第41話 青紫の憂鬱9

「……悪い。ちょっとぼんやりした」


「いいですよ。いつものことだし」


「一言多い。……蘇芳、頼むわ」


すぐ隣にいる蘇芳に筆を軽く投げてよこすと、蘇芳は綺麗にキャッチしてから薄く笑った。「はい」と落ち着いた声で返事をし、正面の色喰いに目を向ける。


『明誉の、名のもとに命ず。汝の魂の色……憂慮ゆうりょを恐れぬ優しき宵闇よいやみ、高貴な輝きの紫を現せ!』


足元に咲く小さな野草、そしてプランターで揺れる花村が育てた花々から、少しずつ色味の違う紫色が滲みだし混ざりあう。それでもこの色は濁ることなく深く深く澄み渡る。凛としていて、すべてを包み込む強さを持っている、おれの「友達」のような色。


蘇芳の持つ筆の穂先が優しい紫色に染まると、蘇芳はじっとその色を眺め、腕を大きく天に掲げた。ダイナミックな動きとは裏腹に、指先は細やかに宙を舞い、そこからキラキラと輝く光の線が生まれだす。


じっと目を凝らしてみると、それは紫色に光り輝く鎖ののようだった。アクセサリーのチェーンのように見えなくはないが、どちらかといえばもっとどっしりとした、重みのある鎖の環は、光の角度によって様々に表情を変える。しゃらり、とひとつひとつが擦れ合う音がする。


蘇芳は右手で描き出した鎖を左手で器用に手繰り寄せ、宙を舞わせながら自在に操る。この間、自分のストールを鮮やかに操って見せたときと同じような手つきで。


宙を舞いながら少しずつ少しずつ長くなっていく鎖を筆から放つと、蘇芳は最後に大ぶりな紫水晶を描き加えた。複雑な多面体の形をした水晶は、陽光を反射してあらゆる方向にプリズムのような光を放ち、おれたちを取り囲む色喰いはおののいたように動きを止めた。


「彩さん、お腹空いてます?」


「……え、別に……」


蘇芳はしゃらしゃらと綺麗な音を立てて鎖をもてあそびながら、思い出したようにおれのほうを向いてにこりと笑う。……嫌な予感しかしない。おれは色喰いと同じように後ずさった。


「空いてますよね? こいつら、ちょっと数が多くて厄介なんで。ひとまとめにするから、喰っちゃってください」


「…………美味くなさそう」


「贅沢言わない。あとで口直しに、かき氷くらいおごってあげますから」


蘇芳はそう言いながら、おれの返事を聞く前に鎖を操っていた左手のスナップを思いきり利かせ、先についた水晶の重みを利用して遠くにいる一体の色喰いに向けて放つ。


蘇芳の意思にそのまま反応するように、しなやかな動きで色喰いの身体を捕らえた鎖は、そのまま一体の色喰いを引きずるようにして引き寄せられ、辺りに散らばった靄のような数体を巻き込みながら複雑に絡み合った。


その鮮やかな鎖さばきにしばし呆然としてしまうが、雁字搦めにされた色喰いが目の前に放り出されたのを見て我に返った。黒いモヤモヤにしか見えないこの謎のまとまりを見るとあまり気は進まないのだが、本当に腹の中に収めるわけではないので仕方がないと思い直し、おれは妖の姿に変わる。


蘇芳に初めてこの姿を見られたときのように、真っ白な毛でおおわれた前足で色喰いを押さえつけ、鋭い牙で食らいつくと、すでに蘇芳が描いた「色」の力で妖力の大半を奪われていた色喰いは一瞬で霧散して消えていった。


「いい子ですね、彩さん」


蘇芳はにっと口角を上げ、巨大な狼の姿になったおれの白い毛をわしわしと撫でる。相変わらず恐怖心の欠片もないようなその表情をいつもよりもずっと上からの目線で見下ろして、おれはため息をついた。


『…………撫でるな』


「褒めてんですよ」


しれっとそう言った蘇芳は、「はい」というように手に持った筆を差し出す。おれは人間の姿に戻ってから、思いきり疲れた声で「どーも」と言って朱塗りの筆を受け取った。


「なぁ、なんで鎖なんて描いたんだ?」


いつもの定位置、白衣のポケットに相棒の筆を収めながら蘇芳に尋ねる。いつからか、この筆を蘇芳に渡したときに起こる一瞬の拒絶反応のような現象はすっかり起こらなくなっていた。それは偶然にも、おれが蘇芳にすべてを伝えたとき、その上でこいつを信じると、そう決めたときを境とするような変化だった。


蘇芳はおれの質問に少し考えるように首を傾げた。


「『紫のゆかり』……その昔、血縁関係にあたるつながりをそう呼んでいたらしいです。古典文学にたまに出てくるんですよね。源氏物語の紫の上の由来だとか」


「……へぇ、そうなんだ」


「綺麗で、大切だけどときに人を縛る……なんとなくそんなイメージだったんですよ。おれは、血のつながりがどうとかにはあんまり興味ないですけど。まぁ、なんにしろ家族ってのはときに厄介なものですよね」


「…………そういうもんなのかな」


おれにはわからないけど、という子どもじみた感想が浮かばなかったわけではないが、それ以上に蘇芳の言葉が柔らかく聞こえたから、おれは色喰いが消えていった後の紫の小花の群生を眺めながらふっと表情を緩めた。


花村を縛っているこの風景を、この色を、それでもおれは綺麗だと思う。それは、そうして縛られることを投げ出さない花村の姿を、美しいと思うからだ。きっと彼女は自分で見つける。いつか手放すときが来るとしても、それは「奪われる」ものじゃなくて、「選ぶ」ものであってほしい。


小さく風に揺られる花を眺めるおれを、蘇芳は不思議そうに見返した。


「なんでそんなに他人事ひとごとなんです?」


「や、他人事ってわけじゃないけど……おれには家族とか、いないしな」


結局言わせるのかよ、と苦笑しながら答えると、蘇芳は小さく首を傾げた。


「家族かどうかは知らないですけど、彩さんだって充分縛られてるでしょう。それ」


蘇芳は長い指でおれの白衣のポケットに戻した筆を指さす。明誉が、おれに託した「力」。


「…………」


「ずいぶんと壮大に縛られてますけど、厄介だって思いません?」


「…………はは、そうだな。……けど」


「けど?」


「……意外と、悪くないよ」


何も持たなかった。一人で泣いていた頃のおれは、何にも縛られていなかった。


明誉に出会い、この「力」を受け継ぎ、人の中で生きることを決めた今、おれはもしかしたらあの頃よりずっと不自由で、雁字搦がんじがらめなのかもしれない。けれどそうして縛られながらここに立ち、この目で眺める風景は、皮肉にも鮮やかで、悪くないのだ。


蘇芳はおれの零した独り言のような言葉を聞いて可笑しそうに瞳を細めた。それから、おれの視線を辿るようにあたりの風景を見渡した。


「……そういうもんですかね。おれにはわからないですけど」


「おまえはブレないもんなぁ……。縛られたら倍でしばき返しそうだし……」


「そういう物理的な話じゃないでしょ。しかも人をやからのように言わないでください。そんな失礼な彩さんにはシロップ抜きのかき氷しかおごりません」


「……それって、ただの粉々の氷じゃん」


呆れた声でつぶやくと、蘇芳はにっと口角を上げた。


「粉々の氷を食いながら、色喰いに邪魔されたさっきの話の続きはしっかりとしてもらいますからね。」


「あ、忘れてた」


「……だと思いました。ほら、行きますよ」


ストールの裾を風に揺らしながら涼しげな歩調で歩き出す。優しい色彩の中央に浮かび上がる隙のない黒い背中を眺め、なぜか少し笑い出しそうな気持ちでおれは蘇芳の後を追った。

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