第39話 青紫の憂鬱7

夕方近く、強い西日から逃れて木陰で作業をしながら、少しずつ朱に染まり出した空を眺める。


太陽の位置からすると、そろそろ今日最終の講義も終わる時間。いつもならこのあたりで一度手を止め、なんとなく周囲の風景を眺めながら休憩することが多いのだが、今日はなんとなく手を止めたくなかった。


別に深い理由があるわけじゃなく、単に蘇芳が来たときに「ゴロゴロしている」と呼べる状態でいたくなかっただけだ。そんな子どもじみた理由でも今のおれを動かすには充分で、せっせと実験サンプルの植物を採取し続けていると背後でがさりと草を踏む音がした。


「……あれ、今日は寝てないんですね」


夕方の風に吹かれて目元にかかる黒髪を無造作に掻き上げた蘇芳は、地面にしゃがみ込んで採取を続けるおれを眺めて目を瞬いた。


「そうだよ。あれからずっと作業してたんだからな。恐れ入ったか」


そう言って足元から見上げるおれに、蘇芳は可笑しそうに口角を上げる。


「そんなしょーもないポイントでおれを恐れ入らせてどうするんです。もっと他にあるでしょうに」


「……他に? いや、別にないけど」


ただの軽口だろうが、それにしてもおれが蘇芳に「恐れ入りました」なんて言わせるポイントなど思いつくはずもない。そんなところで今さらこの男相手に意地を張ってもしかたがないので、一応の目的は果たしたことに満足しておくことにして一旦作業の手を止めた。


傍らに置いていたケースに色ごとに分類したサンプルを入れていく。蘇芳はしばらく立ったままおれを見下ろしていたが、それから隣に座り込んでじっとこちらを見た。


「…………彩さんって、ほんとに自分のことは見えないんですね」


「え?」


蘇芳は漆黒の目でおれを眺めながらぽつりと呟く。呆れたような声だった。でも、おれを眺める視線はなぜか少し柔らかくて、ふっと眩し気に目を細められ、おれは少し落ち着かない気持ちで目を逸らせた。


「……なんか用があったんじゃなかったのか」


手元に視線を落としたまま呟くと、蘇芳は小さく頷く。


「ちょっと、聞きたいと思って。その筆のこと」


その、と言いながら蘇芳はおれの白衣のポケットを指さす。意外な質問におれは目を瞬いた。


「別にいいけど……今さら? 蘇芳が見てるのがほとんどだと思うぞ」


この筆と「力」は明誉から譲り受けたモノ。おれ自身が持つ「半妖」の力とは別物で、正直なところこの筆と「色喰い」についてはおれ自身にもすべてがわかっているわけではない。


今さら蘇芳に隠し立てをするつもりはないのだが、この件に関しておれの答えられる内容には限りがありそうなので一応の前置きをすると、蘇芳は珍しく少し複雑そうな表情をした。


「…………そんな得体の知れない状態で、よくほいほいと預かる気になれましたね」


「またそうやって人を何も考えてないみたいに……」


「だってそうでしょ」


「別に、何も考えなかったわけじゃねーよ。……ただ、知ろうが知るまいが、一緒だっただけ。の望みなら、何を知ろうがおれは、自分のとる行動を変えるつもりはなかった」


「…………」


「呆れたか?」


目を瞬いておれを眺める蘇芳にそう聞き返すと、蘇芳は少し微笑んで肩をすくめて見せる。


「呆れました。でもまぁそれも今さらです。彩さんに対して呆れるのなんていつものことですから。じゃあ、わかる範囲でいいので教えてください」


「……うん」


やっぱり、今日は蘇芳の声の温度が少しいつもと違うように感じてしまう。並んで座る芝生の感触がなぜか妙にくすぐったい。ずいぶん熱気の落ち着いた風が、蘇芳の黒髪とおれの金色の髪を平等に揺らして通り過ぎていった。


「彩さんは、その『力』を預かってから、ずっとここで暮らしているんですか?」


「うん。ずっとここにいる……というか、ここから離れられないんだ」


「離れられない?」


正直に答えると、蘇芳は訝しげに眉をひそめた。「この筆は、色喰いの気配を感じ取る。色喰いが現れるか、現れる可能性のある場所におれを導く。その引力はおれ自身の妖力よりも強いから、この筆を手にしてから、おれは自由に居場所を変えることはできなくなった」


「…………おれのバイト先には来られましたよね。たしか、以前におれの絵を見たことあるとも言ってたし。彩さんの行動範囲はどれくらい?」


「んー……そんなに厳密に測ったことはないからなぁ……あ、電車には乗ったことない」


「……あんた、自分で走れば山のひとつやふたつ越えられるでしょ」


「妖の姿ならな……。でも疲れるし、おれはこの街が好きだから、別に山越える必要もないんだよ」


呆れ顔でおれを眺めながら話す蘇芳の口調はいつもどおりに涼しげだが、その表情は何かを見極めようとするように微かに鋭さを増す。漆黒の瞳が探るようにこちらを見た。


「あの姿見たあとでそんなインドア宣言されてもね……。超大型室内犬……」


「だーかーらー、犬扱いすんなって言ってるだろ!」


思わず立ち上がって蘇芳を見下ろしながら抗議すると、足元からぐっと腕を引かれる。


「でかい声出さないでください。まだ話終わってません。おすわり」


「~~~~~~~!」


しれっとそう言った蘇芳に引っ張られ、しぶしぶ腰を下ろしたおれは、隣で考え込むように目を伏せる整った顔を睨みつけた。


人間に怯えられるのは辛かった。けれど、ここまで恐れられないというのもそれはそれで複雑というか……意味が分からない。一体こいつの中でおれの位置づけはどうなっているのか。不満と不審の入り混じった表情で蘇芳の横顔を眺めていると、蘇芳が不意にこちらを向いた。


「色喰いってのは、無限に生み出されるもんなんですか」


「……? ……さぁ、どうだったかな……少しは、明誉に聞いた気もするんだけど」


予想外の角度からの質問に、おれは目を瞬いた。明誉からもらった言葉をひとつとしてないがしろにしたつもりはないが、なにしろおれが渡ってきた年月は人間のそれと比べてあまりにも永い。それをわかってくれているのか、頭の中を探る間、蘇芳は急かすことなくじっと黙って待ってくれた。

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