第40話 青紫の憂鬱8
「えーと……たしか」
微かな記憶の断片のようなとっかかりが頭に浮かび、それを言葉にしようとした瞬間、白衣のポケットから異様な気配を感じた。とっさに言いかけた言葉を飲み込み、あたりを見回す。
「? 彩さん?」
「……筆」
「え?」
「筆が反応してる……」
ざわりと湧き上がるような冷ややかな感触。周囲に溢れる「生」のエネルギーが浸食されていく感覚だ。蘇芳は首にかけたストールの裾を払うようにして立ち上がると、「どっち?」と簡潔に訊いた。
「……たぶん、研究棟の近く」
正確な場所が示されるわけではないが、この筆の感知するエネルギーの欠損と、おれの妖の感覚が感知する、色喰いの気配。そのふたつを合わせれば答えを導くのにそれほどの手間はかからない。おれは周囲を見渡しながら、自分の感覚を頼りに走り出した。
走っている途中からなんとなく気づいてはいたが、それでもあまり辿り着きたくはなかった場所に、おれたちは導かれた。多少加減をしたとはいえ、ほとんど全速力に近い状態で走ってきたおれのあとから、ごく僅かな時差で到着した蘇芳が涼しげな声で尋ねる。
「……ここって、研究用の栽培スペースですか?」
「おう……っていうか、おまえはなんでそんなに涼しい顔でおれに追いついてこられるんだ……」
「彩さん見失ったら余分に走らなきゃならないでしょう。それ、面倒なんで」
しれっと言われるが、そもそもそういう「追いつく気があるかないか」の次元の話じゃないと思う。この間のストールさばきといい、こいつの生態だっておれに劣らずたいがい謎だ。いつか、勇気と時間があれば掘り下げてみたい気もするのだが、とりあえず今はそれどころじゃないので無理やり目の前の状況に意識を戻した。
「ここの植物は、ほとんど花村が世話してくれてる」
蘇芳の質問に答えながら辺りを見回す。ここにある花や植物は、花村が香りを抽出したり、品種として香り成分が強められるかどうかの研究を進めたりするときに用いられることが多い。でも、それが彼女にとって単なる「材料」ではないことは、目の前の植物たちの生き生きとした姿を見ればすぐにわかる。
一番大きなプランターに、この間花村が口にしたアキギリやアケボノフウロ、蕾を青紫に染め始めたリンドウの花を見つけ、おれの視線は縫い留められた。
「じゃあ、早く守ってやらないと……彩さん?」
すぐ近くに潜んでいる色喰いの気配がじわりと体温を侵食する。そんな状況にも関わらず、不意に構えを解いて立ちすくんだおれを見て、蘇芳は訝しげに名前を呼んだ。
「…………この色がなくなれば、花村は楽になれるのかな」
ぽつりと零れた言葉は、自分のものとは思えないほど情けないものだった。でも、確かにおれの口から零れた。
花村に父親の話を聞いてから、本当はずっと迷っている。おれが守る、色にまつわる「人の記憶」は幸せなものばかりじゃない。
風に揺れる紫の花弁は、角度を変えるたびに光に影に映り込み、明るく暗く、濃く淡く、複雑に色を変える。この色が、いつも明るく凛とした笑顔を絶やさない花村の表情を曇らせる。それでも彼女はこの色とこの色にまつわる記憶がある限り、これからも深い紫色の香水を作り続けるだろう。
蘇芳は独り言のようにつぶやいたおれの言葉に目を瞬き、そのあとふーとため息をついた。呆れられてもしかたがない。おれは「役目」を果たすために、こうしていつだって蘇芳を巻き込んでいるくせに。
「おれは、花村先輩の『友達』じゃないからわかりません。……けどまぁ、彩さんの相方として言わせてもらえれば」
「………おれの?」
「そんなに大切な人のこと、あんなのに任せちゃっていいんですか?」
蘇芳はそう言って、おれたちの周囲を囲むぬらりとした色喰いの影に目を向ける。すでに芝生に群生する小花の色を飲み込んだらしい色喰いは、形の判別しにくい靄のような姿のまま徐々に輪郭をはっきりとさせ、おれたちを取り囲むようにしながら少しずつ中央のプランターに向かってきていた。
おれはもう一度目の前のプランターに揺れる複雑な紫色に目をやった。綺麗だけど、綺麗なだけじゃない。それでも、これは花村が咲かせた色だ。小さく唇を嚙んで、おれは白衣のポケットから朱塗りの筆を取り出した。
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