わたり サブタイトル天下り

高山長治

第1話 俺と言う男

俺の苗字は、河西と言う。華奢な身体つきで、中肉中背である。これでも学生時代には、一年を通して山に入っていた。したがって体力には自信があり、登山で鍛えられたのか、打たれ強い精神力を持つに至った。社会人になっても、この打たれ強さが役に立っていると思う。

まあ、俺の自己紹介は、これくらいにしておこう。

職場での河西の仕事は、朝九時から夕方五時の定時間勤務の事務職とは異なり、毎日昼夜の区別がないほど忙しい。もちろん、土、日曜日や祝日もきちっと休めず夜遅くまで働く。他の職場仲間も同様で、それが定番化しているのが現状である。

それでも合間をぬって、仲間と居酒屋に立ち寄り深酒をして憂さを晴らす。そんな不規則な生活だが、気概でカバーしていた。だが、どうにも満たされぬ思いが心の奥にあった。社会人になってから山に入ることがほとんどなくなった。さもあろう、仕事が仕事だから致し方ない。

こんな職場環境では、趣味を生かせと言うのが無理な話だ。したがって、今ではこれといった趣味を持たない。それ故、晴れぬまま自宅と職場の往復に居酒屋通いが加わり、深夜帰宅が常となっていた。

そんな折、大学の五年先輩で、同じ会社の経理部に所属する谷口先輩から、たまには付き合えと誘われた。新入社員として営業部に勤め、二年が過ぎた頃だが、ひょんなことから知り合い、誘われることとなった。居酒屋で酒を酌み交わす。

「河西、お前の日頃の仕事ぶりを垣間見ていると、よくそれでおかしくならねえな。息抜きもせず、くそ真面目に朝から晩まで仕事に打ち込んでよ。それに休日も会社に来ているらしいな」

「ええ、そうでもしなけりゃ他の仲間に追い着けないし、それに上司の期待に添えなくなるものですから。そんなんで、自分としては一生懸命やってる心算なんですが、どうもすっきりしないんですよ。こんなのは悩みのうちに入りませんが、何かもの足りない気がして。少々焦り気味で切羽詰まると言うか、こんな生活の仕方でいいのかと悩むと言うか、それで前々から如何すれば良いのか、なんとか時間をやりくりしてでも、何か新しいことをやろうとは考えているんですがね……」

思い悩んでいることを打ち明けた。すると、見かねたのか先輩がアドバイスする。

「そうかい、それなら職場も含めた生活パターンが、惰性になっていないか振り返ってみたらどうだ。俺もお前も、一日に二十四時間しかないんだ。自分の現状が惰性に映るなら、思い切って区切りをつけなきゃ、うだうだしていたら何時になっても変わらんぞ。日常生活にはメリハリが必要だ。だから俺は釣り同好会の活動で、仕事と私生活を切り替えている」

「どうだ、今度、俺らと川釣りに行ってみないか、気分転換になるぞ。仕事を離れ釣りに専念する。特に大物が釣れた時は、大いにストレス解消になるからな」

「お前のように四六時中職場のことを考えていたら、解消する良いアイディアなんか浮かぶわけねえだろ。たまには、心も身体も切り替えが必要なんだ。オートメーションの機械じゃあるまいし。まあ俺の場合は、仕事のことなど真剣に考えてやってねえから、切り替えも何もないがな」

「へえ、そんなもんですか」

「いや、仕事のことを真剣に考えていないと言うのは少々オーバーだが、区切りはきちっとつけて取り組んでいるつもりだ」

「そうですか、先輩の生き方のような経験がないのでわかりませんが。でも、私のように、未経験の素人でも川釣りなんかできるんですかね?」

「ああ、俺が指南してやら。まあ、たとえりゃ、女の子を陥す時と同じ要領だ」

「なんですか、それ?」

「お前だって、自分のものにしようと真剣になるだろ。手を変え品を変えてよ」

「ええまあ、そうなりますが…」

「その感覚で挑戦すればいいんだ。ただ相手があり、駆け引きがあって簡単にはいかんがな。まあ口説きと同じで、たまに遊ばれるときもある。ダボハゼと違って、相手も賢いからな。駆け引きが重要な要素となり、真剣に向き合わなければ勝利はない。それが釣りの醍醐味だ」

「そうだ、近々行くからお前も来いや」

「は、はい。お供いたします」

三年ほど前になろうか、河西はそんなきっかけで釣りを始め、先輩の手ほどきを受け、釣れる度に感動し、何度か同行するうちにその魅力に取り付かれ、次第にのめり込んでいった。

そんな中、霞ヶ関川での大物狙いに目が向いていた。

波打つ水面に向かい、釣り糸の先に付けた針と重石を小波の湧く川面に投げ入れる。勿論、わたりと言う好物の餌をたっぷりと付けて。

官僚の天下り実態暴露という釣果を目論みながら、しばらく竿先に神経を集中する。すると、あたりに続きググッと釣り糸が引かれる。と同時に、俺は反射的に勢いよく釣竿を天空へ立てる。と、釣り糸がぴんと張り、竿先が水面に突き刺さるほどしなった。さらに、それに抵抗するように釣り糸が引かれ、竿先が水面すれすれになるも、ぐっとこらえ手繰り寄せると、波立水面に、ドングリ眼の大きな口を開けた、巨魚の黒い腹が浮き上がってきた。

「おおっ、やった!」

河西は、大物を釣り上げていた。

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