第44話 信念の……色3
研究棟の中は予想通りにひっそり閑としていて、ほとんど
すでに施錠済みで電気も消えた自分の研究室の前を急ぎ足で通り過ぎる。何度となく歩いた恭介の研究室までのほんの僅かな距離にさしかかったとき、隣を走っていた蘇芳が「あ」と小さく声を上げた。
なに、と訊こうとした瞬間、ものすごい力で前に引かれたような感覚が走った。同時に、薄暗かった廊下が完全な闇に包まれる。辺りにあるはずの物の気配も完全に塗りつぶされたような、異様な閉塞感が全身を襲った。咄嗟に周囲を見渡すが、おれの妖の目ですら、ほんの僅かな光さえも見つけることができない。何もない。誰もいない。そして、誰からも見つけてもらえない。もう感じなくてもいいと思っていたあの感覚に、ずるずると引き摺り戻されるようで声を振り絞ろうとする力さえ奪われていく。途方に暮れかけたとき、背後からいきなり頭のあたりを叩かれた。
「……
咄嗟にそう言って、それでやっと声の出し方を思い出したような気がした。
「あ、いましたね」
姿はまったく見えないが、聞きなれた声が隣で響く。
見えないくせに、こんな雑な力技で何度だっておれを見つけ出す。そういう奴が隣にいることを思い出したら、なんだか妙にホッとしてしまった。たぶん相当情けない顔をしていただろうから、今だけは表情の見えない暗闇がありがたかった。
「ほかにたしかめ方ないのかよ……」
「たしかめ方悠長に選んでる場合じゃないでしょ。彩さんの頭が
さすがにいつもどおりとはいかないが、おれに比べればずいぶんと落ち着いた声だ。蘇芳の声の温度を染み込ませるようにすっと息を吸い、目の前を覆いつくすのっぺりとした無表情の闇の向こうに届くように、おれは声を振り絞った。
「…………恭介……! そこに、居るか……?」
声も、声を形作る僅かな振動も、すべてを吞み込んでしまいそうなどこまでも続く無彩色。床の感触すらおぼつかない足元をなんとか前に進めようとしたとき、遠くの方から苦し気な声が聞こえた気がした。
「……あや……来ないで」
聞いたことのない、弱弱しくて、泣き出しそうな声色だった。でも、聞き間違うはずがない。恭介が呼んでくれるおれの名は、どんなときだって優しい響きがする。
「恭介!」
走り出そうとするおれの足元がぐにゃりと歪み、踏み出そうとする力を奪う。まるで恭介の意思を反映するかのように、確信的に行く手を遮る。
「…………おれが、悪いんだ。彩を巻き込みたくなかったのに…………。おまえのこと、ちゃんとわかってると思ってたのに……」
振り絞るような苦しげな声に、締め付けられるような心地がする。早く恭介の元に行きたいのに、ひとりで苦しませたくなんてないのに、この闇は恭介に向かうすべての道を塗りつぶしている。悔しさに噛みしめた鋭い牙が、唇に食いこんだ。
「不安で……焦って……苛立って……おれが弱いから、こんなことに……!」
「恭介!」
姿の見えない、恭介の悲痛な叫びに共鳴するように、色喰いの妖力を凝縮したような暗闇が
力の入らない足を地面から引き剝がすようにして、一歩ずつ前に、恭介の元に進む。
「……ちがうよ、恭介。弱さは『
喉の奥が焼けるように痛い。それは、自分の言葉の「熱」だ。強く伝えたいとき、言葉はこんなに熱くて、重い。どうして今まで知らなかったのだろう。一緒にいたのに。ちゃんと渡してやれる場所に、たしかに居たのに。後悔を噛みつぶすように、歯を食いしばって進む果てしない暗闇の向こうを、まっすぐに見据えた。
「そんなふうに、ひとりで泣くな。……いま、そっちに行くから」
おれは、人間の身勝手さも知っている。強欲さも知っている。でも、人のためを想って苦しみ、人のために涙を流せる生き物だということも知っている。それを「弱さ」と呼ぶのなら、その弱さこそがおれとこの世界を繋いでくれた。目の前にいる大切な「友人」と、おれを巡り合わせてくれた。
苦しませてごめんなどと、傲慢なことを言う気はない。恭介が苦しみの中で伸ばしてくれている手を、おれも同じだけの重さを持った手を伸ばして握り返したい。おれは恭介の、友達だから。
「……蘇芳」
暗闇の中で、白衣のポケットを漁って筆を取り出す。少しうしろに立っているはずの蘇芳の方に向けて差し出すと、少しの間の後に蘇芳は筆を受け取った。くんと軽く引かれた感じからすると、いつの間にかおれのすぐ隣まで来ていたようだ。
「……言いたいことはわかりますけど。この闇一面は厄介ですよ。『黒』……とすら呼べない。すべての色が剥ぎ取られています」
蘇芳の鋭い眼は、おそらく周囲に潜む僅かな色も逃すまいとこの空間を見回している。そんな蘇芳の輪郭が、目には映らなくともしっかりと感じ取れる。この闇は、こいつの「黒」を剥ぎ取れない。こんな得体の知れない空間で、得体の知れないおれの隣にこいつはちゃんと立っている。心なしか面倒そうに聴こえる涼しげな声は、でも何も投げ捨ててはいない。べったりとした色なき色の向こうから、色喰いが放つ鋭い妖力の破片を「妖」の目で捉えながら、おれは少し……笑い出したくなった。
一歩踏み出し、蘇芳の気配の前に立つ。腕に熱い感覚が走った。幼いころ、涙で滲む視界で何度も何度も見下ろした真っ白な自分の肌。気づくのに、随分永いことかかった。だって、こんな風に、誰かと、何かと命がけで向き合ってこなかったから。だからずっと……本当は生まれたときからずっと自分の中に在った、唯一の「色」を知らなかった。
鋭い痛みとともに、おれの身体から滲み出る、たしかな色彩。熱くて、鮮やかで、強い色。
「……ずっと一緒にいたって思ったら、笑えるな」
「……彩さん?」
「あったよ、蘇芳。おれの中にも、ひとつだけあった。おまえに預けるから、描いてくれ」
隣で、小さく息を呑む声が聴こえた気がした。おれはたった今まで、この筆とともに譲り受けた力は「自然物」から色を取り出すものだと思っていたし、そういう風にしか使ってこなかった。だから、おれにはわからない。……滴り落ちる自分の「血」から、色を取り出すことができるのかどうか。
闇の中で感じる、自分の鼓動が溶け込んだような温もりにじっと目を凝らす。おれの「妖」の目が、次第に闇に慣れ深い深いその色を微かに捕らえる。
大丈夫だ、と思った。だっておれは、ただの妖ではないし、ただの人間でもない。妖にできないことも、人間にできないこともきっとできる、そういう「変な生きもの」だ。
そして何よりも、この色の名は、いつだっておれに応えてくれたから。
おれは自分の腕を押さえていた掌を解く。溢れる鮮血から目を逸らさずに、唱えた。
『……汝の魂の色、生命を
不思議な色の名。時に残酷な生を与え、おれを
おれの血から滲み出た、少し赤黒くも見える深い深い
「…………まさか、ここで呼ばれるとはね」
「……奥の手、ぽくていいだろ」
「奥の手ねぇ……おれが言うのもなんなんですけど、この色は気難しいんですよ。扱いが難しい」
「おまえみたいだな。ぴったり」
「失礼ですね……まぁ、彩さんが呼び出したんなら大丈夫でしょう」
「……?」
「大丈夫です。彩さんが思っているより、あなたにちゃんと懐いていますよ……この色は」
そう呟くが早いか、蘇芳の指先は辺りを染める闇を鋭く切り裂くように躍動した。大胆に直線を描き、信じられない繊細さで曲線が連なる。滑らかな輪郭、細やかな羽毛、力強い
「……また、すごいもの呼び出したな」
思わずそう呟くと、蘇芳はふっと微笑んだ。筆から溢れた光か、巨大な不死鳥が放つ光かに照らされたその表情は、信じられないほど柔らかで、どこか誇らしげにも見える。
「すごいものの中に在った色ですからね」
「……すごいもの……?」
痛みと熱でぼんやりとした思考で呟き返したとき、不死鳥のはばたきが雷鳴のように響き渡った。一瞬で闇を裂き、恭介の身体から溢れた色喰いの妖力を染め変えていく。しなやかで、どこまでも迷いなく真っすぐに飛び立った炎の鳥は、その見事な羽で灯りをひとつずつ灯していくように辺りを飛び回り、周囲を覆う暗闇を少しずつ晴らしていく。最後に残った濁った黒い靄を自身の身体で燃やし尽くすと、目の醒めるような深く美しい鳴き声を上げて光に変わり、そのままおれの腕の傷に滲む鮮血の中に吸い込まれるようにして消えていった。
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