予防線を張り、民民党の族議員先生の力添えで、役所にも手を打っておいたからな。
参議院の選挙を控え、これ以上騒ぎが大きくなってはならん。それでなくとも、民民党や安城内閣の支持率が急低下している時だ。あまり突っ張ってもしょうがないし、ここらが落としどころだろう。今まで甘い蜜をたっぷり吸わせてもらったんだ、隠居させられる前に一年分の報酬返納でお茶を濁し、今回は幕引きとさせてもらおうか。そうすれば、先生の面子も保てるしな。
それにしても今の連合会にきて早二年近くになるし、そろそろ次の天下り先へと目論んでいたところを書き立てられては、少し大人しくしているしかないな。まあ、人の噂も七十五日というから、半年もすれば冷めるだろうて。その際には、青写真どおりの路線に乗り、粛々と渡っていけばいい。
都合のいいことを腹内で呟くが、疑問符が浮かぶ。「いや、ちょっと待て。どうしてわしばかりが割を食う……」すると、欲得の思惑が疼き出す。
「見てみろ、他の奴らは誰も槍玉に挙げられることなく、ぬくぬくと天下っている。どうしてわしばかりやり玉に挙げられるんだ」
その挙句、開き直り気味に悪知恵を働かす。
「そうはいかんぞ、ここで軍門に下ってなんとする。それなら、旧省庁時代に築いた人脈を使い、分のいい先を確保して利息分まて取り返してやる」
「官僚時代は、新規事業を立案し、予算付けして公益法人を新設し、天下り先を確保することが優秀な官僚の要件になっていた。それを税金の無駄遣いなどと馬鹿な政党議員が騒ぐから道草を喰うことになるが、与党の先生方も選挙が近づけば、官僚組織に頼らざるをえんのだ。ここは国民の目を欺いてでも、反省の意を表わしておかにゃあならんからな」
狡賢く思案しつつ、ほくそえむ。
「まあ、それにしても暴露された年収額が、あれだけでよかった。それとて渡り続けた総額の四十%にすぎん。野本君も大変な時に大臣になったもんだ。彼もわしと心中する気はねえだろうから、あとはのらりくらりと答弁してもらえばいい。そこのところを怠りなく頼みますよ」
そこまで邪推が膨らむと、さらに顔が崩れた。そして、鉄平の視線が掲載されているエステ広告の若き女性の肢体へと移って行った。
高山長治作の賢きカラスの復讐劇もスリリングで面白れえが……それにしても、いい女だ。いい身体しておる…」助平顔が色香の鼻息に包まれ始める。
すると、先夜の民子との営みが浮かび、にたり顔が赤らんだ。運転手の寺島に気づかれぬよう冷静さを装ってバックミラーを覗くと、そこには彼の好奇心の視線が執拗に窺っていた。照れ笑いをすると、「ご馳走様です……」と寺島の好色声が返ってきた。
苦笑いする。
「年をとっても、あっちの方は止められん。まあ、こんなことを話すのも君だけだ。そこは分かっているだろうね。他言は無用だぞ」
「ええ、もちろんでございます。心得ております」
「そうしてくれ。ところで、君との付き合いも長いが、どれくらいになるかな。魚心もあれば水心もあり、あんじょう頼むぞ」
「あっ、はい。本省の年金局長の時からですので、おおよそ十五年になります」
「そんなに、なるか……」
「はい、局長時代から社会保険協会、次に厚生年金事業振興団、そして今の保険協会連合会の理事長へとご栄転される都度、お仕えさせていただいております」
「そうだったな。わしも車の運転には、安全第一と心がけている。渡るたびに変えたんでは大変だからな。それでつい我が儘いわせてもらい、君を連れてきているわけだ。君には、たびたび職場を変えさせ、すまないと思っている」
「何をおっしゃいますか。私の方こそ感謝せねばなりません。それでなければ、もうとっくにお払い箱になっておりますから。理事長、本当に有り難うございます」
「まあまあ、礼などいい。これからも安全第一で頼むよ。それに、あっちの方もな。ただし、このことは今までどおり内密にしてくれ。よろしく頼むぞ」
「お任せください。決して他言などいたしません。理事長のご恩を仇で返すような不届きは、この命に代えましてもいたしません」
「それは頼もしい。これからもちょくちょく会うことになろうが、うまく取り計らってくれ」
「かしこまりました。ところで理事長、次の予定でございますが、彼女も寂しがっているようでしたので、今週末あたりはいかがでございましょうか」
「うむ、急に勧められてもな。この年だ、ついこの前抱いたばかりだ。……しかし、そんなに欲しがっていのか?」
「はい、ことあるごとに催促されまして。どうにもこうにも、これ以上お預けを喰らわしては、彼女のことです男を狩りに何処かへ飛んで行きかねません。そこのところを、お察しくだされば……?」
「なんと、しょうのない奴だ。それじゃ、週末にでも抱いてやるか。君の方で手配してくれんか。食事は神楽坂の料亭がいい。ホテルは虎の門の太谷のスイートルームを取ってくれたまえ」
助平そうに目尻が下がった。
「かしこまりました。いつもの段取りで手配いたしますので、充分英気を養っておいてくださいませ」
寺島の促しに、欲情が膨らむ。
「まあ、仕方ないか。民子のためだ、鰻でも食ってスタミナをつけとくか。まったく世話の焼ける女だ」
表向き屁理屈をこねるが、心内では舞い上がっていた。バックミラーからそんな鳥谷の様子を寺島が狡賢そうな目で窺っていた。何の因縁か、彼は鳥谷の情事相手との仲介役を担っていたのである。
寺島が時折、ミラーを覗き見る。「そうだよな、安全第一などと理屈をこねているが、民子だって俺が理事長に献上したんだからな」
屁理屈をこねながら、寺島が理事長のお抱え運転手で長くいられるのも、こんな芸当を心得ているからだろうか。このことは鳥谷にとっても都合よく、自身それだけ己の欲望を満たせる立場なのだ。
「しかし、民子で何人目になるやら…」
「社会保険協会の理事長時代、あの頃からだ。民子の前は美由紀だったか。高級クラブのナンバーワンホステスの彼女を口説き、ドンペリで酔わせてホテルへ連れ込ませた。理事長の女好きはすぐにわかったからな。それも半端じゃない、無類ときてら」
「ただ、厚労省から天下った当初の日本国民年金協会会長の時は、金に物をいわせ、特定せず二、三人の女を囲っていた。今より十五くらい若い頃とはいえ、五十過ぎだぞ。それが六十過ぎても、一向に衰えないってんだからたいしたもんだ。とても太刀打ちできねえな」
「まあ、俺のことはいいが、お役所勤めの頃は高級官僚として辣腕を振るってきた輩だ。地位を乱用して己のために権益を利用するのは当たり前で、それが結局、私利私欲に走らせ、キャリア官僚の特権を最大限活用するに至るわけだ。まともな神経の持ち主じゃ、こんな芸当はできん。それにしても、よくも渡り歩いたもんだ。でも、言ってみりゃ、この俺もイソギンチャクのように、それにくっついて。まあ、理事長の好色のお蔭というもんだぜ」
そこで、ふと思い出した。「そういいえば、民子をあてがってから何年になるやら。今は熱を上げているが、いずれ飽きがくるだろう。そろそろ次を探しておくか、わたりと同じですぐに新しい娘に気が移るからな。その辺を心得て仕えんと、いつお払い箱になるかわからん。
そんな互いの思惑を乗せ、鳥谷を乗せるクラウンがラッシュ時間の過ぎた首都高速道を渋谷に向け走っていた。
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